lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 3 外遊から帰りドイツが田舎臭く見ゆ

 

七 外交官を志して成らず

 

彼は一八三五年、齢二十にしてベルリン大学を出づるや、腕力得意なるも服従とか規律とかをその頃はなはだしく嫌える彼は、徴兵に取られるのが嫌で、父の入営勧告を避け、急に詰込主義の勉強をなし、文官任用試験を受けたところ、幸いに合格し、ベルリン地方裁判所の見習いに任用せられた。これが彼の官界への踏み出しである。
 

彼は当初外交官を志望したが、外務省は彼の採用を好まなかったので、かれは嫌々ながら裁判所の小役人となったのである。

後年の世界的大外交家も眼識の無い外務当局者には三文の値打ちをだに認められなかったものとみえる。

 

八 司法官としてすこぶる不首尾

 

けれども、元々裁判所の見習いなどがその素志にあらざるビスマルクは、職務に趣味も熱ももたなかった。

彼は翌三六年、実務試験を経てエイ・ラ・シァベル裁判所の司法官補に転じたが、これとても一向満足せず、かつその剛腹の性質は同僚との間に円滑を欠かしめ、上司の覚えもはなはだめでたくなかった。ただ彼は公務にて一切ベルリンの宮内省にまかり出でて、始めて皇諸ウィルヘルムすなわち後の老一世帝に拝謁するの機会を得た。

彼が後年帝の眷顧を担うに至ったもとはその際にある。

 

彼はエイ・ラ・シァベルに在職中、飲むのと打つのとで大借金ができた。加うるに彼は、一英婦人と恋に落ち、夫婦約束までをした。けれども種々の事情で、それは破談となった。

原因の一つは、あの借金だらけの男ではとて、女のほうからも二の足を踏んだものらしい。

間もなく彼は、また同じ英国人である別の婦人とも婚約し、その家族と共にスイスまで浮かれ遊んだこともある。しかも役所には無届旅行で、出先から欠勤届、次いでは辞職願を送った。おまけに中途金が欠乏したとて、父に送金方を請求し、さすがの慈父も呆れてこれをはねつけたという始末である。

この二番目の女も、やがては巨万の財を有するプロシアの一大佐に鞍替えし、ビスマルクを振るに至ったので、これまた自然破約となったという滑稽談もある。

 

彼は司法官補を棒に振り、また恋人の愛に振られたが、格別しょげる風もなく、借財を負いつつ大手を振って父の家に帰って来た。父母郷友も心配し、彼に計るなく彼のために就職口を探し、ようやくボッタム裁判所の司法官補の欠員があったので、辛うじてそれに採用せらるることになった。ただし今後は必ず職務に精励すべしとの誓約書を差し入れての上であった。

けれども、これとて必ずしも上首尾ではなく、在職わずか三カ月にして彼はまたまた辞職した。

 

しかして兵役義務は彼を容赦しないので、彼はついに意を決して一年志願兵となり、近衛大隊に入営した。

営にありてもとかく上役と衝突し、軍規に問われんとしたこと幾回なるを知らず、彼自身も『俺は到底上官の気に入ることはとこしえにできまい』と白状せるくらいであった。

 

九 兵役を了へ田園に帰る

 

志願兵の服役もどうやら無難に済み、翌年除隊となったが、これより先七十歳近くの父は事業に失敗して財産の大部分を失い、家政不如意となったので、多年住み慣れしボメラニアを去って郷里のシエーンホイゼンに引き移りてそこに隠居し、ボメラニアに残せる余財の整理方を彼とその兄に委任するに至ったので、彼は除隊後ボメラニアに退いて一時田園生活に入った。

さりながら彼の武性は、到底田園生活で終わらしむるはずなく、またそれに満足するはずもない。

彼の晴耕雨読は、つまり鷙鳥のまさに羽ばたかんとしてしばらく翼を収るに類する。

 

彼はグライフスワルド大学の聴講生となりて農事の研究などやってみたが、それも三カ月にてやめた。その間に彼は、オットの強情な性質が矯められて順当に立身出世せしめばやと衷心祈願せるその慈母を失い(一八三九年)、悲嘆に暮れたが、喪期の終わるとともに悶を大旅行にやれんと欲し、殊にいつかロンドンに遊ばんとの渇望もあったので、ついに一八四二年の春、二七歳の時、渡英の途に就いた。

 

一〇 外遊から帰りドイツが田舎臭く見ゆ

 

彼は英国の文明を目撃し、幾多の点において感に打たれたが、特に食い物の豊富なのが彼にはよほど気に入った。

彼がロンドンから父に送りし手紙の一に『当国は大食い者の国ににて候。…食品は皿の持ち回りでなく、とてもご想像の及ばぬ大切れの肉が朝餐の時から既に食卓の上に置かれ、幾ら沢山食ってもよろしく、しかも勘定書きには影響これなく候』とあるなどは面白い。

 

彼は転じて仏国に遊び、大いに見聞を広め、先進文明国の空気を十二分に呼吸してドイツに帰った。

 

さて彼は帰ってみると、万事が田舎臭く見えて面白くない。ましてボメラニアの田園生活をやだ。

外遊の念は再び湧起し、こんどはエジプトから小アジア方面に遊び、あはよくばインドに往いて英国の役人でもなってみたいとまで思い詰めた。けれども種々の事情で再度の外遊を決行するを得ないで、悶々のうちに月日を送りつつあった。

 

ほどなく一八四五年、これに先立つ六年に母を失える彼は、今また父の長逝に遭った。彼はその配当せられたる父の僅かばかりの遺産を擁し、永住の地と予定せるシエーンホイゼンに退いた。そして推されて堤防及び灌漑工事の監督というものになった。

 

この工事監督職は地方議会と職務上の関係が密接であるところから、彼は同議会に出入する間に知り合いも多くなり、ついに選ばれてその議員となったものである。

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