事情を知るはずもない唯は、慣れないレストランの中、朱美とフランチェスコの前でやや緊張気味。そうだ、優ちゃんから教わったテーブルマナー、マナー……何だっけ?
「坂下さん、上原君とはもう長いんですか」
「ええっと、はい、昔からの知り合いで」
「けど、愛が叶ったのは今日なのよね」
「へえ」
「ちょっと朱美さん」
「からかってないわよ、嬉しいんだから。嬉しくって、この街での最後の夜に唯ちゃんは欠かせなくなったなって」
「人を祝う気持ちに悪気はないものです。上原君にも励みになるだろうね」
三人を遠目から玲子が眺める。……あっちが新しい女、その隣が上原さんの。何なのよ今夜は、これもあの人の仕掛け?
胸のもやもやを紛らわそうと、厨房へ足が向いた。
「あっ、唐さん。どんな人でした、上原さんの愛しい人。ご覧になったんでしょ」
「そうね、可愛い系かしら」
「髪は?」
「黒髪、肩くらいの長さ」
「背は?」
「私よりネッタリーナ(洋梨)一つ分小さめ」
「声は?」
「高めね。いい声出すんじゃない」
「いい声?」
「喘いだらってこと」
「ほ、ほう。じゃ、じゃあ、スタイル……」
「安西。せっかく褒めてやったのに。すぐ馬鹿に戻る」
「斎藤さんこそ、もしかして女に興味ないのかしら」
「できましたあ! 持ってって下さい!」
真実の大声が場を制した。また目を凝らしてまな板と対峙するかたわら、玲子が斎藤に耳打ちする。「彼女が駄目になったら、斎藤さんのせいですから」
……それは見くびり過ぎだ。
自身の経験から斎藤は察する。彼女は賢い。駄目にするものがあるとすれば、まずは焦り、次に大衆、それに退屈などだろう。賢ければ誰もが通る迷宮の一種である。
「美味しい」
真実の料理は唯と朱美には大変好評だ。フランチェスコはお気に入りのワイン片手に微笑を浮かべる。唯は、別のテーブルで給仕する上原を自然と目で追った。「君」という言葉以上にずっと新鮮で、一日に二回もこんな気持ちになれるのは運がいい。
「私の誘いに乗って正解だったでしょ」
「何のこと」
「とぼけたってダーメ。女同士すぐ分かるんだから。立派なお店で副支配人だなんて。恋の熱だけじゃなくて生活も安泰じゃない」
「それは……」
「違うよ朱美、彼はもうじきここを辞める」
フランチェスコはグラスをくるっと回した。
「そうなの? どうして」
「自分たちのお店を出すみたい」
「彼は非常に優秀だから、こちらとしては残ってもらいたかったのだけど、決心は固くてね」
「そう。この業界のことはよく知らないけど、新しいお店を出すのって大変じゃない」
「楽ではないと思う」
「結婚を控えているのを知っていたら、無理にでも止めるべきだったかな」
「結婚だなんて、そこまでは」
「けれど、いずれそうなるのでは? 僕は、今でこそ親の遺産で食いつないでいるような身ですが、以前は色々苦労もしてましてね。この国で独立するというのは、この国がそうでないのと同じように簡単ではありません。しかし彼なら、上原君ならきっとやり遂げる、強いからね彼は。僕なんかのお墨付きをもらっても安心できないかもしれないが、坂下さん、彼なら大丈夫だ」
「お店を辞めるというのはもう後戻りできないことなの?」
「彼の意思がなにより尊重される。僕はいつだって戻ってきてほしいと思ってるよ」
「唯ちゃん、あなたから説得してみたら?」
「朱美、そいつは二人に失礼だ。坂下さんは彼の夢を応援したい、上原君もきっとそれを信じてる。他人がどうこう口を挟むものではないよ」
「それはそうだけど。でもね、勿体ないわ、せっかく築いたキャリアなのに。唯はそう思わない?」
「それは……」
ふわっと風を感じた。
「牛肉のブラザート・アル・バローロです」
玲子がセコンド・ピアットの煮込み料理を持ってきて、会話が中断される。
「オーナーにはこちらを」
差し出した皿の上には細長いスティック状のパン、グリッシーニが数本、ただそれだけ。
「お好きでしたよね」
「……ああ、ありがとう」
「ここまでのお料理、いかがでしたでしょうか」
「とても素敵で、楽しませてもらってます」
間近で映る朱美の顔、確かに年増だが切れ目の美人ではある。今がピークの女だろう。唯とも初対面。穏やかな印象だが、この二人が知り合いで、さらにフランチェスコと繋がっているのが解せない。この坂下唯という女も、まだ目覚めてないだけで同類なのだろうか。
……副支配人には悪いわね。
こんな形で上原の女に会ったことに少々がっかりしているのだ。どうせなら、もっと綺麗な形で会いたかった。
「玲子。真実を呼んできてもらえるかい。今夜の料理を担当したシェフなんだ、君たちにも紹介するよ」
「まみ……。もしかして間真実さんですか」
「驚いた。真実ともお知り合いで?」
「一度だけ、彼と真実ちゃん、それと安西さん、だったかな、四人でお茶したことがあるんです」
「そんな付き合いが。ならせっかくだ、安西君にも顔を出してもらおうかな。玲子、頼むよ」
無言でうなずいた彼女に、フランチェスコは内心ほくそ笑む。グリッシーニを一かじりした。……今の彼女は蚊帳の外だ、これからもそうなるがいい。
玲子に呼ばれ、安西と真実は手を洗った。
「そうかあ、あの人だったのか。仲良さげだったもんな。俺たちは偶然にも、その愛の過程にお邪魔してたってわけだ」
「あれがきっかけで距離が縮まったってことも、あるかもしれません。上原さんを呼んでほしいと頼んだのは私たちですから」
「正確にはお前だけどな」
「いずれにせよ、キューピットかもしれないですね、私たち」
「あ、ああ」
……変な奴、急に機嫌が良くなったのか。
「お前と話していると自信を失くすよ」
「今頃、実力の違いに気付いたんですか」
「そうじゃない。女心を理解することにだよ」
予期していなかった再会で、まず真実が頭を下げた。
「お口に合ったでしょうか。まさかお客様の一人が唯さんだったなんて」
「とても美味しかったよ。私のこと、覚えていてくれたんだ」
「出会い方が印象的でしたから、だって……」
二人は同じ光景を思い出し、吹き出しそうになった。安西にも伝染し、口元が緩む。
「真実、今夜はありがとう。残念ながら僕は食べられてないけど、この出来栄えと二人の様子で分かる。期待に応えてくれたね」
「真実ちゃんすごい。自分はまだ見習いみたいなこと話してたのに、感動しちゃった」
「見習いというのは本当です。今夜はたまたま」
素直に照れる真実の姿に、安西も照れて頭を掻いた。
「安西君も見違えて見えるな。ありがとう」
「本当ですか。いやあ、今夜はたまたま」
「先輩、何か創りましたっけ」
この状況が上原も気になるようだ。フランチェスコが余計なことを言わないかが一層気にかかる。
「私も驚きました。上原さんと唯さんがお付き合いしてるなんて。上原さんもつれないな、話してくれてもよかったのに」
「違うの、あの時はまだそんなんじゃなくて……」
「じゃあ、やっぱり。安西さん、やっぱりそうなんですよ」
「何が?」
「私たちがきっかけで二人の距離が縮まった、少なくとも、その可能性がなかったわけじゃないってことです。
二人きりじゃ不器用な関係に、他人が入ることで状況が好転することってあるじゃないですか、それですよ。バニラとミントの香りだけだと素朴過ぎるパンナコッタに、フルーツや酸味の効いたソースを添えることで宝石みたいに輝く、それですよ。私たちが恋のキューピットを担った可能性を否定はできないはずです」
「おい、お前」
突然まくし立て始めた真実に、唯も安西も戸惑った。フランチェスコも状況が読めない、朱美にはもっとだ。
「私が恋のキューピットだったとしたらですよ、唯さん。唯さんは私に恩がありますよね、上原さんと相思相愛になれた恩が私にあることになりますよね」
「真実ちゃん?」
「その恩を今、ほんのちょっと返してもらえないでしょうか。ぶしつけですいません、けど唯さんはもっとずっと大きな幸せを手に入れたわけだから、人助けだと思って、大きな幸せをお裾分けするんだと思って、返してもらいたいんです」
「お前、いい加減に……」
「お願いします、上原さんに言って下さい、たった一言、説得してくれればいいんです。この店を辞めるなって、説得して下さい!
そうすれば、きっと、斎藤さんだって店を出すのを諦めるはずなんです。お願いします、ぶしつけですいません、迷惑をかけてすいません。約束してくれたら引き下がりますから。だから、お願い、お願いします!」
真実の絶叫で、テーブルの時が止まった。周りの客やスタッフも光景に見入る。安西の頭の中だけ時計の針がちくたく動いていた。
……やっぱりだ、女心は予測できない。