lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと① 一度死ねたら幸せになれるかも

もし一度死に、しかし生き返ることができるとしたら、みな一度は死んでみるのではないか。

信頼できる友人がいない、恋人に裏切られた、家族を失った、やりたい仕事がない、事業に失敗した、金がない、あいつが気に入らない、あいつも妬ましい、世の中がむかつく、もうやりたいことはやり尽した……。

こうした様々な理由から思うようにならない憂鬱な人生から逃れるため、「死の救い」の可能性に考えを巡らせた経験は、おそらくこの世の多くの人々にあるだろうが、その多くがまたそれを実行できないでいるのは、死にはやり直しがきかないからだ。

だが、もしやり直せるとしたら……。

死んでみて、思ってたのと違った、やっぱりもう少し生きたい、死んでから生きる意味に気付いた、死んでいるのに飽きた、死んだら生きられる気がしてきた、死ぬ理由が誤解だった、幼稚だった、そんなどんなに身勝手な理由であっても、一度は生き返れることが保証されているとしたら(それも無料で、望んだらすぐ、キャンセル待ちなし!)、むしろトライしてみない方が人生の豊かさを制限する結果となるだろう。

「死とはその程度のものだ」

上原優(うえはら・ゆう)はホットコーヒー片手に呟いた。呟いてすぐ迂闊だったと、

「この国の現代人にとって、死とはその程度のものだ」

小さな声で訂正する。

自分たちのお喋りに夢中な客ばかり集まったファミリーレストランのテーブルで一人だったから、独り言を聞かれる心配はなかった。誰かと一緒の食事中で、こんな暗い台詞まず吐かないのが上原の流儀だ。まして、気のある女性とその子供とのランチの時に、そんな軽挙犯すものか。

その女性と子供が手洗いから戻ってきた。

「勇人、襟は伸ばしたりしちゃ駄目よって言ってるでしょ、てろんてろんになったら格好悪いんだから。ああ、椅子に靴で上がっても駄目、汚してない、大丈夫? しっかり座りなさい。なに今度は抱っこ? やーだ、お母さんの服引っ張らないで。もう、トイレに行くまではいい子だったのに、急に甘えん坊さんになったのね」

「飽きたんだよな。デザート頼んじゃおう」

上原は片手を上げ、ウェイトレスを呼んだ。目の前の女性、坂下唯(さかした・ゆい)は子供の気分を読んで対応してくれる上原の気遣いに申し訳なさと温かさを感じ、今のこの時間がデザートを食べれば終わってしまうのを残念に思う。

唯の一人息子、勇人はそんな母親の気は知らず、デザートのアイスを今か今かと待っている。確かに退屈はしているが、甘い食べ物の名前と、その味の魅力は退屈しのぎには十分。わくわくを押さえ切れず、唯の太腿の上で足をばたばたさせた。

「元気だよな。俺の分も食べるか? 代わりに元気のエキスを分けてくれ。笑った顔なんかはお前のとそっくりだもん、二倍の明るさに照らされてさ、気後れするよ。母親譲りなんだよな、父親もそういう人なんだろうか。人の親になるってのはすごいよ。他人と暮らしながら新しい命を育てる、それも長く続けるにはどれほどのエネルギーが必要か。誰か測って教えてくれないかな」

 

「優ちゃんは結婚しないの?」

「分かんない。もうずっと想像のレベルで止まっちゃってる。結婚しない理由付けはいくらでもできるけど、結婚する理由はなかなか。ってことは、結婚の意味ってものはとても限られた、もしかしてこの世に一つしかない希少なものだから、なかなか見つけられないのかも」

「なーに、格好いいこと言おうとしてる?」

「けど結婚している人、このファミレスにもきっと大勢いるよな。考え過ぎか」

「そんなことない、参考になりました。私なんか、結婚したいって気持ちだけで突き進んだだけだから、時間が経ってはたと立ち止まることだってあるかもしれない。何のために結婚したのって。真剣に考えたら……やだなあ、憂鬱になりそう」

「憂鬱が似合わない女。お前はいつもってわけじゃないけど、大抵は笑顔でいられるでしょ。ガキんちょの頃にあった強気で我儘な感じが、年を取るたび、上手い具合に洗練されて顔つきに出てきてるんじゃない」

「本当? 優ちゃんも昔は他人を褒めることなんてなかったのに、変わったよね。いい感じ。優ちゃんも、色んな経験を積んで大人になってるんだよね」

デザートを食べ終わっても、二人は席を立とうとしない。難しい話の後は、共通の知り合いの近況や、もう何年も会っていない学校の先生との思い出話など、本心とは関係ない話題で場を繋ぐ。お互い名残惜しさを抱えるも、相手の気持ちまでは推し測れないでいる。

勇人がまたぐずりだした。アイスの魔力が解けたのだ。

「今日はありがとう、ご馳走様」

「もっと高い店でもよかったんだけど。もてなした満足度が水準に達してないよ」

「十分だよ。勇人もいるから高いお店だと迷惑かけちゃう」

「子供がいても安心な店はあるさ。例えば……そうだ、今度、うちのレストランに来たらいい」

「優ちゃんの?」

「勝手知ったる我が家みたいなもんだ。個室があるし、なんなら貸し切りにだってできる。こっちにいるのはあと数日程度? さすがにその間に招待するのは難しいけど、そのうち旦那さんも連れて来たらいいよ」

「ありがとう。イタリア式のテーブルマナー覚えとかなきゃ」

「あれ、マナーの原点は?」

「飢えた胃袋が暴走しないための装いである。あはは」

上原は二人を車で送り、それからは真っ直ぐ自宅に帰った。

唯たちといた楽しい気分がまだ残ったまま、「ただいま」と誰もいない部屋に帰宅の挨拶をしてみる。

しいん、とした部屋の反応に、これが自分の生活だったなと頭を切り替える。

死にたいというより、死んでみたいという表現の方が今の上原には合っていた。

あの世で死者の先輩たちと語らいながら、自分がいなくなった世界を眺め、確認するのだ。ちっぽけな命一つでもなくなることで、紛争や不幸だらけの世界に人知れず何か変化をもたらすのではないか、といった大それた社会実験をしようというのではなく、自分が死んだことに自分が耐えられるかを知るのだ。

耐えられればそのまま煉獄を歩き、耐えられなければ、やり残したことがあると捉え、生き直す。今の自分のまま生き続けるのには、正直飽きている。だから、生きるためには未知の目的が、それに迫る手段が必要だった。

 

ここで、あの女のことが好きなのでしょ、だったら奪い取って愛に生きればいい、なんて紋切り型の生き甲斐論を吐いてくる輩は、上原が忌み嫌う「運命人」の一種に過ぎない。自分の生き様に悩む中途半端な人間に対し、救われるため他人を巻き込めなんてアドバイス、よく言えたものだ。

まだ若ければ、周りを傷つけた結果から学べる余地もあるだろうが、上原も、もう三十五。三十五が悩んでいけないはずはないにせよ、やり方には注意を払いたい。

教育やライフラインにだって恵まれた国だ。だったら、この国で生まれ育った人間はよほどの例外を除き、三十年も生きてくれば正しいと主張できる価値観や哲学、タブーが形成・概成され、三十一年目からはその実践の時期に入っていい。実践の結果、修正の必要や間違いに気付いたら、修正すればいい、訂正すればいい。

しかし悩みとは修正・訂正の必要がないはずなのに上手くいかない、または、修正の仕方が見当つかないという厄介なもの。三十一年目以降にしてその厄介ものに出会ってしまったのであれば、それは、それ以前の思索や志操がいまいちだったから、と嘲笑を向けられても仕方ない。

「闇雲に進め」「後先考えるな」こうした、起こり得る結果より行為の熱量に重きを置き、それに満足する運命人は確かに、結果を見通せない深い悩みの中で無視できない魅力を放っている。

ただ、惹きつけられる理由が、「自分の人生の主役はいつまでも自分」との思い込みから来ているとみる評論があるのは、あまり知られていない。

 

続く