一四 統一の大業は平和的経綸の一手段
ドイツ帝国はかくの如くにしてビスマルクの胸算を追うてついに成り、爾来欧州国際政局の上に要位を占め、その反対に、勢威赫々たりし仏国は第二位に落ちた。
しかしてドイツの統一とほぼ時を同じくしてイタリーの統一あり、欧州の政局はこれに伴うて一大変革を示すに至ったのいならず、ドイツの統一およびその後の執りたるドイツの対外政策は、いわゆる『力即ち権利』の思想を助け、俗にいう軍国主義となった。
しかもビスマルクの当年の政策をもって、先の欧州大戦におけるドイツの大敗の素因と為さば誤まる。
ビスマルクは三回の戦役を経て多年企図せるドイツ統一の大業を達成するや、その次いでのの方針は、かく統一せられたる新帝国の基礎を盤石の固きに致し、かつその経済的発展を成就せんがため、長しえに平和を維持するの方針に全力を注いだ。
ドイツが三国同盟を作り、しかしてその牛耳を執り、欧州大陸における覇権を握るに至れるビスマルクの外交政策は、一に欧州の平和維持によりて国礎を固め、経済上の発達を遂げて国民生活の安定および向上を計るの根本方針より打算されたものである。
ドイツの統一は、みだりに統一せんがための統一ではなく、統一してしかるのちに平和の経綸を行わんとするの手段であった。
統一の大業は、彼の政策の終点でなくしてむしろその出発点であった。
彼はいかにしてこの方針の下にその外交を運用したるか。以下章を改めてこれを述べる。
第五章 新帝国建設後の対外経綸
第一項 外交方針の新基調
一 列国の畏敬の焦点となる
ビスマルクは予定の三回の対外戦を経、その多年企図せるドイツ統一の大業を成就せしめ、その殊勲により老帝は伯爵の彼に公爵を授けられた。この昇叙は、彼の多年の与党たる保守党の反感を招き、それが一原因となりて同党と絶縁するのやむなきに至ったことを思ふと、彼とて有り難くなかったかもしれない。
桂太郎候の公爵昇叙が山縣公との乖離の基となったように、ビスマルクに対する『あの成り上がりものめ』との感は、期せずしてドイツの名門豪族輩の反感を買ったのは、いずれの国にも免れ難い現象である。
けれどもとにかく彼は、普仏戦役を終えて得意の絶頂に立った。
西諺に『成功ほどの成功なし』というのがある。確かにしかりで、当時より四五年前まで政敵からは勿論、宮中および官僚の間よりもややもすれば嫉視排擠を受け、いずれかといえば不人気の宰相であった彼ビスマルクも、今や国内にありては、よしんば一部には多少の反感者ありとはいうものの、だいたいにおいては上下の信望挙げて彼にきし、外よりは列国の畏敬の焦点となった。
ニ 不和と現状維持の要
されど彼は、ドイツ帝国統一の大業を実現せしむるまでは一に鉄血主義をこれ事としたが、ひとたびこれを実現せしむるや、彼はその政策を全然一変せしめ、すなわち新帝国の基礎を強固にしかつその経済的発展に力を注がんがため、爾後は専ら欧州の平和維持ということを外交の根本基調とした。
この着眼が彼の偉いところで、即ち既往三回の対外戦は漫然干戈を弄したのではなく、将来の平和政策樹立のための道程としたのである。
彼のドイツ統一の大業は、もとドイツの対外関係の上における自主と安全を期するに必要という見地に出発したのである。彼はこの目的を達するには連邦内部の不統一を刷新し、外に対して打って一団となることが必須の階梯である、しかしてひとたび対外関係の上に自主と安全を得たる上は、全力を内政の改善発展の上に注ぐを得べしと信じたのである。
同時に、対外関係上ひとたびその地歩を把握し得たる上は、列国に対してはドイツの企図するところは平和にありとのことを納得せしむるを絶対必要なりとした。
彼は、ドイツ統一の大業を成就するまでは干戈を要し、現状打破を要すと為して外交の運用をその方針の上に立て、しかして遺憾なく目的を達成した。
けれども既にこれを達成したる上は、今後は平和が必要である、現状維持が必要であると認め、一切の外交画策を一にこの見地より割り出した。