あらすじ
則子の死で、ある計画が頓挫した源造ら。源造は、その責任を則子の愛人だった真壁に押し付けた。堪えかねた真壁は、源造失脚を狙い、「売国奴」の醜聞を流布。触発された島民らは、源造襲撃に及ぼうとするも、堀部の機転で、源造たち一家は警察が保護する。
しばらくして堀部が帰ってくると、休む間もなく、源造だけ別室に呼び寄せた。すぐさま、「知ってることを話してください」
「何のことだ?」
「まだしらを切るのですか?」
堀部は荒い息を整えた。
「売国奴」
「な、何を! あれは濡れ衣だと言っただろ!」
「違う、あなたは売国奴だ」
「貴様!」
源造は目も頬も耳も、みるみる赤くなった。堀部は動じず、「売国。正確には、国を売ろうとした」
堀部はとうとうと話し始めた。この先はこうである。
彼はまず、
「木下則子、小野田達吉、玉田高太郎、真壁一、それに古谷源造……」
こう切り出し、
「この5人は、帝国の戦況に分がないなとみるや……うまく敵国に取り入ることを考えた」源造に睨みを利かせた。
「何を馬鹿な」
「特に不安だったのは、中立条約を破棄したソ連の侵攻。現実となれば、樺太全土が彼らの支配下に入るのは間違いなさそうだ」
堀部は続けた。
「もしそうなれば、自分たちの身や、これまで繁栄してきた事業はどうなる……。なぜなら、ソ連は社会主義国家だ」
「……」
「そこで5人はソ連と取引しようとした。敗戦すれば米国が支配することになる本土で、ソ連の暗躍を手助けしようとし……」
「……」
「そのために、本土の機密情報を手に入れ、それを渡すのを条件に、自分たちの身の安全や事業の保証を取り付けようとしたんです」
「ふん……」
「しかし」堀部は再び、目で源造を制した。
「……しかし、途中で計画が狂ったか、あるいは仲間割れかが起こり、1人を殺害した。これで一度狂った歯車は狂い続け、仲間割れも深まり、さらに仲間の誰かがもう1人を失脚させようとした。その標的になったのが古谷源造、あなただ」
「……とんだ、作り話だ」
源造は鼻で笑った。
「すべて想像だ、憶測に過ぎない。こんな話が何だというのだ!」
「あなたは不義理な人だ」堀部は断じた。
「何だと!」
「国家反逆は重罪です」
「そんな証拠がどこにあるのだ!」
「あなたたちは情報を失くし、ソ連と取引することができなくなった」
「だから知らん!」
「木下則子は実際殺されている」
「やったのは私ではない!」
「あなたたちは、情報を持っていた彼女を死なせてしまい、その在りかが分からなくなってしまった。それとも、玉田高太郎に持ち逃げされましたか?」
「持ち逃げ? 奴は仕事で本土にいるだろ!」
「なるほど。どうやら玉田さんに対しては、殺しの疑いを持っていないようだ」
堀部は眼光鋭く言い放った。
「でも我々は違う」
「だから……」
「だから、あの怪文書が出て念のため、我々は高太郎を除く玉田家の一家全員、達吉を含む小野田家の一家全員をすぐ保護しました。あなたとのつながりが知れれば、興奮した島民たちに同じように襲撃される恐れが、なくはないと考えたからです」
「……」
「みなさん、何事が起こったのかと呆気に取られていましたよ。けど、小野田達吉だけは怯えていた」
ようやく堀部は声を静めた。
「そして、感謝されました。彼にはまだ素朴さが残っていた。彼は全部を話してくれたのです」
そして……。
島南岸の漁港。
「急げ、急げ……」
真壁は一隻の漁船を使い、島を出港しようとしていた。
「こらあ! 船に勝手に触るな!」
持ち主らしき男が叫んだ。真壁は無視し、船を係留する綱を外そうとすると、
「真壁!」
複数の警官が怒鳴りながら迫った。
「そこを動くな!」
「うう……」
綱を外すのが間に合わないと焦った真壁は、慌てて走り、逃げだした。
「この野郎!」
「あああ!」
真壁は全力で駆け、警官を引き離そうとした。すぐに前方から別の男が現れ、まんまと挟み撃ちにあう。前から飛び出てきたのは谷山だった。
「観念しろ、真壁!」
「くそう!」
真壁は往生際悪く吐き捨て、懐から短い刃物を抜き出した。
「死にたくなかったらどけ!」
「ほう」
谷山は身構えた。
「そいつで、玉田高太郎も殺ったのか?」
「うるせえ!」
谷山は突き刺してきた刃物をサッとかわし、真壁の手首を力強くひねった。
「警察をなめるな!」
「じじい……」
この隙に他の警官たちは飛びかかり、真壁の動きを完全に封じてみせた。
「あああ……」
うなだれる真壁に、谷山は吐き捨てた。
「ガキめが」
こうして日も暮れ……。
警察に保護された妙子は、署の一室で泣いていた。
「妙子さん……」
一人、椅子で泣く彼女のそばに高文が立った。
人殺しに加担し、国をも裏切ろうとしていた妙子の父はその罪が暴かれ、娘の立っていた世界をもバラバラに崩したのである。
一方、高文の父……。
彼もまた罪人ではあったが、思いとどまるか、とどまらないかの差で、殺す側と殺される側に別れたという違いがある。
そう、高文の父は思い止まろうとし、殺されたのだ。いや、実際は思いとどまるなどと、そんな格好のいいものでなかったのかもしれない。
高文にも、その程度の想像力は十分あった。それゆえ、彼はそっと彼女の肩に手を伸ばしたのである。
けれど、彼女は肩を引いた。高文の手がゆるりと下がる。それから沈黙は長く続き、このまま宙ぶらりんにしていると、彼の片手はまるで、空気になくなっていくかのようなのだ。
また別の部屋では、スミレもやはり沈黙していた。
彼女には父の判断も、妙子の絶望も、高文の辛苦も、島民の心情も、外国の脅威もすべて分かって、分かるから、思いが散らかり言葉が出てこない。
言葉が見つからなくても、思うことを止めてはならない。
一つの言葉で言い表せないのなら、散文でもいいから用い、まだ知る由もない正しさに、一つ一つ近付かなければ。
この先必要なのは、その散文を結び付ける思想だった。
残念ながら、彼女に答えを教えてくれる者などいない。胸の中で、ただ「こっちだ」と誰か呼ぶような声がするだけである。その声を聞き、まどろむように彼女はつぶやいた。
「尊史さん……」
その夜。
「……真壁も保護しようとしたが、既に彼はいなかった。その時点で、彼があの怪文書を作ったのは察しがついた」
署に戻ってきた谷山に、堀部は説明した。
「あとはどこへ行ったか。島から出さないため、まず近くの港を抑えてもらった」
「その中でも、一人で逃げる気なら小さな漁港か。あっ、いてて……」
谷山は手の切り傷を抑えた。包帯には真っ赤な血が滲んでいる。
「大丈夫か?」
「問題ない。名誉の負傷だ」
「そう、感服するよ」
「海岸警備に移る前に、いい手柄を上げられた。この戦争が終わったら出世につながる」
「ああ。こっちからも推薦しとく」
谷山は照れ臭そうにしたが、さっと気を引き締めた。
「玉田高太郎の遺体は?」
堀部は呼吸を置き、「お前の治療中、真壁が吐いた場所へさっき警官が向かった。今日立ち入り禁止にして、明るくなったら掘り起こす」
これは少し前。
捕えられた真壁は、玉田高太郎殺害を自白していた。
「則子と源造に命令されたんだ……」
取調室で堀部と向き合う彼は呆然とし、「死体の処理が一番困った。結局、山に埋めた」簡単に罪を認めたのだ。
「……本土への出張は口裏合わせか」と谷山。
「高太郎も仲間だったが、ソ連との取引に乗り気でなかった。邪魔になると思い、消された」
堀部は沈みがちに話した。
「真壁に呼び出され、殺されたのは7日の昼頃。その直前の朝は、うちの署に来てたのに……」
「高太郎の息子も哀れだ。真壁の挙動におかしさがあったのは人を殺したからだろうが、あいつはそんな汚れ役も承知で仲間に?」
「彼は、木下則子の愛人だ」
「なるほど。愛人だった木下則子も真壁が殺ったのか?」
堀部は改まって、「それは違う」
「ああ?」
「高太郎を殺した則子たちは、4人で計画を続行するつもりだった。4人に揉め事はなかった」
堀部は重々しく続けた。
「達吉もそうだし、お前が真壁を追い掛けてくれていた最中、源造もそう証言している。真壁も、木下則子殺害はきっぱり否定した」
「そんなの、嘘言ってんだろ?」
堀部は首を振り、「あの3人には木下則子を殺す理由がない」ぐぐっと眉をひそめた。
「彼女は、計画の最も重要な鍵を握ってたんだ。それがあったから、源造たちも彼女の話に乗った」
「じゃあ、誰が彼女を殺ったんだよ?」
谷山は鬼気迫る感じだ。
「それは……」