lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと㉕ もはや女房以外の女なら誰でも美人に見える

フランチェスコリストランテを存続させる気などないことを上原は知らない。フランチェスコに勝負事で先に負けてもいいというサービス精神などないが、生き残る執念も薄く、どんな相手も見下せる強みとなっている。これが、フランチェスコという存在についての上原の認識。その境地が実は、上原が欲している類のものでもあった。

いつでも簡単に死ねる性質を持てたら、世界はどれだけ輝くだろう。

唯たちと共に生きるのを決めた今でも、一度根を張った欲求は消えていない。だから、これからが挑戦の本番なのだ。

生きる意思と死にたい欲求をどう均衡させ、新しい自分になれるか。唯には死ぬまで打ち明けられない秘密になるだろうか。

「間さん、君も俺たちの店に来ればいい。歓迎するよ」

すべての思いを秘めて上原が口を開いた。

真実の耳に希望が響く。安西は驚き、玲子は目を伏せた。フランチェスコには不快な空気の振動でしかなく、目尻がぴぴくっと引きつる。

「私……」

「すぐに答えなくていいよ。落ち着いてじっくり考えてもらえれば」

「おいおい、待ってくれよ上原君。オーナーの僕の前で堂々引き抜きかい?」

「もちろん決めるのは彼女です」

「君は選択肢を与えるだけか。僕もよくやるからね、好きだよそういうのは。けどね、真実が望んでいるのは、斎藤君にここに残ってもらいたいということだろ。実際そう言っていた。ただ単に斎藤君と同じ場所にいるのが望みじゃない、ここで、この店で、仲間として長く働くことが生き甲斐なんじゃないか。店を移ったら移ったで、彼女には別の空白ができてしまうよ」

「人生の選択肢なんてものはありそうであり得ないものです。振り返れば、答えはいつも決まっている。こちらが与えられるとすれば、それは選択肢ではなく選択を確認するまでの猶予くらい。あいつがいるこのヴェッキオに最大の意味があったとして、その二つが分かれざるを得ない場合、どちらを選ぶか、もしくはまったく別の道に進むべきか。自分と向き合えば、嫌でも答えは出るでしょう」

「見識だね。僕には真実を受け入れる気があるのか、はたまた突き放しているのか、区別がつかないな」

「こちらから誘ってるんです。疑問を呈される方が疑問ですよ」

一触即発の手前か。そんな空気の中でも真実は正直嬉しかった。

頼りにされているとか、守られているとかとは違う類、未来に向かって歩くのを肯定されたような安心感。呼び起こされて初めて知る感覚だった。

本当に美味しいものを食べ、私にもこんな繊細な味覚が眠っていたんだと気付かされた時を思い出す。

斎藤さんが認めるのが分かる気がする、この人たちと私は……。

「真実」

あいにくだが、感度が鋭いのは上原だけではない。「とにもかくにも、今は落ち着ける場所へ」

フランチェスコの場合はその能力を、他人を都合よく操るのを主目的に使うという違いはあったものの、力の根は同じ。人を貶すのも褒めるのも、相手を洞察し人生を深読みする必要があるという意味で、素行の善し悪しこそあれ一卵性双生児みたいなものである。年を取ってる分、黙って先手を打たれるのが気に入らない性が、上原との距離を絶対に近付けない要因だ。

店の裏に移動した真実は、感情の躍動に対処するので精一杯だった。

玲子が寄り添い、成り行きを見守る。

……どうにかなりそうじゃない、あんた。綺麗になるわ。同じこと言われても、こっちは目を伏せてしまったのに。

真実とは完全に道が分かれるのを玲子は確信した。二人して店を辞めて、二度と会うこともないのではないか。それは寂しい想像であるのと同時に、彼女の明日がまだ道半ばの証拠でもある。

玲子は真実と違い、これといってやりたいことがあるわけではない。そうした人間は、えてして長い逡巡が宿命づけられる。不意に自嘲が浮かんでくる。

……男で逃避する理由だったりしてね。

もし、目的も生き甲斐もなく生きられるこつを開発できたら、相対性理論もiPS細胞も核融合も置き去りにしそうな、ほにゃらら賞など糞くらえな、大大大、大発見だ。玲子もその道を目指す一人になるか。

主力の抜けた厨房では斎藤が大忙しだ。安西の説明にも素っ気なく、ソースの味見に夢中になっている。

……冷たいな、関心ないんかな、もうじき去る人間にこれまでの仲間なんぞ無関係なんかな、今度はスープ……あれ? 

安西の脳内が今夜は冴えている。

……味見か。いつもなら一度の確認で完璧なのに、繰り返すだなんて。

脳内輪転機がさらにスピードを上げた。

f:id:eichi_katayama:20201214221949j:plain

そうかこれは、こういうことじゃないか。野球に例えれば、一点リードの九回裏ツーアウト満塁の場面だ。抑えのピッチャーが勝負の高揚と緊張感から、一球投げるごとにマウンドをぐるりと回って気分を落ち着かせる、みたいなことなんじゃないか。よく分からない人にもう一度。興奮したり意識をよそ事に持っていかれたりすると、そわそわして同じ仕草を繰り返すことがある、それなんじゃないか。つまり、この人は無関心なようで実は、真実が気になってるってわけで……。

「おい安西、手が止まってるぞ」

「すいません、考え事をまとめていまして」

「目の前の皿をまとめろ。ドルチェがあったまっちまう」

安西は唇を一文字に結び、ドルチェを仕上げた。ズッパ・イングレーゼ。スポンジにリキュールのアルケルメスを染み込ませ、クリームとメレンゲで装飾したデザートだ。

安西はアルケルメスの赤色が好き。色気と可愛げと上品さが合わさった色彩で、初めて手に取った時、男の中の乙女がうずくような心地になった。上原曰く、「イタリア男性の気質に通じるようで、彼らが女性好きとされる理由に想像が膨らんだ」とのこと。これを聞いてから、ますます赤が好きになっている。

……アルケルメスを女性に例えたら、やっぱ玲子さんなんだよね。

我ながら見事なドルチェの出来栄えと妄想に、顔をにたにたさせた。

「安西、仕上がったのならとっとと渡してこい。腐っちまうぞ」

「はい……」

首をすくめる安西の前に、さっと多々良が立ち塞がった。

「僕が持って行こう」

「ああ、はい。ありがとうございます」

雑務を率先して引き受けるとは珍しい。まあ、こんなケースでは何か下心があるのをスタッフ全員に知られている。

「テーブルお分かりですよね」

「当たり前じゃないか。僕はヴェッキオのナンバーワンなんだよ」

最後のデザートを待つ唯と朱美は楽しげに談笑、というわけにはいかなかった。フランチェスコも戻らず、頬杖をついて朱美がぼやく。

「ユニークなディナーになったわ。ごめんなさいね、彼氏のお店で小言言っちゃって」

「私も、初めての経験が重なって戸惑ってる」

「深い知り合いってわけじゃないんでしょ、あの子」

「前に一度。楽しかったよ。私がおかしいと思われても仕方ない感じの出会い方だったのに、気さくに接してくれたから」

「だからって、唯ちゃんが恩返しするほどのことじゃないわね。人に共感できるのはあなたの良さだから好きだけどさ」

朱美はワインの残りに手を伸ばした。

「お待たせいたしました」

ぬっとした存在感で多々良がドルチェの皿を差し出した。「ズッパ・イングレーゼでございます」

「すごい、綺麗なケーキ」

「今夜はご来店いただき、ありがとうございます。お料理はいかがでしたでしょうか」

多々良は満面の笑みだ。

「とても美味しかったです」

「まあ、味はね」

「また是非いらして下さい。この店の魅力はもう、一度では味わえきれませんので」

それから多々良はこの店の歴史や個人的な思い出について、とうとうと話し始めた。

店名の由来、初勤務での失敗、極上の味だったまかない、残った者と去っていった者……。

普段の彼を知っている人にはおよそ想像つかない内容の話が結構続き、普段の多々良を知らない唯と朱美は結構興味深く耳を傾けた。

……これだよ、これでいいんだ。

二人の女性の顔を交互に見比べ、多々良は志操する。

……僕が生きる道はこれしかないんだぞ、オーナーが連れてきたお客をもてなし、忠誠をアピールする。情けないだって? ふん、情けなさを抱えて生きるのもまた悲哀なのさ。

あーああ、早く次の休日が来ないかな、家庭菜園だけが僕を待っている……。社会人なんてこんなものさ。

そりゃあこの狭い国のどこかにも、やりがいのある仕事に就き、勇気と理想と冗談を失わず、しなやかに生きている人はいるだろう。しかし多数派じゃない、そいつは断言できるのだ。

昔々、僕がまだ高校生だった時代、いきがって頭にとさかをつくっていたクラスメイトに担任の教師が「そうした見栄は、大人になって責任を取れるようになったらやれ」だなんて説教していたが、とんでもないよ。年を取れば取るほど、人は型にはまっていくんだ。僕だけじゃないだろ、君だってそうだよね? 

年を取れば取るほど、人は挑戦しない理由を探し始める。虚しいけどね、高校生だった僕はもっと快活で自分に期待していたけどもね! 

仕方ないよ。こんな思いがあるなんて誰も教えちゃくれなかった。気付いた時にはもう遅いんだ。これが僕の生きる道、死ぬ道、どうでもいい道……。

時代のせいなのかな、僕が悪かったのかな。悪かったとして、どこが良くなかったんだよ。

上原君たちは偉いよ。気に入らないけどね、偉いことは偉いと素直に認めようじゃないか。成功は決して祈らないが、一目置こうじゃないか。

このお二人、結構美人だな。いや、もはや女房以外の女なら誰でも美人に見える、僕もオーナーみたいな女遊びしたい。

ああ、家庭菜園だけが僕を待っている!

 

続く