フロアを回る今宵の玲子の愛嬌は普段の倍。
元々人気があるので、男性客のファンを増やすのは必然かと想像させる夜だ。今後の人生で、女性受けする慎ましさも身に付ければ言うことはない。そうした魅力と未熟さをフランチェスコはよく承知している。
朱美を迎えに行く前、フランチェスコは常連のテーブルに顔を見せた。他愛ない話をしてテーブルを離れたら、すれ違う玲子の肩をさっと撫で、店を出る。玲子にとっては気にもとめないことだった。
「もし、そこのあなた」
常連のテーブルの一人が手招きしてくる。
「このスプーン、柄の部分が汚れているわ。取り替えて下さらない」
玲子には認識できなかったが、「すぐお取り替えいたします」
「こんなこと初めてだわ。あなたが置いたのかしら」
「はい、このお席はおそらく」
「ついてないってことね、今夜は。あなたのお顔、何度か拝見しているけど、お仕事に慣れてきて気が緩んでいるのではなくて? お料理がどんなに素敵でも食器が汚れていては台無しよ」
「申し訳ございません」
玲子はまたスプーンを確認する。汚れは分からなかった。
「あなた今、スプーンに目を落としたわね。汚れを探したでしょう。どういうつもり。私が嘘をついてるって、難癖をつけてるって、そう言いたいのかしら」
「そんなつもりは。今新しいのをお持ちいたします」
「待ちなさいな。あなた、見た目も綺麗で物腰も丁寧でいらっしゃるけど、誠意に欠けるようね。オーナーのフランチェスコさんがあなたは優秀だとお褒めになってらしたけど、そんな様じゃ、あの人が恥をかくようじゃなくて?」
「オーナーが……」
今夜は調子がいいと思っていたのに、崩された。
同じテーブルの別の客たちが場をなだめるが、一度始まった嫌味は簡単には止まらない。そこへ上原が駆け付ける。顔を立ててもらい、場を収める。裏に下がって玲子の顔をちらっとのぞいた。初めてかもしれない、瞳が潤んでるように見えた。
「ごめんなさい。恥ずかしいですね、格好つけといて」
「あの女性、あそこまで言ってくる方じゃないんだけど」
「たぶんですけど」
玲子は目元を拭った。
「あの人、オーナーの昔の女です。分かるんです、そういうの。不覚ですわ、ちくしょう」
偶然か、それとも嫌がらせのために昔の女をけしかけたのか。いずれにせよ、問題はそこではない。
誠意に欠けると言われ、認めてしまい動揺した自分がいた。オーナーや上原や斎藤や多々良に貶されたのなら、なにクソとも切り替えられるが、赤の他人に核心を知られ、そして突かれ、弱さが瞬間的に大きくなった。それが仮に、オーナーの入れ知恵だったとしたらよくできてるし、違ったとしたら単純にやられてしまった。
店を辞める不安が関係していたかもしれない。明るく振る舞うのは不安からの逃避ともとれる。
決心は揺らぎやすいものだ。決心することを決心しようと決心し、さらにそれを……。
そうして心を補強しようとする。
いつ完成するとも知れない、気が遠くなる作業に心が折れることもある。折れても揺るぎないものに気付いてしまった時、その人はある面ではラッキー、別のある面では不幸といえる。気が遠くなるどころか、気が違った作業を呪われた如く継続せずにはいられなくなるからだ。
他人を置き去りにするこの境地は、孤立や傲慢と非難されることだってある。本人は違った認識を持っていても、じゃあ説明してみてよと問いかけられるだろう。では答えようじゃないか! こいつは孤立や傲慢ではない、孤軍奮闘というのだ!
それでも納得しない方々にはこの言葉を贈る。安心しろ、俺は、私は、どうせ一人で憤死する!
念のため指摘しておくが、玲子の命はまだずっと続く。その過程で蹴躓かせることにフランチェスコは長けているのだ。テロリストの才能があるのだ。
一時間くらいしてフランチェスコが帰ってきた、朱美を連れて……。
うん? おいおい、こいつはどういういきさつだ、二人の後ろにもう一人いる。
今度は上原がどきっとする。
唯じゃないか。顔が見られて嬉しい、なんて呑気に考えてる場合じゃない。
「一日に二パターンの服装が見られてラッキーだけど、どうして」
「ごめんなさい。どうしてもって誘われて、朱美さん、私の友達がね……」
「初めまして。あなたが唯ちゃんの」
自己紹介の後、朱美は上原をゆったり観察する。
……ふうん、こういう感じか、賢そうね、あっちの方は普通っぽいけど。
フランチェスコはウキウキした気分で二人をテーブルに案内した。
「まさか上原君の恋人だったとは、驚いたよ。朱美から、どうしてもってせがまれてね。しかし、突然予約が三人に増えたと言われたら、真実も困るね。僕の分の料理は坂下さんに。僕には適当に見繕ったものを出すよう、安西君にでもお願いしといてくれるかい」
唯に告白したのは今日だ。だから偶然とは思うが、このオーナー、フランチェスコ大滝には妙な巡り会いの運がある。上原はいい気分ではない。
上原の彼女が来店したという話は厨房にも高速で伝わった。
「見たいなあ。綺麗系、それとも可愛い系かな?」
まさか以前お茶を一緒に飲んだ女が相手とは気付いていない安西の手が、疎かになりかけた。真実から軽蔑の視線を送られる前に、調理に集中する。俺だって変わらなければ。歩みが他より遅くとも、置いてけぼりはごめんさ。恥ずかしさを抱えても一歩ずつ、みんなだってそうだったんでしょ? こいつだって……。
俺、ひょっとしてこいつのこと好きなのかな。なんて考えが頭をよぎる。
いやいや違う、俺の好みは唐さんのような洗練された美人だ。まあ確かに、こいつもよく観察すれば悪くない顔の形してるともいえるけど、唐さんに比べたらなあ。けどなあ、啖呵切った時のこいつの姿なんかは嫌いじゃないような。
ようはギャップか? ギャップに弱いのか俺は? じゃあ唐さんのギャップも早いとこ確認しないと。
そうだ、ようし、今度食事に誘おう。俺の変化に向けた一歩ということで。そうだよ、よし、やる、やるぞぁぁ。
「安西ぃ、今日は動きがキレてるじゃないか。その調子、その感覚を維持しろよっ!」
斎藤の檄が飛び、安西の背筋がより熱を帯びた。斎藤の動きはもっとキレッキレ。やっぱ、この人はかっちょええなと再確認する。
みっともない姿も目撃しちゃったけど、その分苦悩を知れた気もする。せめてものたむけとして、戦って生きるとはこういうことか、なんて格好つけた解釈でも付けてやろうか。
真実だけが、厨房の他のスタッフたちと相容れない雰囲気をまとっている。今はオーナーの期待に応える、それだけ。たった一回料理を成功させたくらいで斎藤を見返せないことは重々承知している。次に繋げる機会にするのだ。必ずだ。
「手伝うことがあれば聞くぞ」
「ありがとうございます。ないですけど、ありがとうございます」
見ている側がぞっとする斎藤と真実のやり取り。このまま仲違いで終わってしまっては勿体ない才能の二人なのに。完成した料理を唯たちが平らげたら、そうなってしまう。