lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと⑪ このリストランテ・ヴェッキオ、もう万事滞りなく

玲子は、アルコールで紅潮した老紳士の頬よりずっと恥ずかしい気分になり、笑顔を繕ってテーブルを離れた。

……まったく、あの人が私に飽きる、興味を失くしたとしたら理解できる気がするじゃない。私もガキね、馬鹿だわ、嫌になっちゃう。

玲子はいったん店の裏に戻ろうとした。

そこへ、客の一人が、

「おい君、こちらのテーブルも頼むよ、ワインを入れてもらいたいなあ」大きめの声をかけてきた。不満そうな態度をぶつけて続ける。

「そうそう、もっとだ、なみなみ入れてくれ。ここの副支配人といい君といい、あちらのご老人には随分サービスが手厚い具合だったなあ。見たところ、頼んだコースはこちらの方が高そうだ。サービスの優劣が逆だと思うんだがね」

「そのような無礼、考えたこともございません。ご要望がありましたら、何なりとお申し付け下さい」

「指摘される前に行動で示してもらいたかったなあ、行動で」

この客は、仕事仲間と思われる数人の連れとテーブルを囲んでいた。玲子には誰も見覚えがない、初見の客だろうか。初見だからといって、待遇に差を設けたりしないのがこの店の当初からの姿勢であり、今のオーナーもその点は同じだったから、この客の言いようは玲子には率直に心外であった。

この店の者なら誰でも知っている馴染みの老客が、いつもと違うメニューを頼み、亡き妻や人生へのささやかな思い、思い出話を語ろうとする姿に、ふしだらな小娘であっても神聖さを感じ、つい平均より長くとどまってしまっただけのことだ。

「おい、もう行くのかい。飲み終わった、もう一杯だ」

ここは居酒屋ではないし、居酒屋でも店員が何度も酌をしてくれる店など今時あるものか。

玲子は持てる演技力をフルに発揮し、この場を乗り切ろうとした。こんな女でも、格調あるリストランテのスタッフの一人という責任感はあった。

だが相手は異様にしつこい。

「お姉さん、ワインもう一本開けたいのだけど、お姉さんのお薦めは?」

「ソムリエを呼んでまいります」

「いやいや、お姉さんに教えてもらいたいのー」

 

本人は自然な振る舞いのつもりだろうか、厚ぼったい素手で玲子の腕を握った。まだこの程度で玲子は動じないものの、さすがに他のテーブルがよそよそし始めた。

こんな時、頼りになるのが副支配人の上原だ、と他のスタッフはみな思っている。玲子も期待しているわけではないが、こんな場面では自然と上原が頭に浮かんだ。

しかし、今夜はどうにも勝手が違う、従業員の危険を察知しフロアに出てきたのは上原でなく、支配人の多々良だった。

多々良はするすると玲子の脇にすり寄り、

「いやあ、はやはや、いかがなさいましたか? 年がら年中、飽きることなく最上のお料理と最高のサービスのご提供が自慢の、このリストランテ・ヴェッキオ。仮に不備、不足、もしくはご提案などありましたら、何なりと、この私め、支配人であるこの私めに直接お申し付け下さい」

「何だあ、あんたは?」

「支配人です」

「ふざけやがって。そんなもの呼んだ覚えはない。俺はね、そこのお姉ちゃんに用がありゅの。くそっ、噛んじまったい。おっさんは下がってろい」

「まあ、そうおっしゃらずにお客様。ここのスタッフはみな、私が手塩にかけて育てておりまして、みな私の部下というより弟子に近い存在でして。つまり私は師匠。ですから、お客様がお困りになった時あらば、私に申し付けてもらえましたら、もう万事滞りなくサービスさせていただきます」

「誰も困ってねえよ。分かったら、おっさんは下がってろ。おい聞いてんのか、ええい、下がれったら」

しかし、多々良は引かない。玲子より一歩前に出て後ろに手を組み、笑顔で仁王立ちだ。

これには玲子も不思議がるしかない。いつもなら面倒事は上原や他の人たちに任せ、自分は隠れて煙草でも吸って気を落ち着かせているというのに。まあ、それを少しは悪いと思っているのか、スタッフへの風当たりは強くないから、この店は、他店と比べ自由な気風の度合いが高い。

この場合の自由とは「勝手気まま」ではなく、「秩序ある奔放」だ。

秩序の中心がフロアでは上原であり、厨房では斎藤、一段下がって時には玲子もささやかながら秩序を担うことだってあった。本人は否定するが、同世代のスタッフからは姉御的な存在としての信頼がある。

そんな実態だから、今の多々良はやはりおかしい。客に向かってひたすら、にたにたにたにた。心が笑ってないのはすぐに分かるが、心が笑えない状況を恥も外聞もなく避けるのが多々良の真骨頂のはず。玲子は、何だか心配になってきた。

そういえば、店の経営状況が必ずしも良くないことを心配していたっけ。普段からストレスへの耐性が鍛えられてないだけに、脳への負担が大きかったのじゃないかしら、なんて想像が浮かぶ。

なぜかまだ、上原が姿を現さないことも玲子と他のスタッフを不安にさせた。

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それでも状況は好転してきた感じだ。面倒を起こした客が、多々良に根負けしてきたようにみえる。同じテーブルの仲間たちが冷静になり、諌め出したのも影響した。

「ふん、何だこんな店、糞面白くもねえ」

客は苛立ちを隠さず立ち上がった。

「とっとと会計しろい。お前らも、とっとと腰上げろい」

多々良は、(外面上は)喜んでこの客たちを先導した。玲子は距離を置いて様子を眺める。

財布を出しながら、この客はただただ面白くなかった。そもそも、今日は当てにしていた仕事が上手くいかず、店に来る前から一人不満を抱えていたという勝手な事情がある。この店でのディナーは本来、祝勝会になるはずだったのだ。

それなのに、部下たちをただ馳走するだけの会になり、あげくに可愛いお姉ちゃんは別のじい様に付きっきりで、はなはだ嫉妬心を駆り立てられ、料理の味などもう忘れてしまった。気を取り直してまた来ようにも、こんな悪態をついた後ではそれもできないではないか、ああん、まったく面白くない。

今の時代、いや、いつの世もこの手の人間は決して特殊ではない。

個人の力が希釈され、それでも個性的であること、自立した人間であることが求められる世の中で、真面目で平凡であればあるほど、ユーモアが欠ければなお一層、無力感を否定する形で自意識が過剰になって跳ね返ってくる。

組織からはみ出してはまずいという正気(あるいは恐怖心)が、気分に任せた粗暴な行動に出るのを抑止してくれるが、いったん組織を離れると、ふとしたことを引き鉄(あるいは言い訳)に憂さ晴らしに及んでしまう。こんな人間、多くの人が自分自身も含め見たり聞いたりしているはずだ。

 

続く