自衛を権利的に主張するとして、そこには、命や人権を超えた生き方の尊さを望む本性が潜んでいる可能性については既に触れた。
にもかかわらず、本性に無自覚なのがほとんどの左派にみられる特徴だが、何故彼らは無自覚なのだろうか。
まず思考の仕分けが下手なのだ。
命を守る必要性と理由、理由を支える心情、さらにその心情がやってくる所以、こうしたものを段階的・連続的に考察し己の矛盾を突き詰めながら、統一性の発見に向け頭を悩ませる作業が不得意なのだろう。
悩む時間があるなら、彼らは行動に切り替える。
しかし悩みが足りないから、行動の過程で発する言論はいつまでたっても進歩しない。一口で語れない難題や、予想しない反論には言葉遊びで切り抜ける。それはそれで小気味いいときもあるが、あくまでその場しのぎだ。
振り返って反省し、次に同じ場面が来たら正統に切り返す準備をしなければ、本当にただの遊びで終わってしまう。
遊びの小気味よさに安住してしまうのが多くの左派を限界づけていると思うのだ。
一方、自衛を義務的にみる際は、自ずと自身への制約がかかる。
義務を果たすためにこうしなければ、ああしなければ、という蓄積が進むから、知性は膨らんでいく。
本当か、と疑う人もいるだろう。
実際、多くの右派が実践できているかといえばそうではなく、彼らの言葉遣いも相当単純化されている。
ここでは自衛を義務的にみる人と右派を同列に扱っているが、正確ではないことを注意しておく。
右派であるなら、保守派を自負するのなら、「自衛は義務であれ」との私の価値観を反映しているだけにすぎない。
「歴史の継続性を保守する」のが保守派だとしたら、保守の行動原理は権利より義務に寄っているはずだ。
真の保守派は「国民の命を守れ」と軽々に言い放ってはいけない。
決して命をぞんざいに扱うのではなく、しかし、命より大切なものがある。
どうしても「命を守れ」と声高に言わなければならないとしたら、それは命以外のものを守るためにそうする必要があるからだ。
その期待と空恐ろしさを逃げずに受け入れ、聴衆に蔑まれようと確信を持って話続ける。
見当外れな誤解には反論し、いくら言っても分からぬ者には激高してみせるのも恐れない。
望ましい保守の最低限の態度だ。
西部氏は紛れもない保守だった。
佐高氏は左派寄りだが西部氏に触れ、共通項に気付き交流を深めた。
私が目を奪われたのは西部氏に感化されていく佐高氏の過程であり、佐高氏を感化する西部氏の生き様だった。
つまりそれは、私が憧れたものの正体とは西部氏そのものだったことを意味しよう。
佐高氏と交わったことで西部氏の魅力がより光度を増したのも寄与したと思う。
佐高氏がいなければ西部氏にそこまで関心を抱いたりしなかったかもしれないからである。
いずれにせよ、私の関心の中心は西部氏にあった。
ではなぜ、西部氏に惹かれたのか。
西部氏の言論に触れるに当たっては、聞く側にこつがいる。
生きることと死ぬことを同じ重さでみなければならない。
つまり、生きるより死ぬ理由が勝れば死のう、である。
この前提条件をわきまえてないと西部氏にはついていけない。玉砕的な言動の裏には、玉砕してでも守りたいものが潜んでいると知るべきだ。
そんなこと言ったって死んだらお終いじゃないか、と異議を唱える方々はあちこちにいる。彼らを説得する術を私は知らない。
しかしこれこそ、左派右派の分類より核心的な分類となる。
生き続けることに疑問を持つ者と、そうでない者の分類だ。
生きることに疑問を持つということは、命より上位の価値があるのではないかと予感している証拠だろう。
この感覚こそ保守派の極意といえる。
歴史はさまざまな社会構造の連なりであるから、命だけを重視するわけにはいかない。この事実に率直に向き合えるのが真の保守派なのだと思う。
西部氏はそのような人物であり、その姿に私は憧れたのだ。
私が指摘する意味での保守派は左派の中にもいるだろう。
物事の論じ方を知らないがために周りから左派のレッテルを張られ、自分でもそう思っているとしたら虚しい。
結局は自分で気付くしかないのだが、その機会が現代ではめっきり少なくなっている。
生前の西部氏を知っている私は幸運だった。