lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと⑩ 死者にすら嫉妬する醜い女

「最高の褒め言葉をいただいたと、シェフには伝えておきます」

「私なんぞの言葉が励みになりますかな」

「ええ、必ず」

「そうですか、それでしたら。……あちらこちらにいい加減なものが溢れている世の中で、このリストランテは本物だ。初めて妻を連れてきた時、えらく気に入ってくれましてね。以来、何度か通わせていただいた。その何回目だったかに食べたメニューが特に絶品で、あれですよ、いつもお願いしていたあのメニューです。

当時のシェフは見た目からしていかにも料理人といった具合の、少し太めの方で、お喋りもお上手でしたね。チーズとワインのジョークは今でも思い出して笑える。妻が亡くなってからも、メニューは同じのを頼み続けた。その習慣を今夜変えたのは、私の命も、もう長くないからなんですよ」

「まさか、とてもお元気でいらっしゃる」

「簡単に疲れを悟られるような、やわな人生は送っておりませんからな。実は、癌がね、進行していまして。今や三人に一人、二人に一人は患う病ですからね、私もご多分に漏れず世間の仲間入りですよ」

「私にはとてもお元気に見えます」

「ありがとう。そう言われると、これまでの生き方が大方間違いでなかったことを保証されたようで嬉しいですね。いや、本当ですよ。人の内面は顔に出る。ただ、そうなるまでにはひどく時間がかかるものだから、年を取った顔つきや風体を褒められるのは、若い頃よりも格段に価値があるように思えるんです。長生きに意味があるとすれば、一つはそんなところですか」

「一つどころか、三つも四つも意味を備えられているようです。こうして毎日フロアに出ていますと、当然、色々なお客様と知り合える機会があるわけですが、似たような方はいらっしゃっても、同じような方は一人もいらっしゃらない。人の違いはどうして、どのようにして生まれるものでしょうか」

「遺伝子が決める、そんな学説もあるようですが」

「同意されます?」

「いいえ、嫌いです。私の父は戦争帰り、それも徴兵ではなく志願兵でして、勇気があり、なかなか聡明な男でした。そんな男の息子なのですから、私も当然、勇気と知恵を兼ね備えた人間になれるはずなのに、いやはやどうして、見ての通りの出来栄えです。まったく関係ないとは申しませんが、遺伝子だけが人の在り様を左右するわけがないことを、どうにも自分自身が証明してしまっている。人の違いを分けるのは、そうですね、確実に言えるとしたら、時間と逡巡の積み重ねは当てはまるでしょうね」

 

「自分もそう思います。けれど今は、悩みを抱えて生きるのが、とかく気弱とか、神経質とか、人生を無駄にしているとか敬遠される時代でもあります」

「そう。多くの人生、どうあがいても遠回りしか道はないのに、遠回りを遠回りと思わなくて済むような、そんな麻薬みたいなノウハウとやらの売り子が蔓延している。まさに、我が胸には憤りしかない。せめて、この仔牛の髄のとろみのような思想の滑らかさが、世間にもあればよいのですが」

「それこそ時間がかかります。この味を出せるまでに」

「本当、そうですね」

食事を締め括るドルチェは、苺のセミフレッドにビスコッティを添えたもの。

玲子が、ビスコッティをくずして混ぜると美味しいと説明したら、老紳士は喜んで実践した。

「満足、満足。素敵な時間をありがとう」

「シェフに伝えたら、きっと喜ぶと思いますわ。グラス、少し足しましょうか」

「ありがとう。こうして美人にワインを入れてもらって。美食に美人が揃ったら、これ以上望む贅沢はないですよ」

「あら、私みたいのが美人だなんて。結構酔ってらっしゃるんじゃありません」

「美人を見間違えたりするものですか。かくいう亡くなった私の妻も、案外器量は良くてですね。秘かな自慢ではあったんですよ。老人にもなって自分の妻を褒めるなんてのは、みっともない性分ですかね」

「どうしてですか。素敵なことじゃないですか。奥様とは、どうして出会われたんです?」

「学生時代、彼女がいわゆる文学女子、私はちょっとやんちゃな活動をしていまして、国会に礫を投げたり……。ある冬、下宿の部屋があまりに寒かったもので、下宿仲間と『焚書坑儒だ』とかわめいて外で古本でも燃やして暖まってやろうかと本を運び出していたら、彼女がするすると近付いてきたんです。無造作に積み上げた中の一冊が欲しいと言う」

「どんな本だったんです?」

「それが、当時はシェイクスピアジュリアス・シーザーを手にしたように記憶していたんですが、あとで妻に聞いてみたら、シェイクスピアは一度手には取ったけど、もらったのは家庭料理のレシピ本だったと言うんです。一人暮らしを乗り切るために自炊がしたかったというのがその理由です。あの瞬間は、本よりもパンだったと笑っていました。けれど、シェイクスピアジュリアス・シーザーも結局、あとから自腹で買ってるんですよ。文学は拾ったり恵んでもらったりしない、などと強がっていました」

「奥様のあの気品、そうした心持ちから出てきていたんですね」

「平均寿命を考えれば女性の方が長生きするだろうに、うちは逆になってしまいました。意思の強さの違いですかね。私なんぞは学生時分から格好ばかり、自分で自分の身を焼いてしまうほどの言葉をどれだけ紡いでこれただろうか。そんな調子だから、この体はまだ生きている」

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「ご謙遜ですわ。寿命の短い長いだけで人生の本気加減が分かるなら、私そもそもこの世に生まれてません」

「あはは。あなたはやはり、美しい人だ。お付き合いされる男性は大きな責任を伴いますね」

「だと嬉しいんですけど」

玲子は、またグラスにワインを注ぎながら、オーナーのことに考えを巡らせた。

……まったく。

あの人にとってこんな女、遊びだというのは、はなから分かっている。無論こっちだってそのつもりではいる。

男遊びなんて慣れたものだ。そんな飽きた気分だった矢先、野心があり金払いもいいオーナーと出会い、冷えた感覚が燃焼したのは否定しない。相手はどうあれ、いくら遊びでも、ときめきのない遊びに入れ込むほどニヒルじゃないのだ。そんな関係も、そろそろお終いだろうか。

彼は企て事が好きで、二人だけになると色々話してくれていたが、最近はめっきり。この間の「新しいアイデア」とやらは本当に初耳であり、上原に嘘はついていない。

彼にとって、自身の思考を女にさらけ出し、それについて相手の反応なり私見なりを間近で得ることは、肉体で覚えるのとは別の充足感を引き出すマリナーレ(マリネする)やアッフミカーレ(燻製にする)なのだ。それが自分に対し行われなくなったのは食材に飽きたから、それとも、旨味の幅がもう知れたのでわざわざ面倒な調理をする必要もなくなった、ということだろうか。

男を捨てたことはあっても、捨てられたことはまだ一度もなかった。今回が記念すべき初体験になるかしら、と自虐を楽しむ素振りをつくってみせ、自分からは捨てようとしていない自分がいるのに気付く。いい男なら捨てられてもいいということか。馬鹿な、確かに悪い男ではないが。

自分は、この老紳士の妻のような女になれないことがもう分かっている。断っておくが、別に憧れていたのでもない。

頭の出来も感性も平凡な人間でも、妖艶さを身に付けられれば自尊心を保てると思い付いたのは十代の頃で、考えを変えるつもりはなかった。あの老紳士の妻は恵まれていたのだ、そう信じたい。おそらく、両親は上等な風格を持ち、生活環境も親戚連中もまあまあな水準であり、だから、自分が存在する意義を見つめ、それに納得するのに十分なバックグラウンドだったのに違いない、そうであってほしい。

もし、自分のようなつまらない生い立ちであったなら、あの夫人だって……ああ、死者にすら嫉妬する醜い女……。

 

続く