lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【久々更新、今後も順次】鉄血宰相ビスマルク傳 20 これ言わば一種の神聖同盟

     三 先ず独露墺の三帝同盟を試む

 

しかるに国外を見れば、戦敗の仏国においては、少なくも表面には復讐熱が頗る高く、ア・ロ両州奪回熱は極めて強烈で、従ってドイツにあきたらず他の列国は、いずれも仏国の援助を無条件にて得ることのできるような形勢であった。ビスマルクはこれを怖れた。

仏国と他国との連合の出現を痛く気遣った。

しかしてその対独連合の成立を遮り、あくまで現状維持を計るには、我が方においても外交的一連合を作ってこれに当たるのを最良効なりと認めたる彼は、その外交の舵機をまずこの針路に向けた。しかして彼がまず目指す津口としたのは、独露墺の三国同盟をつくることであった。

この考えは彼既に普仏戦役のたけなわなる頃から胸中に抱き、セダンの役終わりて独軍がパリの攻威に着手せる1870年の9月、既に露墺両国筋に試探し始めたものである。

元来独露の両国は、両皇室間の親睦は勿論(露帝アレキサンドル2世は独帝ウイルヘルムの甥という親戚関係もあった)、相互の国民的感情も決して悪くはなかった。往昔フリードリッヒ大王の時に普と露は相闘い、また1812年に普が一時ナポレオンと連合して露を敵にしたことはあるが、この2回のことを外にせば、普露両国は古来概して親善の間柄であったのである。

ビスマルクもかつては駐露大使として親しく善隣の局に当たり、殊にポーランドの反乱に際し普は敢えてこれに乗ぜず、その機会を利用せず、叛徒に援助を与えるが如きことを為さなかったので、露は大いに普を徳とした、という事情もあった。

されば普仏の役に際しても、普は1856年のパリ条約規定の黒海の軍艦に関する拘束を廃棄せんと欲する露の希望に対し、これに同意することを条件として優に露の好意的中立を買い得たるほどであった。

故に独露の同盟なるものは、必ずしも不可能という訳でもない、とビスマルクの眼には当初映したのである。

ドイツとオーストリアとの同盟も、ビスマルクは当初からその必要を認めた。

けれども、その間に横たわる難関を排除するのは、容易に似て実は容易ではなかった。

往時フリードリッヒ大王のシレシア観取は、墺国民の忘れんと欲して忘れるるあたはざるところである。加えるに66年の役には、普軍より大敗を受け、ついにドイツ連邦より駆逐せられた。

その怨恨は墺国民の骨髄に徹した。墺匈国外相ボイストの如きは、ビスマルクを極度に憎悪した。

しかるにビスマルクはつとに独墺両国の将来に鑑みるところあって、66年の講和に際しても既に抑譲の態度に出でた。しかし目的通りオーストリアをドイツ連邦外に駆逐しえたるのちは、今度は大いに墺との握手に努めた。墺も次第にこれを諒とし、次第に往年の屈辱を忘るるようになってきた。

ただ面倒なるは前述のボイスト外相である。

彼はあくまでドイツに悪感を有し、あくまでその提携を避くるに傾いた。

これにおいてかビスマルクは墺匈国の内政の混乱を利用し、ボイストを叩き落とすの策に出でた。

ボイストは墺匈国にてゲルマン族を代表する者である。ビスマルクは即ちゲルマン族と相容れざるマギヤール族を使送とし、これによりてその目的を貫徹せしむることを画策した。

というは、マギヤール族の本拠であるハンガリーは66年の敗戦に関しては、甚だしき影響を受けておらぬ。オーストリアがドイツ連邦より除外せられたことに対しても、むしろ痛痒相関せざるの風であった。

ハンガリーの唯一の希望は、国内の異民族たるゲルマン族、スラブ族、その他を抑圧してマギヤール族の独り天下となし、かつ東南に突進してバルカンの千里の沃野をその手に入れんとするにある。

しかしてその希望を達するには、ビスマルクと結託するのが最捷経路であるとみてとった。

この画策を代表したる者は、マギヤール族の総大将アンドラシーである。

アンドラシーはこの希望をビスマルクにおいて援助するの黙契の下に彼と握手した。

しかしてその第一階梯として、彼は首尾よくボイストを蹴落とし、自身代わって墺匈国の外相となった。アンドラシーの外相就任は、墺匈国はドイツ帝国の新位地を挙げて承認すること、墺匈国はバルカン方面に活動するという代償を得ること、墺匈国はドイツと提携して欧州の国際政局に臨むことなどの方針を意味したものである。

ドイツは露国との関係は前述の如く悪くない。また墺匈国との握手もかくの如くにしてまずできた。

然らばその三画提携の両対角たる墺と露との関係はどうであるか。

これは頗る難しい。

墺露両国はは由来バルカンにおける争覇的競争者である。アンドラシーはマギヤール族をして国内のスラブ族は勿論、進んではバルカンのスラブ族をもその制御の下に置かんとするに志がある。

然るに露国は隠然バルカンスラブ族の保護者を以って自任し、これに援助を与えんとする。

加えるに露国は、ガリシアポーランド族の向背に就いて常に悩まされている。しかして墺匈国は、このポーランドに隠然後援をする。故に墺露両国の利害は兎角に衝突し、両国互いに相反目するの様であった。

されどアンドラシーは、露国とあたふべくんば握手するの利を認めぬではなかった。この点においては、彼は前任のボイストよりも強い墺露提携論者であった。

そこで彼は、露国にしてダニュブ及びバルカンのスラブ族をマギヤール族が統御することを黙認するならば、墺は露に反抗せんとするポーランド族に一切援助を与えざるべし、との交換条件を以って両国の融和を計らんと試探してみた。

露は大体において承認するの色を示した。

そこでビスマルクは、三国妥協成立の確認の表彰として、老帝ウイルヘルムにまず以って墺帝訪問のことを勧奏した。

帝これを容れ、1871年8月墺帝フランツヨセフをその離宮の所在地たるイシルに訪問した。しかして後程なく、墺帝はサルツブルグ行在の独帝に答訪の禮を致した。

またオーストリアのウイルヘルム大公はアンドラシーの慫慂により、翌72年夏の露国大演習に参列し、しかしてこれに対し露帝は、その9月ベルリンに独墺両帝と会見し、翌年も翌々年も相次いで三帝の会合があり、独墺露三国の関係は一見すこぶる親好の厚きを示した。

ただに示したのみにとどまらず、事実三帝間には、1871年に立てられたる領土的現状を将来に維持すること、近東問題を三帝間に妥協的に解決するの妙案を攻究すること、各自国内における革命的社会主義の勃興をいずれも抑圧すること、の大体の話し合いがまとまった。

これ言わば一種の神聖同盟である。

加えるにビスマルクは、この機会を利用して素早く露国との間に一種の軍事協定を取り結び(1873年4月24日)、以って三帝同盟の画策の実現に向かって一歩を進めた。

されば欧州外交界においては、三帝同盟は事実的になれりと信ずるものあり、はた遠からず成るべきものと観測するものあるに至った。