「話って何ですかね」
「あれだろ。前に言ってた、この店の今後の話じゃない。ねえ、唐さん」
「……そうね」
フロアでは、オーナーのフランチェスコ大滝が数名のスタッフらと談笑していた。数メートル距離を置いたところで斎藤が一人で佇んでいる。今の玲子は、斎藤にシンパシーを感じた。
フランチェスコは薄い笑みを玲子に向けてから、
「やあ、これで上原君以外は全員揃ったのかな。さて、本題の前に一つ言っておかなきゃならないことがあるんだ。今夜はね、僕の知り合いに来店してもらって、みんなの働きぶりを観察してもらってたんだ。僕がいるのといないのとで、サービスに差がないか確かめるためにね。みんなには悪い気もしたけど、必要なことだったんだ」
「スパイ、ってことですか?」
真実が率直に質問する。
「ちょっと表現に違和感があるけども、まあそんなとこかな」
スタッフたちがいささか騒がしくなる。一体誰が、もしかしてあの老紳士? だからいつもと違うメニューを? いや、あのサラリーマンかもしれない。俺たちの対応を試そうとあんな乱暴を? 小声でこんなことを言い合った。一方、斎藤と玲子は、あの老紳士がそんな面倒なことに手を貸すはずないと知っている。多々良はというと、あのサラリーマンに違いないと睨んでいた。
「老紳士? サラリーマン? 何のことだい、別に隠す必要もないから明かすけど、僕と同い年くらいの男女のカップルがいただろ、彼らさ。今夜はトラブルもあって大変だったらしいね。けどね、基本的にどの料理もサービスもやはり素晴らしいと評価してくれていた。鼻が高かったね」
この答えに、多々良はぐっと唇を噛んだ。
……そんな、じゃああれは仕込みでも何でもなく、ただ迷惑な客だったってのか? あのカップルは騒動が起こる前に帰ってる。私の、あの控え目で毅然とした立派な態度を見ていない。ちくしょう、こっちはいつも以上に腰を低くして頭まだぶたれたってのに……。
多々良の表情で、玲子は悟る。
……なるほど。オーナーから覆面調査員が来ることだけは知らされてたみたいね。
「必要なことだった、という意味は何です。覆面調査なんて面倒なことしなくても、このリストランテの料理もサービスも最高なのは分かりきっている。わざわざこちらのプライドを茶化すようなことをして、そこまでして何を確かめたかったんですか」
確信を突く斎藤の発言だった。
毒づく言い方に周りが心配になる。
話を再開しようとして遮られた形のフランチェスコは、玲子に向けたのと同じ薄い笑みを浮かべた。瞳は笑っているようには見えない。
「それをこれから説明するんだ。プライドを茶化すだなんて、とんでもない。悪かったなとは思っているよ。それでもあえてやったのはね、本当に必要だったからなのさ」
テーブルのワイングラスを手に取り、お決まりの演説スタイルに入った。
「本当に、本当に必要だったのさ、つまり、このリストランテの二店舗目をオープンする上でね!」
フランチェスコが期待した通りのどよめきが起こる。
「二店目をつくるんだ。そうさ、これが僕の新しいアイデア! もう物件の当てもある。来月に改修工事に着手して、そうだな、半年もかからずに完成するんじゃないだろうか。
僕はね、もっと世間に広めたいんだよ、このリストランテの素晴らしさを、世の人々にもっと認知してもらいたいんだ。この店の『ヴェッキオ』の名前通りに『熟成』された料理とサービスは、本当に素敵な価値あるものだから、もっと外へ出ていかなきゃならない、そうする義務すらあると思うくらいだ!
今回の覆面調査は、新しい店を任せるにふさわしい人材を最終判断、再確認するために行ったんだ。
いいものや才能ある人間は、同じ場所にとどまってちゃいけない、勿体なさ過ぎることなんだよそれは。もっと動いてチャレンジできるよう、そのための場所を用意するのが僕の役目さ。
そんな信念がこの店を引き継いでからずっとあって、しかし具体化できずにいたけど、ついに始動する。ヴェッキオの伝統を多くの人に伝えるため、新しいことへ挑戦する。伝統と挑戦、相反するような言葉だけど、だから僕はわくわくするんだ。矛盾を克服するために生きる、この世に人間がいる理由の一つだろうさ!」
この発表に、ほとんどのスタッフが驚きを隠せない。
今の店の売り上げをよく知る多々良は、
「大丈夫なんですか?」と平凡で真っ当なことを尋ねる。
「開店資金なら問題ないよ」
「どれくらい入り用で」
「そいつはあとで話そう」
「お店の規模やスタッフの手配は? ここの人手を分けるとなると、新しい人を探さなければならなくなるし、それは新しいお店でも同じだと思いますし……」
「重要なことだね。ここの何人かは新しい店に移ってもらうようお願いするけど、詳しいことは……」
ここまでの展開に、ほくそ笑んだ者が一人いる。斎藤だ。体中を駆け巡る苛立ちを抑えつつ、
……新しい店だと、伝統を広めたいだと? 馬鹿が、簡単に再現できるものか、俺でさえまだ道半ばなんだぞ。
フランチェスコのことを心底鼻で笑った。
……この野郎は前々から駄目な男と認識していたが、いよいよ烙印を押さなきゃならない。伝統を知らず、受け継ぐ意義もろくに考えたことないくせに、そんな奴が後釜についた世界で生きるなんざ、まさに生き地獄でなくてなんだ。あいつの顔には先代の面影もろくにない。
侮辱し過ぎだと思うか? いいや、全然そんなことはないね。
今のこの店は、俺もあいつも、どいつもこいつも、先人の知恵を自分のものにしきれちゃいない、それこそ、『受け』ただけで放置して、『継い』でなんぞいやしないんだ。意識しなくても常にそばにある、意識したら涙が出るほど体が震える、それが、受け継いだ者がなるはずの姿だ。
この店のオッソブーコはシンプルだが絶品だった。煮込み料理には創り手の人生が凝縮される、そんな気がする。あの老紳士は今日褒めてくれたけど俺なんかまだまだ。まだ高みを目指さなきゃならない。
だから、俺はこの店を出て、自分の店を出す。
場所はもう決まってる。不誠実な奴が牛耳る巣窟を離れて、やってやるさ。あいつもきっと付いてきてくれるはず。これが俺のプラン。フランチェスコよ、あんたがイタリア系のクオーターだなんてとても信じられないが、現実は受け入れよう。
お前も受け入れるがいい、貴様の実体を、足元の薄氷を!
毒づくのはここまでにして、斎藤は来たるべき未来に集中し直そうとした。
「……とまあ、現状話せるのはこのくらいなんだけど。最後に新店舗の立地について話しておこうか。いい物件だよ、僕はラッキーだった、みんなもきっと気に入るだろう。新店舗の場所は……斎藤君、特に君にはしっかり聞いてもらいたいんだけどな」
スタッフの視線がさっと斎藤に集中する。玲子は眉間にしわを寄せた。
「斎藤君、君には特に重要なことなんだ」
「俺にですか、どうして?」
斎藤の苛々がまたふつふつと煮えてくる。
「どうしてって、君のおかげだからさ、新店舗の場所に出会えたのはね。場所は、あの……」
斎藤の両目が見開いた。
「馬鹿なっ!」
この叫びに、真実は戦慄した。
「そんなはずはない、あの場所は、あそこは、俺が!」
「そう、契約寸前までいっていたね。最終的に貸主は僕を選んだのさ。ほうら、この書類が証拠だ。料理人の君に物件探しの才能もあるとは思ってもみなかったよ、ありがとう」
「お前、お前はっ!」
「口を慎んでくれ。僕はこの店のオーナー、君は、どれだけ才能と野心があろうと雇い人なんだから。君の腕と哲学には敬意を表するけど、それだけで僕を出し抜けると思ったかい。君さえよければ、新しい店のシェフは君に任せたいんだ。野心が行き場を失った今、悪くはない話だろ、悪くは」
斎藤の拳が潰れるくらいに固まっていく。
その睨みを、フランチェスは薄ら笑いで受け流した。
安西や真実にはわけが分からない。厨房でも激昂することはあったが、今の斎藤はまるで別人のようだ。
玲子が危険を察し、斎藤の腕を掴んだ。凄い力だ、まったく動かない。飛びかかられたら女の力ではどうしようもないではないか。いや、それより、どうして私はオーナーを守るようなことを……。
玲子を振り切って斎藤はフランチェスコに飛びかかった。フランチェスコはまだ薄ら笑いを続け、男のスタッフたちが慌てて止めに入る。
真実にはわけが分からなかった。あれほど憧れ、尊敬していた料理長が別人のように取り乱し、怖くなった。
「斎藤さん! こんなこと、あなたらしくないんじゃなくて!」
玲子の、少し震えの混じる声だった。最後は多々良に肩を抱えられ、店の裏に下がっていく。
フランチェスコの薄ら笑いは完全な笑みに変わった。
「ふうい、お高いスーツなんだが。みんなはもうお帰りよ。この時間に付き合ってくれた残業代はしっかり払うから。いいよいいよ、片付けは僕がやる。さあ、みんなは帰った帰った。明日は休みか。明後日また元気な姿を見せておくれ!」