片山英一’s blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 10 第三国牽制の苦心

 

五 次はオーストリア

 

次はオーストリアの討伐である。

前にも述べた如くビスマルクの生まれた一八一五年という歳には、欧州外交史上に一時期を冠せる有名なるウイーン会議があった。

 

この会議の牛耳を執れるオーストリアの宰相メッテルニヒは、同会議において大いに自国の外交上の地位を高めたると同時に、プロシアのそれをば甚だしく低めたものである。これをビスマルクは少年以来おのれの誕生の年と関連的に想起するごとに、いつか一度はオーストリアの権勢を挫いてやろうという念はかねてから萌しておった。

 

ビスマルクは、オーストリアがドイツ連邦の一として存在する限り、プロシアを盟主とする連邦の統一は期し難いと見、ひとたび戦ってこれを連邦の埒外に駆逐するを必要なりと認めた。
 

彼がこの目的の下にオーストリアの討伐に志すや一日に非ず、しかしてその場合における外交的地位をあらかじめ有利に疏導しおくについて彼の取りたる政策には、人工つきてほとんど神技に類するものがある。

 

当時プロシアの軍隊は、陸相ルーン、参謀総長モルトケの周密なる画策によりますます整備し、オーストリアを撃つに遺憾なかった。

ただ懸念するのは、露仏の両国またはそのいずれかの一国がオーストリアを援助するやも測り難いというその一事である。
 

六 第三国牽制の苦心

 

そこで彼は、まずもって露国のおのれの味方に引き寄せおくについて十二分の思慮を巡らした。

普墺戦争に先立つ十二年前なる一八五四年のクリミア役に際し、露国のバルカンに勢力を得るのをあくまで不利とするオーストリアは、戦局の露国に有利に展開するのを牽制せんと欲し、それがためにプロシアの援助を必要と見、かつ当然それを期待したるに、ビスマルクは毫も動かず、かつなまじに動いてオーストリアのためを計り、露国を抑えてみたところで、これによりて利益を握るものは英仏墺で、プロシアは火中の栗を拾うの損な役割を演ずるに過ぎぬ、むしろ露国に好意を示して恩を他日にうるの賢なるにしかずと打算した。

プロシアが当時局外中立を守ったのは、彼の深謀遠慮の一端を示したものである。

 

さるにても、クリミア戦争の終局に処する外交は、プロシアとしても大切であるので、いよいよ講和会議が同五六年にパリに開かるるや、プロシアもこれに参加せんとしたところ、オーストリアは極力これに反対したけれども、ビスマルクは疾くオーストリアの反対すべきを見越し、その前年にパリに往いてナポレオン帝と内儀し、またたまたま同地に来遊ありたるヴィクトリア女皇にも謁し、その諒解を握った。

 

ゆえにオーストリアの故障も効なく、プロシアは英仏露墺伊土と共に講和会議に参加し、よってもって当時欧州においてなお第二流国であったプロシアの欧州政局上における発言権を列強間に承認せしめたのである。

 

次いで一八六三年の初め、露領ポーランドに反乱が起こった。

すると英仏両国は自由思想擁護の趣旨から、またオーストリアは露国を嫉視するところから、共に均しくポーランド人に同情を表し、三国連合して露国に対し叛徒に自治を与えんことを勧告せんとした。

 

プロシア国内にても、一八四八年の革命当時を偲ぶ自由主義者は隠然該叛徒に同情し、露国にありても、ポーランド自治を与えるはこれすなわち追って露国に憲政を迎える前提たるべきものとの信念から、叛徒に声援を与える者すらあった。

 

しかるにビスマルクは、この際右の反乱鎮圧について援助を露国に与えておけば他日プロシアオーストリアと戦う場合に露国の援助、もしくは少なくともその好意的中立を把握するを得べしとの打算から、右の反乱が普領ポーランドに伝染するの虞ありとの口実の下に、内外の異論を排し、普王に勧め、露普相結んで共同の敵を弾圧せばやとの意を披瀝せる露帝宛の親翰を特使に携帯せしめて露都に派し、併せて叛徒追撃のために露軍のプロシア領土を通過するは妨げなきこと、という内意を露帝に通じ、この趣旨に関わる共同防御条約なるものを露国との間に取り結んだ(一八六三年二月八日)。

 

ビスマルクは、プロシアは決して実際血を流すまでには至らない、ただこうして露帝に安心を与えておけばよいので、無意味の印判一つで露国の好感情を握りおくを得ば廉価のものだと打算したのである。

彼のこの外交的措置は、果たして異常の好感を露国に与えた。かくして露国は容易に叛徒を弾圧するを得たと共に、プロシアは強大なる一友邦を露国に見出すを得るに至ったのである。

 

次は、普墺開戦の場合において仏国をオーストリア側につかしめざるよう牽制することである。これはプロシアとしてことに大切である。

 

さればビスマルクは、右開戦の前年、すなわち一八六五年の十月、この目的を胸底に蔵し、保養を名としてパリに遊び、転じて仏西両国の境上に近き海浜のピアリッツに行き、同地滞在中の仏帝ナポレオンに会し、懇談を遂げた。

 

ビスマルクは、虚栄に富み矜誇に耽るナポレオンに対ししきりにその外交を逍遥し、予に世に普仏同盟ほどの自然的でかつ合理的の同盟は他にあらずと述べ、かつ一歩進み、ベルギー人は人種および言語の同一なるにおいて元来仏国国民たるは当然のこと、ゆえをもってプロシアの北ドイツ諸邦を併合するを仏国において黙認せらるべき代償として、仏国はベルギーに手を伸ばすもプロシアは異議を挟まざるべし、とまで巧みに持ち込んだ。

 

大の空想家たるナ帝は心大いに動き、すなわちビスマルクに対し、プロシアにしてマイン以南のドイツ連邦に手を伸ばしてこれをその勢力の下に置かんとするようにならば、仏国は中立態度より離るるなきを保し難きも、プロシアがだいたい北ドイツ連邦を統一してこれを統御するという限りは、朕はプロシアに対し好意的中立を守るべしとの意を語り、かつプロシアにしてイタリアと共に仏国に結び、英国の勢力を地中海より一掃するに同意するにおいては、朕はプロシアオーストリアをいかように処分するも妨げずと告げ、むしろオーストリア討伐を慫慂するの語気であった。

 

かく打ち解けたる談合の結果、ビスマルク北ドイツ連邦の統一戦におけるナポレオンの好意的中立の保障を握ったのみならず、さらに彼をして伊国に対し、オーストリアを背後より衝くことによりてプロシアを援助すべきことを慫慂せしむるまでに至らしめたのである。

 

仏露両国との外交的瀬踏みはかくしてまず安全との見当がついたので、プロシア宮廷にては翌六六年二月二十八日、オーストリア討伐に関する御前会議が開かれた。

 

席上モルトケ将軍は、イタリアにしてオーストリアをその背後より襲い、墺軍を二分せしむるを得ば、普軍の勝算疑いなしとの理由で、イタリアとの共同運動を必要とする意見を詳細に述べた。

ビスマルクも同感で、その結果イタリアとの間に、同国をしてヴェネシアを完全に領有せしむることを餌として、プロシアを援助するという密約を同六六年四月八日に取り結んだ。この密約は、調印の日より三カ月を期して実行せらるるというのである。

 

そこでビスマルクは、右密約の調印ありしその翌九日、ドイツ連邦議会に連邦代表資格の改正案を提出した。

 

これはオーストリアが不同意を表するのを承知の上でわざと提出したので、すなわちこれによりてオーストリアを激怒せしめ、よってもってこれを対普開戦に挑発せしめんとの腹であった。

鉄血宰相ビスマルク傳 11 ナ帝まんまと罠に、対墺講和の苦心 - 片山英一’s blog