lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと⑱ 属した場所より、属した精神に殉ずる

支配人の多々良が顔を出した。

「お二人さん、昨日の休みはゆっくりできたかい。僕は、ふあーあ、サッカーの見過ぎで寝不足だよ。今日はお客さんもそれほどだから、養った英気を一気に消費することもないだろう」

「一日休んだくらいで回復するような、なまっちろい働き方してません、私」

「ふうん、そいつは結構だね」

……何が結構よ。

この瞬間の真実の気持ち、安西にもよく想像できた。

「多々良さん、サッカーってブラジル戦、それともフランス戦?」

「いんや、コスタリカ戦だよ」

「ああ、そうなんですか……。経営にもきっと生かされてますよ、その渋いセンス」

「そうかな、ありがとう」

……褒めてないって。真実と安西の思考が同調した。

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斎藤の出勤が遅い気がする。こう感じたのは真実だけだったかもしれない。

「おはよう」

あえて気だるさを演じる、いつもの調子だ。

「珍しいじゃないですか、多々良さんが厨房でコックと談笑するなんて」

「うーん、斎藤君に突っ込まれると嬉しいね。僕も、君に一度してみたいよ」

「だったら早めにしといた方がいいですね。ちんたらしているうちにチャンスがなくなる」

これを聞いて真実の顔が紅潮した。

「やっぱり、辞めるんですか?」

通せんぼするように前へ出た。

「ああ、この店でできることは、もうない」

あっさり冷たく見下ろされた。いけない、予想を上回る相手の言動だ。さっきまであった彼女の強気が一気にしぼみ、冷えていく。

ああ、私は、この人に、勝てない……。

自分の無力さが怖くなった。

……私には、この人をどうこうすることなどできない。

「できる、こと……」

斎藤は聞こえないふりをした。しかし、安西は聞き逃さなかった。

「料理長が辞めるってことは、俺が昇格ですかね」

真実の通せんぼとは毛色が違う。もっとぐっと腰を入れ、立ち塞がった。

「かもな」

「思っていた形じゃあないけど、出世は出世ですよね」

「そうだな。おめでとう」

「よして下さい。そんなこと思ってもないくせに。無責任じゃありませんか、俺もあいつも、まだ全然半人前なのに!」

多々良が唇を尖らせた。こんな気合の入った安西は初めてではなかろうか。

……ははん、さては彼女に気があるな。

彼の思考レベルはこの程度である。だから長生きもできるのだ。

「辞めるなら俺たち、いや、どちらか一人でも一人前にしてから辞める、それが料理長の務め、筋ってやつでしょ」

「どうだろうな。一人前になったかどうか、そいつは自分で決断するもんだ」

「初耳ですね、そんなの」

「俺も、初めて言ったよ」

厨房の空気の流れが渋滞する。安西は肩に力が入り、真実は胸を痛めた。

斎藤が包丁を研ぎだし、滑らかな手つきに二人が嫉妬する。二人に情がないわけではないが、斎藤自身に迷いはない、というより迷う選択肢などあるはずない。

いつ死ぬのか分からない以上、所詮死に向かって歩き続けることしかできない。その道程が途中で誰かと重なる時期もあれば、永遠に離れてしまう運命もある。起こり得る結果より、行為の熱量に重きを置いて満足するのが運命人。上原の持論だ。何度か斎藤も聞かされ、共感はしている。

あえて加筆・修正するとすれば、何でもいいから行為の熱量に重きを置き、自分を誤魔化すのが運命人、といったところか。

「辞める前に、壮行会でも開こうか?」

「その気もないことを」

「僕は支配人だよ、責任感くらいあるさ」

「責任を感じるだけなら小学生でもできる」

「ひどいなあ、うちの子供だって、もう高校生なんだから」

「多々良さんだけじゃないから。俺も同類ですよ」

「そう言われると、溜飲が下がらなくもないね。けれど現実問題、斎藤君がいなくなったらどうなるんだろう。この店の伝統の味とは、今や君自身といっても過言じゃないからね。安西君も自分で認めている通り、この二人はまだ半人前。誰かいい代わりでも見つけてるのかな、フランチェスコオーナーは」

安西は気分を害した。確かに自分で言ったこととはいえ、こんな引用は不本意だ。自虐とは自身へのひねくれた叱咤であり、他人につけ込まれる弱みではない。

この頃フロアでは、上原が丁寧にテーブルを拭いていた。

掌をいつもより長く、押し込むように。   恩義は忘れる必要はないが、囚われては愚かしいので、この行為は去り際の愛撫に過ぎない。斎藤と同様、上原には属した場所より属した精神に殉ずるきらいがある。一日経つごとに機会も減っていくから、せめて優しくもなるのだろう。

背後から、玲子の視線が注がれる。

「彼女のそばには、もういなくて大丈夫なんですか」

まだ凡庸なふりをしてしまう。上原は背伸びした。

「彼女じゃないから、そばにはいられないよ」

「意外。そんな言い方するなんて、相当入れ込んでるって自白じゃないかしら」

「まったくだ、死にそうになるよ」

「羨ましい」

「何が?」

「彼女、いえ副支配人の方かも」

「オーナーとうまくいってないの?」

「元々清潔な関係じゃありませんから」

「意外だ。君は純粋なんだ」

「マジで、死にそう」

戻ってきた多々良が近寄ってくる。

「まいったなあ。斎藤君、本当に辞める気みたいだ」

「説得なさったんですか」

「どうだろう。かえって背中を押したかもね。君からも何か言ってやっておくれよ」

「俺も背中を押すでしょう。無責任な人間ですから」

「上原君を無責任というなら、この世はもうお終いさ。誰も立派な人間には近付けんよ」

玲子が意地悪く、「立派な人間に憧れでも? 頭を打ったせいかしら。たんこぶが消えたら元に戻りますように」

「僕だってね、生まれた時から適当だったわけじゃないんだよ。今の社会が、時代がこうさせるの」

「屑ですね。抗う気はないんでしょうか」

「誰もが強くはないのよ。君たちには別の未来がまだあると願いたいね」

上原が小気味よく、「未来ですか、考えると憂鬱です」

「二人とも嫌な性格。けどそれが、必要なことなのかもねぇ」

今度は斎藤が、厨房から出てきた。

「支配人は油を売るのが仕事のようで」

「嫌なのがまた一人。君の話をしてたんだよ」

「へえ。そうなのか、上原」

「まあね」

「斎藤さん、副支配人を道連れにする気でしょう」

「おいおい、素晴らしい直感だ。なあ」

「はは」

「連れ去る道があるだけいいよ。で、何の話だい?」

この光景を、真実が苦々しく見つめている。多々良は置いといて、あとの三人は馬が合うように見えるじゃないか。環境に亀裂が入ったことで、自分との違いが顕著に映り、憧れと理解が別の認識であるのがよく分かってしまう。

安西だけが、厨房で無理矢理手足を動かしている。

この青年に、深い感情と向き合える度胸はまだでき上がっていない。未熟でも熱はあるから、震えのような手足が止まらず、目の前の壁はすべて壊してやりたくなる。ああ、字だけは似てるのに、生まれるのと生きるのとは、こうも違うものか!

 

続く