lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 21 仏国の早き回復に驚く

四 その難関

 

けれども独露墺三国間には、眞個の同盟を構成せしむるまでには至りかねる困難の事情あった。

もっとも1873年の5月、墺都校外のシェンブルン宮殿において三帝間に一の黙契が成立した。これが世上three emperors’league と称されたものである。

けれども、実はこれは同盟と銘を打つほどのものではなく、単に三帝は将来利害の衝突を能う限り緩和せしめ、かつ外部からの攻撃を受くるが如き場合には、他に同盟を求むるに先立ち、能う限り意見の一致を期するに努べしということを約束したにとどまる。

この毒にも薬にもならざる空漠たる『三帝同盟』も、1885年までは薄ぼんやりと存在しておらぬではなかったが、同年ハンガリー問題に関する露独の意見衝突、即ち露国がバッテンベルグ公家の君主をハンガリーの公位より排斥し、ハンガリーを自国の属邦となさんとしたのに対し、ビスマルクが墺伊およびルーマニアと相結んでこれに対抗するあるに及び、ついに名実ともに消滅するに至った。

思うに当時アンドラシーの意図は、元々中央ヨーロッパにおいて現状を維持し、よってもって専らスラブ族圧迫(ハンガリーの異民族はスラブが主なるものである)の目的を達せんがため、すなわち独露と相結ぶに利ありと認めたに過ぎないで、進んでドイツの対仏政策に協同動作を執るという考えは初めからなかった。

露国とても、徒にビスマルクの機械となりて仏国を苦しめる手先に使わるるのを欲しない。

現に前述の1872年のベルリンにおける三帝会見の際、露帝アレキサンドルはその駐仏大使をして仏国大統領チエールに対し、仏国はこの会見をもって何ら憂惧すべきものと見るを要せずと述べしめ、露帝扈従の外相ゴルチァコフも在ベルリン仏国大使に、仏国の強大は露国の欣然期待し切実に希望するところなる旨を言明したるほどであった。

 

五 ビ公仏国の国力回復の早きに驚く

 

露国の仏国に対するこの好意的態度は、普仏戦役後五年を出でさる1875年の初夏に、独仏間に再開戦の危機が世に伝わりし際にも表明せられた。

同75年の5月6日、たまたまロンドンタイムス紙上に、有名なる同社のパリ特派通信員ブロウネッツの一大記事が現れた。

長文であるが、要領はドイツは仏国の国力回復の意外に早きに驚き、その充分回復し終わるに先立ち今一鉄槌を仏国の頭上に加えんと鋭意画策中なりというにありて、添ゆるに列国の形勢に関する所見を以ってし、万一独仏の再度の開戦の場合には列国の多くは依然中立を支持すべきも、独り露国の態度に至りてはドイツに取りて安心ならずと結んだものである。

しかしてこの記事は、彼がパリ外務省にて親しく閲みし得たる在ベルリン仏国大使の機密報告に基づいて書き、かつ彼は、この記事が公表せらるれば必然ドイツ側よりも弁駁的記事が現れ、ために欧州の不安は一掃せらるべく、方々以って欧州の平和維持に貢献するの結果なるべしとの信念からこれを草したものだと云われた。

タイムス社にては5月5日に彼の右の通信に接するや、大事に大事を取り、他の欧州重要都市に駐在する同社通信員に命じて独仏の関係に関する最近の情報を打電せしめ、またロンドンの外交通の所見をも徴し、大体間違いなしとの見当を定めて翌日これを発表したのであるが、とにかうその極めて重大性の記事であっただけ、欧州外交界には甚大の衝動を与えた。

事実当時ビスマルクの頭脳を最も強く悩ましたものは他にあらず、仏国の国力の回復が意外に早いことである。

彼は普仏戦争の講和談判に臨める際よりして、仏国をば未来永劫ドイツに対し台頭するを得ざる程度に敲きつけて置かざるべからざるものと認めた。そのア・ロ両州を割取し、50億フランという当年にありては頗る巨額の、しかも四カ年賦という短期の借金を強課したのも、畢竟これがためであった。

然るにこの借金をば、仏国は易々と償却した。借金の皆済期は1875年2月末であったのに、仏国はこれに先立つ2年半の73年9月5日を以って完済し、ドイツの占領軍隊を予定よりも早く、同年7月5日までに撤退せしめた。

ビスマルクは仏国の経済力の回復の意外に早きに驚き、巨額の借金必ずしも巨額にあらざりしのみか、いささか少額に失したるを今さら悔いた。