lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 22 列国の態度を看破

あまつさえ、独仏両国民の反感は戦後ますます高まるの状であった。

ビスマルクもチエールも衷心平和の維持を望むに切であったが、これを望めば望むほど、両国民の猜疑は却って長ずるのみであった。

仏国の朝野政治家は、戦後の仏国はその内面的組織を改造しかつ国民生活の安定を計るを以って急務なりとなし、これに必要なる諸般の画策を講ずれば、それがドイツの眼には復讐戦の準備の如くに映じ、またドイツが一は欧州平和の維持のため、一は仏国の復讐戦に備えんがため、前述の如き三帝会同を催せば、それが仏国には自国に対する再選準備、攻勢計画と反響するという始末で、誤解は猜疑を生じ、猜疑は反感と化し、加えるに当時仏国は兵役法を改正し、ドイツに匹敵する常備兵数を置くことにしたことは甚大の刺激をドイツに与え、自然仏国に止めを刺すならば今のうち、という考えがドイツの軍部内に強く萌し来たのは怪しむべくもない。

けれどもビスマルクは、列国の態度を看破するにおいて決して人後に落ちない。

彼は露国が70年の普仏の役における中立維持の御礼がはなはだ手薄かりしに不満を抱き、再度の中立は到底期待し得ざるものなることを見抜いた。また英国の中立も、これまた安くは買えないことを承知した。

ただに露英の態度のみならず、他列国のそれもドイツにとりて決して70年の時ほどに有利でないことをも彼は夙に看破した。

故に75年の危機は、彼が仏国を敲き潰してその再興の根を断たんと企てたる決心の反映なりと多くの外交史上には書かれてある。

けれどもドイツの当年の軍部の意見はとにかくとし、列国殊に露国の去就向背を最も重要視せる彼ビスマルクが軽々しく再開戰の危険を冒すの決心をなすはずは無かったものと見るが当たれりである。

加えるに英露両帝のその間に処せる好意的斡旋もあり。かたがた独福の国交の再破裂は、彼が大事を取りし如くにこれを見るに至らなかった。

もちろん当時のビスマルクの胸算は、一に仏国の対外的活動力を鈍らし、以ってドイツに対する復讐を不可能ならしめんとするにあった。

この胸算あるが故に、彼は露国との親交をあくまで確保し、以ってあたふ限り露仏の接近を防遏するに努めたると同時に、仏国をして長しえに共和制を維持せしむることによりて強硬なる外交方針を執るあたはざらしめんと欲したものである。

今日は、一国の外交方針を決するものは国民の輿論で、国君宰臣の独りよくするところではないから、国体政体の異同によりて外交方針に硬軟の差を生ずる理はないが、昔日にありては、外交に対する国民の監督力が微弱であるとともに国君宰臣の独断断行の余地が広かったから、自然共和政は強硬なる外交をなすに適せずとの定解あるを致した。

ビスマルクの所見もまたそうであった。

これについては彼にこういう事実もある。

普仏戦役後、仏国に於いて余膳の帝政党がややもすれば復僻運動を起こさんとしたが、ビスマルクは仏国をして共和制を維持せしむるに利ありとし、隠然一尾の力を共和党にかしたことは隠れなき事実である。

これも畢竟、仏国にして共和制にてある限り、強硬なる対外政策を実行するあたはずと見て取ったからである。

当時たまたまパリ駐箚のドイツ大使にアルニム伯というのがあった。彼は名門の出で、かつ閲歴技能ともに備われるドイツ有数の外交家と称せられ、ビスマルクの推挙にて戦後まもなくパリに赴任した者である。然るに彼は、恩を仇で返した。

彼は仏国をして帝政に復帰せしむるを以ってドイツに取りても有利なりとし、かつビルマルクの対仏政策にあきたらざるに加え、カイゼルに取り入りてビスマルクの位地を奪い、ドイツ帝国の外交方針を己の方寸より出さんとするの非望を抱き、新聞紙をかりてビスマルクを攻撃し、また帝に直接捧呈せる意見上申中において、帝に気に入るような帝政の功能を縷々記述したものである。

そのほかかれは皇后アウグスタにも取り入り、ビスマルクの排せいを企てた。

それらの陰暴露するとともに、宰相は当時彼の処分方を奏上し、お慈悲を以って彼を在トルコ大使に転任せしめた。

然るに間もなく彼に官文書窃取という問題起こり、容赦なく法に問われ、審理の結果禁固9カ月の宣告を受け、刑後彼は一時スイスに出奔したが、彼は同国にありて更に皇帝および宰相に対する誹きの文書を公刊したので、欠席裁判にて5年の重禁錮に処せられた。

彼は冤を雪がんがため、ドイツ高等裁判所に出頭して釈明せんと決心し、ニースまで来たるに、同地にて急に病死した。

彼の司法処分方については、ロンドンタイムスの如きは当時ビスマルクの外交には好感を表せざりしに関わらず、これを当然のことと為し、もしこれが英国にて起こったとしたならば、官紀の振粛上寸毫も仮借せざりしものと論ぜしほどであった