斎藤の一喝に驚かないスタッフはいない。
当然だがお客たちまでびっくりさせてしまい、斎藤はパスタをテーブルに届ける過程で、態度を徐々に控え目に切り替える。
接客を済ますと、
「安西、お前は俺に何て言われたんだっけか? どういう状況だ、こいつは」
「はい、実は、かくかくしかじかでして」
「馬鹿なのかお前は。あれれ、ちくしょう、どういうわけだこいつは。多々良さん、そんなとこで座り込んでさぼってないで下さいよ」
「ひどいなあ、僕はねえ……」
「これはこれは料理長、お元気そうでなりよりだ」
「あれ、ああ、いや、こちらこそ、いつもありがとうございます。失敗した、一番の馬鹿野郎は俺だった。無礼な態度申し訳ありません」
「職人はそれくらいの威勢がなければ。むしろ、まだまだ足りないくらいかもしれませんよ。高みを望んで出てしまう無礼と、現状に胡坐をかく傲慢は、似て非なるものですから。それより、こちらこそすいませんでした。いつもと違う要望をしてしまって」
「ご満足いただけたか心配で」
「不満などありません。もし口に合わなかったとしたら、それはこちらの舌がおかしかったということです。幸いにも、そういったことはありませんでした。胃袋が一つしかないのが残念だ」
「自分なんてまだまだ。もっと精進してみせますよ。その時はこちらからご招待します」
「ありがとう。けどなあ、私ももうじき死にますからな」
「やめて下さい、元気にしか見えませんよ」
「その台詞、副支配人の上原君にも言われました」
「そういえば、あいつはどこ行ったんだ、お客様がお帰りだっていうのに。多々良さん、いつまで怪我人のふりしてんですか。上原はどこ行ったんです?」
「え? 彼は……」
「いや、いいんだ、いいんだ。彼とは、もう十分話すことができたから。お嬢さん、すいませんがお会計を。……それでは支配人、料理長もお元気で。さようなら」
老紳士は、静かにリストランテをあとにした。
「次に来る時はもっといいものを出さなきゃな。安西、戻るぞ。間がひいひい言ってるはずだ」
「はい」
「斎藤さんって、調理場の若手にはお優しいですね。私たちフロアの人間にも、少しは分けてくれてもいいんじゃありません」
「唐さん、俺はこいつも含めあいつらに優しくしているつもりなんて毛頭ないよ。本音で付き合っているだけだ、こいつらがそうだからね」
「私たちが嘘つきとでも?」
「そうじゃない。唐さん、おたくは勘違いしてるよ。俺は少なくとも、おたくがプライベートな感情や道徳観を発揮してものを話している姿は、好ましいと思ってる。いくらプライベートと言ったって、人間、二十年三十年も生きてれば、社会の良識、あるべき形への希求といったパブリックな観点に立つ自分が育たざるを得ない。プライベートな感覚で振る舞っている中には、実はパブリックなものも含まれていると思うんだ。俺たちは所詮庶民なんだから、プライベートとパブリックのバランスなんてそれで十分と思うくらいだ。
それなのに、社会や組織の側の空気を読んで、あるいは察して、公の要請を代弁するような行為はむしろ公が過剰に映るから、目障りだし耳障りだ。人には色々いるから、俺が言うようにプライベートにパブリックが潜んでいるなんて連中は所詮少数派かもしれないけど、唐さん、俺がおたくを嫌っているように見える時ってのは、今話した後者のケースにおたくが寄っている時のはずだよ」
「だからって、あからさまに態度が変わるのはどうなんです。誰もがあなたと同じ考えを持っているわけじゃないんですよ」
「さっきの老紳士は俺に近い人だと感じるけど。それに、おたくを好ましいと感じる時もあるって言ったはずだ。そっちを強調してもらいたいな。今のは理由を話したまで。どのみち、おたくにとって俺は面倒な奴でしかないことくらいわきまえてる」
「私がオーナーの女だからですよね」
「自分から言い出すなんて、自信がなくなってきるんじゃないか、あれの女であることに」
「何ですって」
「ちょっと君たち、立ち話はその辺でやめて仕事に戻りたまえよ」
「そうですよ。そろそろ厨房の間が、ぜえぜえ言い出す頃です」
「まともぶっちゃって。多々良さん、今夜はいつになくトラブル対処に積極的でしたね。どうしたんです」
「どうしたって、そりゃあ……。上原君、もう少し時間かかるかなあ」
「そうだった。あいつ、今外に出てるんですか」
「話をそらさないで下さい」
リストランテに平穏が戻り、あの客は完全に忘れられていた。会計のスタッフ一人を除いては。
◇◇◇◇◇
閉店の時間が迫ってきていたが、上原はまだ戻らない。
「本当にどうしたんです、あの人は」
「さっき、今夜はもう戻れないって電話が来たよ」
「だからどうして……はい、ただいま。今夜の仕事はこれで最後かしら」
多々良がちらちら時計を気にする。厨房では片付けが始まった。
「今日はいつになく勉強になった一日だったがします、ふふふ。安西さんはどうでした」
「考える余裕もなく時間が過ぎてったよ。帰ったらやっておかないと。振り返るってのは厄介なトレーニングだ」
「私、それをやって朝になっていたことが何度もあります」
「マジで? お前はやっぱり、俺と違ってカルド(熱い)だよ」
「料理長の指導が、どうもこのところ熱心な気がして嬉しいんです」
「俺にはほどほどにしてもらいたいね。なあ間、これから俺の家に来ない?」
「はい? 頭が酸欠にでもなったんですか」
「違うぞ、復習も二人でやったら効果的かな、と。何だよその目は」
「私、そういう女じゃありませんから」
「だから違うってよ」
そこへ玲子が現れる。
「楽しそうじゃない、お二人さん。雑用でも喜べるなんて私にはない道徳観ね」
「玲子さん、聞いて。さっき安西さんがぁ」
「馬鹿よせよ」
「真実、終わったらとっとと帰りましょ。飲みたいの、一杯付き合ってよ」
「やった。玲子さんの奢りですよね」
「じゃあ俺も」
「あんたは来なくていいのよ。来るんなら離れた席に座りなさい」
「はい……」
こうして馬鹿話をしているだけでも玲子には気晴らしになる。けれど、真実がナイフをしまい終えた時だ。別のスタッフが顔を出し、こう言った。
「オーナーがお見えだ。話があるから来てくれってよ」
玲子の気がまた曇ってくる。オーナーが来るなど自分は聞いていない、この店に来る時は必ず事前に連絡を入れてきていた。それを多々良に妬まれたほどだ。