lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと㉑ まったく、本当に君が好きだ!

「優ちゃんは入らないの? ちょっと冷たいけど慣れれば気持ちいいよ」

勇人の手を使って唯が手招きする。

彼女にも、この時間が決断の時という予感があった。強くありたい、人として母として女として……。

上原にただ頼るだけの存在ではいたくなかった。彼にとってためになる、与えられる何かが自分にあるか、重要なことだ。仮に、そばにいてくれるだけで嬉しいという言葉をかけられても、甘えたくない。

離婚した人間がまた人を好きになるには、より自分が成長してなければならないと考えるのは不幸ぶった驕りとは違うはずだ。年を重ねなければ知り得ないもの、納得できないものは必ずある。まして自分のような凡人がすべてに気付くには千年あっても足りないだろう。そんな私を彼が好きだとしたら、理由なんて発見できないよ。だから、これが理由でしょ、と得意気に言えるものを持ちたい。

付き合う前からの惚気とさえ揶揄されるかもしれないが、自分と向き合おうとする真剣さに無駄骨はない。せめてもの義務といえた。

昨夜、叔母の千恵と電話で話した。ある人(大抵の人)は言う、人生は一度きりだから後悔しないよう生きろと。しかし千恵は違う意見を示した。

「一度きりだから、やり直しがきかないから、人は必ず後悔するものなの。大切なのは、もしあの時ああしていたらと後悔してしまう力みを、経験し得ない別の人生の可能性にまで思いを馳せ人格を豊かにする力へと変えることよ」。唯も同じ考えを持ちたいと思った。

何かを実行するのはそれを思い立つよりはるかに難しくとも、思い立つことなく終わるよりずっといい。その点はあの朱美も似ている。彼女の場合は、果てしない後悔を求めるが如く、後悔させられるのならさせてみなさい、くらいの勢いで突っ切ってる違いはあったが。

 

付かず離れずの関係は、悩ましくとも居心地がいいという側面もある。現状維持とテロリズムには共通点があるとの俗説をご存じだろうか。

テロは恐怖で人々を硬直させ、状況の進展を阻む作用がある。ゆえに、現状維持に甘んじる人間はみなテロリストの才能があるらしい。今ある現状が何より素敵なものであれば、それを維持したいとの欲求は恥じる必要はない。問題は、そんな現状が現実にあるとは素直に信じられないことだ。

結局は、リスク回避を建前とした臆病か怠慢か、それとも無能か。恋愛にも当てはまる俗説かどうかは、議論の余地が十分あるだろう。

一つ言えるのは、唯も上原もテロリストには向かない。唯は臆病じゃないし、上原も怠け者と呼ぶには自己省察が多目の性質である。

「唯、そろそろ上がれよ。勇人も体が冷えてきたんじゃないか」

ビニールシートを広げ、タオルと、いつの間にか買ってきたフランクフルトにコーヒー、それにオレンジジュースで出迎える。

「もう帰った方がいい時間?」

「まだ大丈夫さ。話したいことがあるから中断してもらった」

「なあに、面白い話?」

そう言って、馬鹿か私は、と唯は反省する。

「面白くしたい真剣な話かな」

「ちょっと待って。……いいよ、話して」

「緊張するな。……もっと一緒の時間を増やしたい。唯が好きだって自覚した。唯の叔母さんから話を聞いてる。その時の感情に、我ながら情けないなと思ったけど、ショック療法だ、おかげではっきり言える。唯、お前が、君が好きだ」

想像していた以上にストレートな告白だった。

こんなに堂々と好きって言えるんだ。

嬉しかったし、できるならもっと早く聞きたかった。そんな感情も抱き締めつつ、どうしたいか。

失うものなんてないじゃない、は駄目な発想だし下品だ。この海辺の砂のように、一粒一粒は小さくとも、柔らかく相手を受け止められる場所に私がなれるだろうか。いや、私はこうでなければ。

「いいよ。私が、優ちゃんを幸せにしてあげる」

精一杯捻り出した見栄だ。自身へ課した制約ともいえる。

今の上原にそこまで察する余裕はなく、体があっちい。

ここから長く寄り添う中で、そういえば、とふと気付く日がくれば大したものだ。

 

勇人が、僕を置き去りにするなと言わんばかりに二人の間に割って入り、寝そべった。まだ三歳に満たない子供でも、雰囲気を察する能力くらいある。なめてもらっては困る。

もし神様が彼に言語能力を与えたら、「生殺与奪は僕次第、分かってる? だったら、誰より賢く逞しく育つよう、常に優しく、時に厳しく、不意に尊敬できる、そんな大人になってよね」と約束させたはずだ。この程度は今気付かなければ。三十過ぎの男には当然の義務である。

「それにしても優ちゃん、私のこと、君って呼んだね。君だって、ふふ」

「何だよ」

「歴代の彼女にも君って言ってた?」

「忘れた」

「君かあ、新鮮な表現だ。ねえ、もう一回言える?」

「くそ。一回どころか何度だって言えるさ。君が好きだ、君が好き、あーあ、好き過ぎて味覚までおかしくなっちまいそうだ、まったく、本当に君が好きだ!」

 

冷めない熱を伴いながら、仕事には戻らねばならない。たった一日のうちに異質の世界観を行ったり来たりするのは相当なエネルギーがいる行為。それが時に人を救い、時に死へ追いやる要因となる。

上原の戦いも、まだまだこれからが本番だ。

「顔の血色がいいですね。彼女といいことでもしてきました」

「いい気分も台無しにしてくれる台詞だよ」

「愛嬌ですわ。おめでとうございます、上原さんも、人のものになったってことですね。一回くらい抱かせておけばよかった」

「唐さんは調子が悪いようじゃん」

「ひどい。お互い一緒に働くのもあとわずかなんですから、言葉には気を付けて下さい」

「これは二度目だけど、ここを辞めて、もし困ってたら……」

「ありがとうございます。あら、斎藤さん」

玲子は誤魔化すように上原から離れた。後ろに斎藤がいたのは本当だった。

「最近仲良さそうじゃないか」

「そういうんじゃないよ。お前も少しは話せよ」

「俺の話を理解してくれるのはお前くらいだ」

多々良が口をもごもごさせて二人に迫ってきた。

「君たちホントに辞めちゃうの?」

「ええ」と声が揃う。斎藤の方がやや面倒臭そうにする。

「ひどいじゃない。僕はどうなるのさ。この店はね、君たち二人でもってたようなもんなんだよ。いやいやお世辞じゃない、眼を背けたくなるほどピカピカの事実なんだもの。後生だから、せめて僕が定年退職するまで待てない? あとちょっとじゃない、あとちょっと。

え? ちょっとの間くらい自分でどうにかしろって? 

ひどいんだからなぁ、いやひどいなんてもんじゃない、君たちは糞野郎だ、ダニだ、大腸菌だ。

いやいや、ごめんごめん、そうじゃない、そうじゃないよぉ。昔似たような歌詞の歌があっただろ、知らない? ちくしょう、こんな状態でどうして二店舗目を出せるっていうのさ。フランチェスコオーナーには僕らの常識なんてまるで通用しないんだから。

人間はね、常識を失っちゃお終いさ。

常識とは何か。ある人は言う、常識とは歴史の淘汰に耐えた英知であると。またある人は話す、疑うことすら臆してしまう価値の発見こそ常識だと。そして僕は思う、常識の形に悩む平凡な市民がしがみつく欲望だって常識足り得る、って。だからさぁ、ねえ、駄目? ああ、そう……」

肩を落とす多々良の背中だったが、二人は気にしない。いい年したおやじに同情などしてやれるものか。人間には、ただ年を重ねるだけでも付きまとう責任がある。馬鹿のままではいられないという責任が。

真実と鉢合わせになる。

昨夜とは表情の険しさが一段違うなと斎藤は感じた。真実は愚か者ではない、十分に賢い。それゆえに反発は避けられない。野心の衝突とはまた違う。真に賢い者同士ほど併存するのは本来困難なのだ、一緒にいればいるほど迂闊に愚かさに興じられなくなる。

「今夜の一組、私がやりますから」

「ああ。お前ならできるさ。あいつには雑草とシーチキンでも十分だけどな」

「そんな悪口聞きたくありません」

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そばにいる上原の方がいたたまれない。真実の視線は斎藤に向けたほどではないにせよ上原にも厳しかった。

さあ、とにもかくにもディナーの時間だ。

 

続く