あらすじ
則子殺害の捜査は振り出しに戻った堀部。北海道への緊急疎開も始まり、彼は疎開者の誘導・警備のため捜査断念を余儀なくされる。
このころ、町では疎開者が集まる銀行で異変が。様子を確かめようと、銀行に潜入した篤志。そこでは、客と行員らがソ連人の人質になっていた。警察に知らせようした篤志だが、工作員に協力する支店長の裏切りで、彼も捕まる。彼の決死の覚悟もあり、どうにか解放される人質たち。しかし、篤志は命に関わる傷を負う。
6 終戦
8月7日。
「最近どう?」
前置きに木下則子が尋ねた。
相手は、最近緊張することが多く眠れない夜もあるのだ、と暗そうに答えた。
「そう。心配だわ」
彼女はコーヒーを一口飲んだ。
「気にあることがあれば、遠慮せず言いなさい」
相手はせっかくの機会だと思い、抱えている悩みを思い切って打ち明けた。その間、則子はうんうん、とうなずき、温かなまなざしを絶やさない。一通り話を聞いてあげた彼女は椅子から立ち上がり、「年を取るとね、経験で分かることがあるの」と言って、相手の傍らに立った。
「あなたは優れた人間。間違いないわ」
相手は謙遜した。
この日。
女学校の校長、則子は校長室で人を待っていた。
既に指定した時刻は数分過ぎたが、相手が来ないかもしれない、なんて悪い予感は一片もなかった。なぜなら、相手は彼女にとって、呼べば必ず吠える首輪の付いた犬にすぎない。
そして、やはり思った通り。
とんとん。
「開いているわ」
則子の声に導かれ、相手が入ってきた。
「よく来たわ。そこへ座って」
則子はわざわざコーヒーを用意していた。角砂糖と一緒にテーブルへ置いてやる。
「自身を持ちなさい。おばさんの若いころと比べたら、雲泥の差よ」
則子が褒めちぎると、あなたはおばさんなんかじゃない、と相手が返し、これには則子もまんざらではなかった。
則子は「その優しい人柄を特に評価しているの」と伝えた。他ならぬ彼女自身が経験させてもらったことだと明かし、その思い出をいくつか話してみせた。それらの出来事は相手もよく覚えていて、2人の打ち解けた雰囲気はより一層高まった。
相手が甘いコーヒーを飲み終え、濡れた口元を拭おうとすると、彼女はハンカチまで貸した。相手は則子のことを、
……信頼に足る人間だ。
と確信した。
この人に頼れば、きっとうまくやってくれると信じ、人を信じるのは何て安心する心地なのか、そう肩が軽くなった。
そんな変化を則子も感じ取り、相手の肩にそっと手のひらを乗せた。
これで話し合いもそろそろ終わりかな、と思われた。相手には少し残念ではあったが、気持ちは十分潤っていた。
肩に乗った則子の手の感触がちょっぴり力強くなった。
「それにしても、あなたやっぱり……」
相手は、則子から最後の褒め言葉をもらえるのだと期待した。
◇◇◇◇
この日。
ついに樺太からの疎開が始まった。最初の疎開者を乗せ、島南岸から出港した連絡船は亜庭湾を航行し、北海道の稚内を目指す。
船の中にはどこぞの小島の岸辺に群れるオットセイやロッペンチョウなど、珍しい海の生物を見られるのではないかと期待し、甲板に出たがる子供らもいたが、年長者たちは大人しくするよういさめた。
このとき、船首の甲板にいた松本正美もオットセイを期待した1人であった。
彼女は女学校5学年の17歳だが、珍しいものは好きだ。それは子供じみた好奇心とは異なり、この先何が起こるかも知れない人生を生き抜くための知識や経験を得る意欲に相当した。
オットセイの泣き声にだって、気付かされることはあるかもしれないから、見れる機会に見ておいて損はなかったのだ。
困難な時代の前で、彼女は自分なりの新しい倫理を欲していたのである。
もしそれがなければ、たとえ戦争を生き残ってもすぐに枯れて死んでしまう。そんな予感があった。
だから彼女は勉学の傍ら、学校では教わらない飲酒や煙草、万引き、さらに男性との経験にも積極的に興味を持ち、恐らく同窓生の誰より早くすべて済ませた。
あの真壁にやらせたのだって、今が盛りのおやじの生態を知る実証実験みたいなものだったのだ。彼が人殺しだと知ったときはさすがに吐き気をもよおしたが、思えばそれも、彼女が欲する倫理へとつながる経験の一つである。
成功も失敗も、善も悪も、良心の呵責も、すべてが彼女の糧にすぎなかった。そういう人間になろうとしていた。
それだけに、見たいものを見られなかったときの気分も悪い。
しかし残念ながら、そもそも今日の海にオットセイもロッペンチョウもいなかった。
「まあいいわ」
こう切り替えられるのもまた彼女なのだ。もしここで、気の利いた大人なら彼女のために言ってやったかもしれない。「君が目指しているのは単なるニヒリストだよ」と。
さて、少しして海の景色にも飽きた正美は船室に戻ろうとした。
甲板から下りる階段の手すりをつかむと、下から上ってくる小野田妙子が見えた。正美は挨拶した。相手も軽く会釈すると、すれ違って上っていく。
「外へ出ても何もないわ」
正美は親切心で教えたつもりだった。
妙子は返事もせず、黙って上がろうとした。その背中に気分を害した正美だったが、気が張ってるのかもね、と気にせず行こうとした。今度は妙子に呼ばれた。どうやら話したいことがあるという。正美は快く応じ、また階段を上った。
2人以外誰もいない甲板に出たら、
「何です、話って?」
意外にもそれは男の話だった。気になる男がいるのだが、距離の縮め方で相談したいのだという。
……そんなこと。
正美は自分の経験から来る教訓をそれとなく抽象化して話してやった。これを聞いて参考になったか、妙子はうなずいた。
けれどすぐ、不満そうな顔を正美に向けてきた。さらに、何だかんだと合点のいかない文句までぶつけられたので、正美は憤慨した。
……何よ、いい女のつもり?
正美は肩をいからせ、さっさと階段へ引き返した。
ところが妙子は追い掛けてきてこう言うのだ。
「淫乱」
自分で思うのは勝手でも、他人に言われて気に障ることはうんとある。
2人は階段の上で言い合いになった。正美はまだニヒリストになりきれてなかった。むきになったある瞬間、ほとんど条件反射で相手の肩を小突いてしまった。
しまった、と後悔したときにはもう遅い。妙子は態勢を崩し、階段を転げ落ちた。
何もできない。
せめて、1段でもいいから早く止まってほしい。正美の顔は真っ青になった。
この日は8月13日。
出港前、港のサエは篤志の姿を探していた。
……きっと来てくれるはず。
そう信じてずっと待っているのだが、なかなか姿を見せないのが残念というより、むしろ気掛かりでもあった。
……きっと来る、きっと。
何度もこう思い、広い港の岸壁を行ったり来たりして一度見た場所もまた探してみたが、姿はどこにもない。
仕方なく、少し失望し、またみよ子の元へ戻ろうした。そこにはあのスミレの姿もあった。