厨房はまさに戦場だ。
「安西、チポッラロッサ(赤玉葱)」
「はい」
「同時にこっちの塩抜き」
「了解です」
「流れるように、流れるように。間、出汁は煮詰まったか?」
「もうちょっとです」
「よし。さあみんな、どれだけ忙しくても格式だけは忘れるな。おっと、それにわずかなユーモアもな」
「はい!」
混乱と集中力が入り混じったひりひりした空気感。戦場が荒々しいのは嫌ではあるが、荒々しければ荒々しいほど、一流の料理人にはかえって喜びとなった。
上原はそこから出される繊細な一皿に毎回感嘆し、羨ましさと恐れ多さを胸に抱いていた。やはり、一二三には敵わない……。毎日そう思い、料理人を諦めた選択を正当化している。
これは後ろ向きな気持ちで言っているのではなく、死なないために現状を受け入れるテクニックの一つに相当した。当然、「満足」は別のところで獲得しなければならない。人生の虚しさや至らなさは誰もが抱える生活習慣病みたいなものだろうが、向き合い方にはそれぞれの癖があり、ゆえに納得できる答えは千差万別。参考になる他人の人生はあっても、自分に当てはまってくれる部分は少ないのが現実といえる。
だから、大切なのはやはり「自分」なのだ。
自分の人生は自分で切り開く、などとマッチョな希望論を語りたいのではなく、たとえ人生を切り開けなくても、希望が薄くとも、絶望に足を取られず気丈に日々を過ごす、そんな「自分の形」はないか。
ユーモアもそのきっかけにはなるだろう。いや、どんな技術や哲学を突き詰めても、人生の憂鬱とは結局、大きな成功や権力を手にしなければ消えないものかもしれないし、そうでないかもしれない。
いずれにせよ、答えは定かでなくても、生きている以上は進まざるを得ない。
「料理長、味見お願いします!」
厨房をのぞいていた上原の耳に、真実の大声が飛び込んだ。その隣で安西が「うおおお!」と勢いよくナイフを動かし、真実から「うるさいです!」と注意される。上原には、どう見ても似合いのコンビだ。
「ようし、できたぞ、プリモピアット。ほらフロア、とっとと持っていけ!」
「急かさないで下さい。うーん、盛り付けと匂いは完璧ですね、さすが斎藤さん。上原さん、そこどいて」
玲子が受け取ったのはポルチーニ茸のリゾット。米に炒めた玉葱、ポルチーニ茸を合わせてブロードで炊き、チーズを入れ、ポルチーニ茸のソテーを豪快にのせた。
フロアは客が増え、静かでも賑やか。
老紳士はリゾットを一口食べ、小さくうなずいた。
その様子に玲子が安堵し、上原にもそれが伝わる。
しかし、老紳士の胸の内にはフォークを動かすたび、このリストランテにいられる時間が短くなるのを残念がる趣もあった。次はどんな料理が出てくるか、胃袋は大丈夫か、本能に沿った無邪気さがまだ老体に残っているのを知り、こっぱずかしく思える機会も今となっては珍しく、せめてゆっくり食べようとするが、生来のせっかちさが勝り、みるみる皿は綺麗になっていく。
食事とは不思議なものだ。自宅で独りで食べている時は、いわば栄養摂取といった雑さで適当にこなしているのに、こうして店に来ると内側の自分に敏感になり、味覚だけでない感覚の奥行きが増す。
料理の出来が良ければ良いほど、広がりは加速し、そんな店と出会えたことが誇らしいと記憶に刻まれる。
……連れ合いもいれば、もっとだがな。
この老紳士に唯一足りないスパイスは、それこそ今、記憶の中で生きていた。
今日は彼女の命日。
そして自分の命も、もう長くはない。
「忙しいですね。やっぱり人手不足じゃないですか、上原さん」
「俺に言われてもね。それこそオーナーに進言してもらいたい問題だ」
「仕事とプライベートをごっちゃにしてほしくないですわ。人手不足の対応は、立派なお仕事でしょう」
「毎日これだけ繁盛してればいいんだけど。近々アイデアを発表するだなんて、どうするつもりだ、あの人は」
「それは、私も本当に聞いてないですから」
上原は今夜のもう一つの課題、斎藤の誘いに対する答えが、フランチェスコオーナーの動向によって影響されはしないかと、ふと考えてみる。
あのオーナーがここへ来てからの三年間、リストランテの看板メニューはオーナー好みのリゾート風に変わり、高級志向の宣伝広告も積極的に打った。経営者として為したのはそれくらいで、あとは現場に丸投げとなったが、結果が気に入らなければ不機嫌さを隠さず、「どうにかしてくれよ」と吐くだけ吐いて終わり。
あの適当が売りの多々良支配人のことが、まともに映る従業員もいただろう。それがなんだ、責任の重さと挑戦の始まりに身震いした、とは……。
亡くなった前のオーナーとの関係は、上原より斎藤の方が深い。
だからこそ、斎藤の憤りは強く、独立の企ては致し方ない仕儀でもあった。
そんな斎藤からの誘いに対する上原の答えはもう決まっている。これしかないと今朝決めたのだ。それでも不安がないわけでないのは、使用人根性ってやつかな……と未熟さを実感しなくもなかった。
この持って生まれた「考えがち」な気質には、恐らく死ぬまで悩まされるだろうから、不安と仲良く付き合う術こそ学ぶべきか。
上原はフロアを一回りすることにした。
テーブルのお客たちに順番で挨拶し、他愛ない冗談も交わし、先に声をかけてくる常連客もいた。
上原は年配のご婦人方にも結構人気があり、一度捕まってしまうと、離れるにはそれなりの会話の技術が要った。
最後に回ったのは老紳士のテーブルだ。
「ここまでは、いかがでしたでしょうか」
「いや、結構。特にこのオッソブーコは素晴らしい、舌で味わい、喉を通るたび、肉体が若返るようです」
「ありがとうございます。シェフも頭を悩ませていましたので」
「それはそれは、申し訳ないことをしましたかな。いつもと違うメニューをくれなどと、長い習慣を突然変えてしまった。年寄りの気紛れとでも思って下さい。でも期待通り、いやそれ以上ですよ。言ってみるもんですね」
「要望がありましたら、何なりと仰って下さい。うちのシェフは、困難が大きければ大きいほど力を発揮する人ですから」
「才能ある人間の証拠ですな。年もまだお若いし、まだまだご成長されることでしょう。楽しみなことです」
……その時は、またいらして下さい。
と上原は言えなかった。斎藤は近くこの店を出ていくのだから。