lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 9 ドイツ帝国建設へ、まずデンマークを討つ

 

第四章 ドイツ帝国建設の大業

 

第一項 大業遂行の順序方法

 

一 天の下せる一大経世家

 

十九世紀の後半の欧州歴史の上において、国際政局上の顕著なる一大現象と識認せざるべからざるものはドイツ帝国の勃興である。

 

ドイツは一八七〇年の役において仏国を破り、よってもって国内の統一、帝国建設の大業を成就したるが、その以前にありては、ドイツは国際政局の上には無意味なる小国団たりしに過ぎなかった。

数十個の小王国、小都市などは漠たるドイツ連邦の名の下にに雑然繋結せられ、ただ言語を一にし、文学を一にし、音楽を一にするにおいて、地理学上には一国をなすの観はあったけれども、政治的意義においては、一国民をもって目し得ざるものであった。

 

その連邦中、プロシア墺太利とはやや大国の中に算せられたが、この両国は互いに相和せず、したがって外敵に対し連邦一団となりてこれに対抗し得るが如きは思いもよらなかった。

ドイツ民族は遠き昔より政治的統一の夢を見ぬではなかった。別してナポレオン一世の没落後、一時は現実の問題とならんとするの風もあった。けれどもいよいよできかかるとなると、国内諸連邦間の嫉妬排擠その他の事情はいつもこれを妨げ、統一よりもむしろ分離の傾向のほうが強かった。

 

この時にあたり、ドイツの統一の大業のために天は一大経世家を世に下した。ビスマルクがその人である。

 

ビスマルクはその露都にあるの日、露国のクリミア戦役後における対バルカン策の新基調を看破するとともに、露国の排墺的感情をそそるに主力を注ぎ、転じてパリにあるや、ナ帝三世をして仏普の提携に望みをつながしめ、帝をして、普が墺に代わりてドイツ連邦の牛耳を執ることに成功するまで中立を守らしむるの意向を固めしむるにこれまた全力を尽くした。

しかしてこの二つの鍵を充分に握って彼はベルリンに還り、プロシア首相の印綬を帯び、ここにいよいよその対外的大経綸に着手するの段取りとなったのである。

   

二 胸中に立てたる大方針

 

ビスマルクは、ドイツ統一のためにまずその邪魔者たる墺太利を武力にて連邦外に放逐せるべからず、たの諸連邦をもまた同じく武力にてプロシアをその盟主に仰がしめざるべからず、との方針を胸中に立てた。しかして彼は三回の戦争を経、予算通りその目的を達した。

三回の戦争は一八六四年にデンマークと、一八六六年に墺太利と、それから一八七〇年にフランスとの開戦がそれである。

 

プロシアの軍隊は、国王ウィルヘルム一世の下に極めて有力のものとなり、鉄血宰相の外交の背後に立ちていつにても後押しに用立つまでに整備せられた。プロシアの陸軍に大刷新を加え、欧大陸の最鋭の兵甲にしたのには、参謀総長モルトケの他に陸軍大臣ルーンのあったことを看却してはならぬ。

 

ルーンはプロシア軍隊の改造案を立てたが、議会はこれに要する経費を否決したので、政府と議会の衝突となり、ついにルーンの内奏にてウィルヘルム王は在仏国公使ビスマルクを宰相に擢用し、その鉄腕を借りて難局を切り抜けた次第は前に述べた。

 

ビスマルクとルーンは、学窓以来共に相許せる無二の友人であった。ビスマルクは宮中においても、政界においても、はた陸軍部内においても、随分敵の多かった人で、一時はまったく孤立無援という時代もあったが、この間にありて独りルーンのみは終始一貫し彼を敬し、ビスマルクもまたルーンを肺腑の友とし、両者互いに会い助け合うたものである。

 

とにかくビスマルクが宰相となりてより程なく、あたかも一八六三年の七月、デンマークとドイツ連邦との間にシュレスウィック・ホルスタインの両公国に関する紛争が起こった。

 

三 まずデンマークを討つ

 

この紛争が起こるや、ビスマルクは機乗ずべしとなし、オーストリアを説いてデンマークに対し共同開戦した。

この開戦の原因は、かつて英国の首相バルマーストンが『極めて不可解なもので、それを理解する者は三人しか無い。一はアルバート公で、既に故人である。二はデンマークの一政治家で、今は精神病者である、三は予である。しかして予は一切を忘れてしまった』と言えるが如く、その真相には詳らかでない点も多々ある。

 

けれどもこれだけは確かだ、すなわちビスマルクは対デンマーク開戦という極めて不人気な戦争にまずオーストリアを引き入れて、その責任をこれに分担せしめ、次に講和条約において墺に対する他のドイツ諸連邦の反感を高めしめ、三には墺が講和条約において得たる結果を追って奪い取ってやる、という狡い考えから割り出した事実がそれである。

 

そもそもこの開戦の由来は何であるか、またどうけりがついたかというに、概略を述べるとざっとこうである。

 

四 開戦の由来と結果

 

一八一五年のウイーン会議は、欧州の若干国の分合をある程度までいわゆる国民主義によりて行ったのであるが、なお手の届かなかったところが二三あった。

シュレスウィック・ホルスタインの二公国のデンマーク所属となりおれるが如きは、その顕著なる一例である。

 

同両公国の住民は、シュレスウィックの一小部分を除くほか、ほとんど挙げてドイツ民族であるところから、かねてデンマークの羈絆を離れてドイツの領民とならんと欲する風があった。そこで一八四八年前後、欧州各地に民族関係に基づく独立運動の勃興するや、両公国の住民は、当時あたかもデンマーク国王フレデリック七世に男子なかりしため継嗣の問題が起こったのをきっかけに独立の軍を起こし、キールに仮政府を立てたるに、プロシアはこれに応援を与えたので、一転して一八四八年五月に丁普の戦争となった。

 

けれどもオーストリアプロシアの成功を喜ばない所から、露国を促して干渉をなさしめたので、丁普の戦争は間もなく終局となり、一八五〇年十一月二十七日のオルミユッツ条約にて、ニ州の処分はドイツ連邦議会において決することになり、その結果両公国は依然デンマーク領とするということに決まった。

 

しかるにデンマークにおいては、継嗣問題が容易に解決せず、ついに一八五二年に入り英、墺、仏、普、露、スウェーデンノルウェー、およびデンマークの列国会議がロンドンにおいて開かれ、同年五月八日に一条約ができて、これによりScloswig-Holstein-Sonderbourg-Glucksbourg というすこぶる長い名の王室の一系統に属するクリスチアン公という人を継嗣に迎えることに決まった。

 

しかるにニ公国の住民は、別にオウグステンブルグ公というのを継嗣に押して相争い、かつ両公国のデンマーク領たるを肯じない。

フレデリック七世王は、デンマーク王国の統一を計るため、両公国を含む全国に実施すべき憲法を制定し、一八五五年十月にこれを発布した。しかるにプロシアはこれをもってドイツ民族の結合を破る企図なりとなし、連邦議会に迫って干渉せしめたので、デンマークは譲歩し、ホルスタイン公国に限り、そのドイツ連邦に入りおるのゆえをもって、これを憲法実施域外に置くことにした。

 

そうなるとシュレスウィック公国も承知せず、再び独立の運動を始め、プロシアはまたこれに声援を与えた。

そのうちにフレデリック王は崩じ、クリスチアンはその位を継ぎ、次いで新憲法を実施した。それがため丁普の関係は急に緊張し、ついにビスマルクは巧みにオーストリアを誘い、普墺の連合軍をもってニ公国のためにデンマークを討伐することに決した。

そこでプロシアデンマークに対し、新憲法の廃止を公然申し込んだところ、デンマークはこれに応じなかったので、普墺連合軍はただちに開戦した。

 

しかして無論デンマークの負けとなり、ついに一八六四年十月三十日のウイーン条約にて、両公国をデンマークより割いて普墺両国の処分に委ねた。

 

翌六五年八月、普墺両国は有名なるガスタイン条約にて、プロシアはシュレスウィックを、オーストリアホルスタインをいずれも支配し、かつホルスタイン州の南に位するラウエンベルグと称する小地方は、プロシアにおいてこれをオーストリアより買収することとなった。

このラウエンベルグを普領に買収し得たることは、国王ウィルヘルムの欣喜措くあたわざりしところで、王はビスマルクに同年九月十五日付の親翰を賜うて大いに勲功を嘉し、同時に彼を伯爵に叙した。

 

かくの如くにしてデンマークの役は済み、両公国の所属は決まった。けれどもオーストリアホルスタインを支配することは他をドイツ連邦の大いに嫉視するところで、これによりドイツ連邦の墺に対する悪感情は案の定高まった。

   

ビスマルクは初めより百も承知でわざと墺に同州を与えた次第であるのみならず、彼はこれをもって他日の局面展開までの暫定的取り決めに過ぎずと看做し、早晩オーストリアを蹴飛ばしてプロシアの権勢を確立するの意図を疾く抱いていた。

 

デンマークを片付けた後はオーストリアの順番である。

ビスマルクの外交画策はいよいよ佳境に入る。

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