lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと② 俺ごときに料理以外の影響も受けているようじゃ、人としては半人前以下だ

上原はウィスキーを瓶から飲んだ。

「返事は明後日まで、だったな」

店の同僚から独立しようと誘われていた。浮かない日々に、ふと訪れた転機の可能性。自分の力で動かした可能性ではないから、取り扱いには慎重だ。返事も伸ばしてもらいたいと思っている。

「店に来ないかって言っちゃったからな。別の店になったら気を悪くするかな」

アルコールを口に含むたび、唯の表情や仕草が瞳に浮かんだ。

その唯は実家で、叔母の原田千恵(はらだ・ちえ)と肩を並べ、夕飯の支度に取りかかっていた。

「優君とのデートはどうだった?」

「デートじゃないよ、ちょっとご飯に誘われただけ」

「それをデートと言わず、何をデートと言いますか」

「それは……」

「いいこと唯、どんな事情や状況に苛まれてたってね、人を好きになるのは悪いことじゃないの。人を好きになった瞬間のあの眩暈、眩暈を知った翌朝の喜び、喜びと不安が入り混じった胸の奥の快楽、快楽と理性の緊張、緊張を乗り越えた後の至福! もうたまらないわ、また愛に狂いたくなってきた。唯だって知っているでしょう、年を重ねると真理にすら思えてくるものなんだから。取り戻せたらねぇ、けど、私にはもうできそうにないから、唯、あなたに期待するの」

「私、優ちゃんを好きだなんて言ってないから」

「あら、じゃあ好きじゃないんだ」

「もう、叔母さん、手が止まってる。お母さんが帰ってきちゃうよ」

「見くびらないで。私が何年主婦やってると思ってんの」

千恵の握る包丁が、滑らかにじゃが芋の皮を剥いていく。

「味はともかく、手際の良さではまだ負けなくてよ。あなたは今年で三十だっけ。男も女も、本当の挑戦をするのは三十過ぎてからだよ。それまでの後悔や失敗なんて、よほどの犯罪でない限り肥やしでしかないもの」

「私はまだそこまで達観できないよ。働いて生活する、その難しさと大切さとやるせなさが、とっても重たくて、目の前のことで精一杯。今こうして切ってる玉葱の切り方一つでも、未来に影響があるとしたら、もっと腕を磨かなきゃとも思うけど、そこまでしないといけないの、って煩わしも感じるから、真剣に考えて暮らすのってホント大変」

「その割には笑顔が素敵ね。色気もあるわ、勿体ない」

「はいはい、このお野菜、炒めるのは手際の良い叔母さんね」

「結婚している男や女は別の人を愛してはいけない、少なくとも悟られてはいけない。けれど、この悪を認めてあげることでもっと恐ろしい魔に囚われなくて済むかもしれない。あなたはもう正式に離婚したのだから、悪に手を染める後ろめたさなどなく、優君を魔から守ることだってできるじゃない」

「そんなこと……優ちゃんは私と違って、ずっと強いから」

「だとしても……唯、あなたひょっとして優君に話してないの、離婚したこと?」

「そうだよ」

「そうだよって! そこ、物語を動かすのに一番肝心な情報! 何考えてるのよ、いや、きっと色々考えた末の結果なんでしょうけども、つまらないわね、糞面白くもないわ! 優君も奥手になるはずよ。どうして明かさなかったの。もっといい人がいると思ってる? 優君じゃあ、気落ちした現在での妥協だって思ってるの?」

「思ってないから、そんなこと!」

「じゃあ何なのよ、言いなさい、聞いてあげる!」

「もう……あれ、ほら、叔母さんが大声出すから勇人が起きてきちゃった。ほらほら、ご飯まだだから、大人しくできるよねー」
 

 

◇ ◆ ◆ ◇

昨晩一人で飲み過ぎただろうか。飲みかけのウィスキーだけでは足りず、買ってきたものを全部開けてしまい、アルコールと昨夜の長い逡巡が血中にまだ残っている。

けれども、身から出た錆を簡単に露わにするわけにいかないのが、上原の立場だ。

「おはよう。ふう、一番乗りのつもりだったのに、今日は早いんだ」

自分でも白々しい挨拶に、思わず口元が笑う。

この上原の笑顔に、店に一番乗りした若手のシェフ、間真実(はざま・まみ)は愛想良くされたと勘違い。

「おはようございます。料理長から宿題を出されていたので、早めに準備をしていたところです」

「宿題って?」

「加熱によるアバッキオ(仔羊肉)の旨味の凝縮です」

苦手な愛想をできるだけ振り絞って応えた。

「人間の舌で肉を味わうとした時に欠かせないのは何といっても熱です。生肉料理は熱が通ってないじゃないかとか言わないで下さい、常温を保つのも立派な加熱技術の一つですから。熱を加えることで肉の脂が溶けて舌触りを良くし、身も引き締まりほぐれやすくなるから、歯が心地良くなり、食べる行為が楽しくなります。まあ、お肉に限った仕組みではないですけれども、肉が与える満足感、特別感は他の食材に比べ突出してるといえるでしょう。

その満足感をさらに高めるには、加熱によって流れ出る脂に逆らい、旨味を内側に閉じ込めなければなりません。その際の火加減の難しさといったら! 肉の種類、部位に応じ、脂と肉身の融点の違いに配慮した火加減の使い分け、タイミングを計っての切り替えは、極めれば神ですよ、調理場の神! その神に、私は今近付こうとしています、ふふふ、神に迫るため、こんな時間からは私は、ふふふ」

興奮しだすとこの調子だ。変わっているが、料理人としてのやる気とセンスは確かだろうし、個人的に愉快なので上原は嫌いじゃない。

「神様もうかうかしてらんないな、こんな店にも座を狙う卵がいるんだもの。頑張って、開店前に疲れない程度にね」

「はい、今日も一日よろしくお願いします、副支配人!」

今日は気温が少し高め。

「ランチで出す水は冷ためがいいか」

夜の予約にまで目を通し、上原は一日の流れを簡単にイメージしておく。

「おはよう。間から聞いたぞ、お前さっき、あいつにはにかんだ笑顔をくれてやったんだって? あいつ、肉と睨めっこしながら興奮気味だったぞ」

「はあ? 勘弁してくれよ」

「あいつから見れば、お前も落ち着いた大人の男ってことだ」

「俺からすれば、加齢臭が迫ってるおやじだよ」

この店の料理長、斎藤一二三(さいとう・ひふみ)は機会があれば、こうして上原をからかう。それは上原も同じ。年齢は斎藤が一つ上だったが、二人とも年の差を気にした上下関係の意識は乏しかった。立場は違えど、二人は同じ分野を生業とする同志といえた。

「いい子とはまだ出会えないか? まだ大丈夫、そう油断してるうちにジジイになっちまうぞ。俺の嫁さんの妹の友達にお前の好みそうな子がいるんだ、紹介してやるよ」

「いいよ、そういうのは。その手の紹介は以前えらい目に遭ったからな」

「ふはは、そうだ、あれは悪かった。まさかあんな……おっと、女性の陰口を叩くのは俺のポリシーに反するところだ。でもそれじゃあ、どうしたものかな。紹介が嫌ということは偶然の出会い、もしくは懐かしの再会がお望みか。俺が手を貸す余地がないだろ」

「余地がなくて結構、一体何の話だよ、朝からさあ。どうせ聞くなら、新作メニューのアイデアを聞きたいね」

「それならいつでも教える。今の俺に最も重要なものだから、こうして話している時でも食材と調味料が頭の中を駆け巡ってる。旬の味を生かす、そこにリストランテならではの高級食材と熟練の技法を合わせ、上品な気風を創り上げるのは当たり前。個性はその先だ。個性とは、自分に取り入れたい伝統の選択。真の個性とは、選択した伝統を内に秘めた年月の長さだ。俺の年月はまだまだだが、これだ、ってのは既に何皿かある、詳細を話そうか?」

「そうまで熱を込められたら、こっちも気持ちの準備がいる。あとで落ち着いた時にゆっくり聞かせてくれ」

「お前、もう気になる女を見つけたな」

「どうしてそうなる、料理人の観察眼か? だったら曇ってるんじゃない。目標を追い過ぎて、近視眼に陥ってる恐れありだ。遠くを眺めた方がいい、特に遠くの緑をさ」

「言ってくれる。痛いとこを突いてくるが、真剣に考えての言動だから信用できるのがお前だ。それに比べ、ここのオーナーはまったく信用ならない。信用の文字すら書けないのではと疑うくらいだ」

「同感だけども。あまり表だって歯向かうのも、一二三を慕ってるシェフたちのモチベーションに影響しそうだ。気を付けてもらいたいんだけどなぁ。それはそれでらしくない気もするから難しいな」

「現代人に足りないのは気高さだ。気高さってのは誰かの歴史、多くの場合は身内の歴史を背負い、受け入れ、吸収することで自分の顔つき、言動、気質が否応なしに立派になり注目を浴びてしまう自然現象といえる。俺は若手に料理は教えてやれるが、気高さは無理だ。俺ごときに料理以外の影響も受けているようじゃ、人としては半人前以下だろう」

「面白い講釈だけど、食事中に述べられたら頭が固くなって匂いも味も分からなくなるよ。女は簡単に紹介してくるのに、自分の表現方法は複雑なんだから。ええ? 俺にもそんなところがある? じゃあそいつは、生き甲斐を見つけるには避けて通れない趣だったらいいな、と願うことにする」

「今日の願いは、いつものように美味いものを創ることと、若いシェフたちが一ミリでも先に成長してくれることだ」

 

続く