lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 23 転じて独墺同盟

六 三帝同盟立ち消えとなる

 

されど、この危機に際し列国外交家の観測し得たる欧州の情勢は外でもない、即ち独墺露三帝の親交、殊に独露のそれも、以って仏国を圧迫するの具に供するに力たらざりしことを証明した一事である。

のみならず墺露間における前述の妥協も実は一場の夢で、バルカンにおける両国の利害は爾後ことごとに反発し、1876年の6・7月の交、一時は両国干戈の間に相見えんとする険悪なる形勢ともなった。

当時アレキサンドルは、露墺がバルカン問題で衝突する場合にはドイツは中立を守るや如何をビスマルクに突き止めた。ビスマルクは巧みに明答するを避け、墺露両国ともに我が親交国であるから、主義としては中立を守るが、露国の対墺態度には自ずから制限あるを要し、その制限を越えては、ドイツは必ずしも超然不関の態度を執るべき限りにあらず、との胸を婉曲に答えた。

ビスマルクのこの態度を知りたる露国は、その対墺開戦の不得策なるを感じたので、別途の外交的経路により、ついにトルコと一戦するようになった。

しかして露土戦争の後始末たる1879年のベルリン会議に於いて、独墺及び墺露の関係は調和当分不可能という情勢を呈するに至った。これらの事情で、独露墺の三国相結んで仏国に備えんとするビスマルクの当初の胸案は、事実ついに全く不可能を立証せられたのである。

ベルリン会議のことは別項にて述べるが、この会議に於いて露国の外交は一敗地にまみれ、それがため露国と独墺両国との間には、急に反感が高まった。

露国はビスマルクを以って己を売れるものとなし、痛く彼に含むあるに至った。

東欧に強大を自負するスラブ族がゲルマン族を代表するビスマルク及びマギヤール族を代表するアンドラシーより重大なる屈辱を受けたと感じては、その憤慨の尋常にあらざりしは察するに難からぬところである。

ビスマルクは果たして墺のために露を売れる薄情漢であったか。事実は必ずしも悉く然りとはいえない。

彼は自身『自分は正直な仲買に過ぎない』といい、また『ドイツはバルカン問題には直接の利害を有しない』といえるが如く、必ずしも墺のために露を抑えるのみがその方針ではなかった。かつ彼は露を怒らすことの不利不得策なることは百も承知しておった。

けれども露はしかくは見ず、あくまで彼を以って友情を欠ける不徳漢となし、露都諸新聞は挙げて彼を誹罵してやまない。

露国政府はドイツに面する国境にことさら大兵を駐屯せしめ、またドイツよりの輸入品には重税を課し、また露国の皇族大官にしてベルリンを過ぐる者も、ビスマルクには特に訪問面接を避けるの風であった。あたかもベルリン会議の翌年9月3日、独露両帝のポーランドのアレキサンドロヴウに於いて会見をなすや、これを聞き知れる他列国は、独露両国間の関係緩和せりとみて大いに慶賀した。

けれども露国のビスマルクに対する不快の感は、これがために拭い去るを得なかった。

しかして更に墺匈国内をみれば、同国がベルリン条約によりボスニア・ヘルツェゴビナ両州の占領管治に着手せんとするや、民族的反感はたちまちにして現れ、州民は墺匈軍に抗拒し、セルヴィも同州民に声援を与え、墺匈国内のチェック族、スラブ族の如きもまたこれに同情を表し、政府に反抗してはばからない。

墺匈国政府はこれを目して露国の鼓吹にいずるものとなし、露国に対し大いに不快の念を抱いた。

 

七 転じて独墺同盟

 

ビスマルクは露国をドイツの敵となすの不利を認めしのみならず、露国の排独的態度は一時的でかつ感情的にすぎざるものと認め、露国の態度如何に関せず己よりは依然努めて露国に接近するの方針を執った。

けれども彼は、墺露の衝突は感情的でなくして利害の衝突であるから、到底融和し難き永久的のものと認めた。

然りしこうしてドイツにして墺露両国と同時に同盟をつくること到底不可能なりとせば、やむなくいずれかその一を取り一を捨てざるべからざるに於いて、結局露を捨てて墺に与するに利ありと打算した。

ただ彼は、一にはハンガリー輿論の動揺、二にはオーストリアのゲルマン族の向背、三には新教徒に対するカトリック教徒の優勢となる危険等についてしばしは苦慮した。

けれども結局利害を秤にかけて独墺同盟断行に決意した。

老帝ウイルヘルムはこれを喜ばれない。

帝は66年の対墺戦争の夢よりなお十分に覚めない。

かつプロシアが露国より1863年に、同66年および同70年に、累次受けたところの好意を忘れない。

のみならず露帝アレキサンドルは、当時ウイルヘルムに親翰を送り(1879年8月15日)、己の老帝に対する友情の依然変わらざること、しかもビスマルクの対露態度の近時はなはだ面白からざることを縷々披歴し、ついで両帝は、前述の如く親しくアレキサンドロヴオに相会し、固く友情を契したる次第もあったので、老帝は露国の反感を買うべき独墺同盟には甚だ不賛成であった。のみならず、独墺同盟の内容そのものについても、帝はこれを偏務的なりとして頗る不満足であった。

帝がビスマルクの意見書の一に、欄外に鉛筆で走り書きしたものに、

『仏国が我が国に攻撃を加える場合にはオーストリアは中立を守るにとどまるに、オーストリアが露国より攻撃を受ける場合には我が国は何故に全兵力を挙げてオーストリアを援助せざるべからざるか。露国より攻撃を受けたるオーストリアに対し我が国のなすべきところのものは、仏国より攻撃を受けたる我が国に対しオーストリアの当然なさねばならぬところのものではないか。・・・これは不対等である。

かつ本同盟の成立は必然露仏を相結ばしむるに至るべく、したがって仏国をしてその復讐心を助長せしむるを避け難しとす。仏国としては、独墺両国を東西の両砲火の間に挟む以上の好局面は望み得られない。

・・・本同盟にして世に知られ、またはその存在をかぎつけらるれば、仏露は必然相提携するに相違ない』

独墺同盟に伴いて露仏同盟の必然性を予断したのは、さすがに老帝の達見であった。

ビスマルクとて、彼の炯眼なる、勿論そこに気付かぬはずは無い。

けれども彼は、露仏同盟の必然性を犠牲にしてもなおかつ独墺の同盟の成立に向かってぼく進するの利を認めた。故に彼は、職を賭してその利を切々勧奏し、ようやく老帝の乗り気なき裁可を得た。

のみならず老帝には、この際内密に露国に向かって、露国にして墺独両国の一に攻撃を加える場合には両国の共同対抗を受くべきことをあらかじめ暗示しておき、よってもって露国をして開戦の相手を墺匈国のみに擬想してかかるの誤算を予防せしめんとの意見であった。けれども、これもビスマルクの力諫でようやく止めになった。以って老帝の如何に露国との親善関係を顧念するに厚かりしかを察すべきである。

然りしこうして墺匈国側にありても、アンドラシーは掉尾の大事業としてこれに当たり、ついに閣議の一致を見たので、ベルリン会議の翌年即ち1879年(明治12年)の10月、ビスマルクの墺都訪問中、独墺同盟条約は同月7日をもってウイーンにて調印となった。