「オーナーとけりはついたんですか」
タイミングを見計らい、玲子が澄まし顔で尋ねる。
「どうかな。それより唐さん、余計なことしてくれたようだね」
「背中を押してあげようとしたんです」
「自分の背中を押すついで?」
「斎藤さんが上原さんを道連れにし、その二人を私が道連れにする。過程はどうあれ、結果は同じですよ」
「唐さんは当てがあるの?」
「私、外見だけじゃなくて脳みそもしっかりありますから」
「何なら俺たちの店で雇おうか」
「先行きの分からないお店で? ごめんなさい、言い過ぎました、すいません」
「唐さんの言葉は無愛想でも聞き入れやすい。助けられるよ」
「言葉遣いは気を付けないと、今の台詞、馬鹿な女は口説かれてると勘違いしますよ」
「勘違いしてもらいたい女性は、なかなか勘違いしてくれないもんだよね」
「上原さん少し変わりました? そんなこと言うタイプじゃないと思ってました。例の彼女との関係、焦ってるんですか。それとも余裕が出てきたのかしら」
「余裕なんかないし、焦ってるなんて一層認めたくないだろうね。今言えるのは自分の中に二人の自分がいて、代わる代わる主導権を握ってる。そろそろ決着をつけないと」
「勇気だけは忘れないで下さい。私が感じる上原さんの魅力ってそれくらいだから」
「はは、ありがとう」
「これは言い過ぎじゃありませんから。女が男に勇気を感じるなんて、そうそうあることじゃないんですよ。斎藤さんの場合は、どっちかと言えば蛮勇に寄ってるかな。上原さんを足して丁度いい具合なんじゃないかしら」
「ありがとう」
仕事に戻る上原の背中を眺め、玲子は少々馬鹿らしくなる。
どうして私が中年男どもを元気づけなきゃならないの、自分の世話も中途半端だってのに……。
結局男好きの性分、そんなだから、どうでもいい男にも煩わされる。一人でそう分析して嫌いじゃないなとも受け入れられるから、やっぱり性質が悪い。またそう分析してまたそれも……と永遠に続く。
「玲子」
フランチェスコがそのサイクルに横やりを入れた。
「明日の夜、二人分の予約を」さらに気軽に注文してくる。
「一人はあなた、もう一人は?」
「鋭いね。最近知り合った女性さ、年は玲子より上だが、可愛げがあって面白いよ」
「とっかえひっかえ、いつまでもできると思ったら大間違いだから」
「上原副支配人からも忠告されたよ。君も辞める気なんだな」
「だったら何」
「伝統とは使いようだよ。この街の飲食店という飲食店には声をかけておく。唐玲子という、若く美しい女性が面接に現れたら雇ってやってくれと」
「そんなこと頼むわけないわ」
「頼むとか頼まないじゃなく、僕の意思だ」
玲子は折れない、折れたくない。
「私にこの街を出ろってこと」
「いつの間にやら、ひどく嫌われたものだ。せめてもの礼じゃないか。あるコネは好きなだけ利用すればいい」
「離れたのはあなたが先、私は……」
「突き放したつもりはない」
「黙って付いてれば、それで良かったって?」
「その強気。いいよ、悪かった、君は自立した人間だったな。余計な手助けはしないようにするよ」
おっと、これは嘘だ。フランチェスコは玲子が強気とも、自立した人間とも思ってやしない。そう思いたい人間と対峙するのが心地いい。もう少し、自尊心を不安がらせてやろう。
「忘れていた、君のしたいことが僕のしたいことでもあったのは確かだ。精神的に君の一歩後ろを歩くのが喜びでもあった。その背中を押すこともおこがましいくらい」
「それじゃあ、いいのね」
「心配は尽きない。自分でも気付いてない弱さだってあるかもしれないだろ。けれど、強気が玲子の指標だ。君ほど弱音が似合わない女性はそうはいない。僕は所詮父親の遺産で食ってるだけの存在だから、独自の道を歩もうとする君を今度は応援しなくちゃいけなかったな。頑張ってくれよ」
フランチェスコの手が玲子の肩にかかった。薄い笑みと無表情。「予約だけはちゃんと入れておくわ」感情を押し隠すように玲子が言う。
これでいい。彼には彼女の未来が見通せた。
……さて次は。
今夜の客の入りはまあまあ。二店目を出すに当たっては物足りない数ではある。レストラン経営など性に合うものではなく、恨みを晴らすことも兼ねいずれ処分するつもりだが、まだ遊んでやる。
厨房をのぞく。みな集中している。結構なことだ。フランチェスコと斎藤の目が合ったが何も起こらない、表面上は。
「ちょっとオーナー、そこ、通ります」
真実が駆け抜ける。
「安西さん、ぼさっとしてないで下さいよ!」
「してねえよ。お前こそ、でかい口開いて喋るな!」
「安西さんは肝っ玉小さいですもんね!」
「お前は、そんなキャラだったか!」
……やはり、少し変化してるな。
影響力があった人物が辞めるのだ、ありうべしではある。
そうだな、この二人まで失うのは、望むところじゃない……。
今夜の仕事が終わり、フランチェスコはまず安西に近寄った。グラスを差し出し、「お疲れ様、どうだい?」
「あ、ありがとうございます。……うまっ。美味いっすねぇ、このワイン」
「だろ。味覚の優れた人間に飲んでもらえると、僕も嬉しいよ」
「いやあ、俺なんてまだまだですよ」
「伸びしろがある若者は羨ましいね。僕もあれこれ考え、行動はしてるつもりだけど、あとやり残してるのは死ぬことだけという感覚は否めない」
「オーナーもそんな風に考えるんですか」
「もっと脳天気な男と思ったかい」
「まさか。ただ、僕が知っている先輩たちはみんな似たところがあるなって。俺はそんな風に自分にプレッシャーをかけられません。できるだけプレッシャーがないように、小さいようにって」
「誤解があるな。僕も斎藤君も上原君も、自分にプレッシャーをかけてるわけじゃない。知りたいのさ、自分の限界を。もしくは自分の中の臆病を予感しているから、屈しないように訓練を重ねてる」
「それがプレッシャーとは違うんで?」
「違うね。怖いものを怖がらないようにしたい、そうした探求だよ」
安西はワインを飲み干した。
「そこまでお分かりで、料理長とはもう駄目なんですか?」
この時、真実が近くにいたことに安西は気付いていない。
「僕の方が駄目というより、彼の側に別の野心があるのだろう。野心と野心がぶつかれば、戦うか離れるかしかないんだ」
「じゃあ俺は野心を抱けるほどまだ強くない」
「それも違うな。野心とは、その人間の存在理由のようなものだ。安西君の場合は、己の野心を発揮してしまった時の周囲の反応がまだおっかないんじゃないかな。そのおっかなさに対処する自信もない。自信のなさは、時間と経験が解決してくれるというのが一般的な見解だろうが、僕の好みとは異なる。力のない空元気だけの人間はどうせやられるはずだから、せっかくなら試してみることだ。試して鍛えられることもある、成長には何よりの栄養だろう」
「はあ」
どうにか咀嚼しようとする安西よりずっと速く、真実が変わっていく。真実に気付いていたフランチェスコは、彼女にもワインを勧めた。
「お前、いたのかよ」
「悪いですか」
「どうだい」
「いただきます。ふう、美味しいですねこのワイン」
「二人とももう一杯どうかな。ところで真実、明日、僕の知り合いが来店するんだが、その料理、できれば君にシェフを任せたいと思ってる」
「私が?」
「何だってこいつに?」
「斎藤君の後釜はどちらが相応しいか、まずは真実から試させてもらいたい」
「斎藤さんの……」
「できるかい。難しそうなら先に安西君にお願いするよ」
「えっ、俺……明日ですよね、そんな急な話……」
「……私、やります、やらせて下さい」
「そうこなくっちゃ。ほら、こいつが僕からのオーダーだ、イメージをしっかり膨らませておくれ」
フランチェスコに肩を叩かれ、真実の緊張が高まった。
けれど、これはチャンスなんだわ。緊張に飛び込んで力に変えてみせる……。
店内の片付けが終わり、身支度する上原に斎藤が嘆いた。
「あいつめ、また何か企んでやがる」
「妨害なら織り込み済みだろ」
「違うんだ。直接俺たちに関係しないやり方で、動いてくる。間が、心配だ」
「素直に感情を明かすなんて珍しいな」
「からかうなよ」
「分かってる。こっちも気を付けるよ」
「ああ。邪魔したければすればいいのさ。だがやり方を間違えたら、後悔するのはあっちだ」
明くる日の仕事の前、上原は唯と勇人を連れ、海に行った。
「海なんて久しぶり。ねえ勇人」
誘ったのは上原から。唯と会うために、どうしても場所と気分を変えたくて勇気を出した。断られるのが相変わらず怖かったが、今はそうでない自分もいる。
泳ぐにはまだ早い時期だ。唯は勇人と一緒に裸足になり、さざ波を踏みつけて遊んだ。勇人の可愛い脚と唯の白い脚に、砂の混じった海水が跳ねた。砂浜には他にもちらほら人がいて、砂をいじったり水平線を眺めたりあくびをしたりしている。波と戯れているのは唯たちくらい。
上原にとってはいつまでも飽きない光景だったし、勇人は無邪気に楽しそうだ。自分のためにこんなとこまで連れ回した引け目が消えたわけではなく、笑顔は控え目ではある。
タイミング、肝心なのはタイミングだ。