lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 4 神権政治論で名を政界に知らる

 

一一 良配偶を得た

 

丁度その頃のこと、彼はある日友人の家で一佳人をみそめた。格別美人というのではなく、顔は薄黒く体は小作りのかよわいほうで、イタリー人型の婦人であるが、どことなく清楚にして気品があり、温良摯実というにおいては一点の申し分なく、自然に堅夫人という容姿品格を備えた者である。

ビスマルクは一見して彼女に強く心を惹き付けられ、たちまちにして恋に落ちた。

彼女はブットカマー家のヨハンナ嬢である。

 

そこでビスマルクは、数日後ついに意を決し、結婚切望のことを彼女に父に申し送った。その文面の自己紹介に『彼は尊大の一事を除けば、人物は極めて快活でかつ理性に富む』と書いたところなど、ビスマルクらしくすこぶる振るっている。

けれども当時ビスマルクは、郷党の間に『狂ビスマルク』のあだ名があったくらいで、粗暴な人と目せられ、したがって彼を善視せざる嬢の両親はこれをゆるさない。しかるに嬢には応諾の色あったので、両親はとにかく親しく人物を見た上のことにせんとて、ある日食事に彼を招いた。

 

ビスマルクは意気揚々とやってきた。そして、車を降りて玄関に入るや否や、いきなり嬢を抱擁し、慇懃に接吻した。その乱暴に両親は呆気に取られたが、その熱心には彼ら動かされ、ついに納得し、つつがなく婚約ができた。

ビスマルクは前に述べた如く既に二三回の婚約を重ね、皆中途にて敗れた。破れた原因は今問わず、今度という今度は、双方ともに鉄石の決心をもって相約した。

そして半歳後の同年末、彼らはいよいよ華燭の典を挙げた。

新郎三二歳、新婦二四歳。

 

 

第二章 国政に参与

 

一 地方議会連合会議から振り出し

 

かつては親しく一八一五年のウイーン会議に列し、次いで有名なる神聖同盟の立役者たりしプロシア国王ウィルヘルム三世は、一八四〇年の七月、七十歳の高齢をもって崩御した。

帝はさきに欧州を風靡し来たりたる自由民権の時代思潮に制せられ、国民に向かって憲法制定のことを約したが、その約をを果たすに至らずして内外多事のうちに崩御となった。

 

新王ウィルヘルム四世は、即位後七年の一八四七年二月、憲法草案諮問のためプロシア国内8カ県の地方議会の連合会議を五月を期しベルリンに召集することの令を発した。

この地方議会連合会議は、立法議会たる権限なき一の諮問会に過ぎなかったが、とにかく目的が目的であり、かつプロシア全国の代表者五百名の集まるものであったから、かなり権威あるものとして中外の注意を惹いた。

ビスマルクは青雲の志を達するの時期ようやく到れりとなし、選ばれて右の連合会議に代議員たらんことを欲した。しかして規定の一代議員の急に病めるを機会に、その補欠に当選し、同年五月、意気揚々としてベルリンに乗り込んだ。

 

やがて連合会議の開会となるや、国王は親しくこれに臨御し、宣示を下した。

 

ようは帝王神権論の高調で、特にうちにおいて『君主は単に上帝の掟訓と国家の法則と自己の意思とによりて国家を統治すべく、衆民の意向の如きはこれに従うを選びず』との一句あるに及び、議員は激昂し、中には憤然席を蹴って退席する者すらあった。

 

しかも帝王神権論の味方たるべき保守党は、全代議員五百名中わずかに七十名に過ぎず、その七十名すら、中に反対党たる自由党の面々に当たり得る有力なる闘士がほとんど無い。

しかるに、その間にありて挺身進んで帝の宣示に賛成の演説を堂々とやる者が一人あった。

それはビスマルクである。

 

二 神権政治論で名を政界に知らる

 

ビスマルクは、日程が国家保障の農業銀行設置案に移りし折を機として処女演説をやった。しかも自由保守の両党にともに当たり散らした大演説である。

格別雄弁はないが、熱のこもった押し強い演説である。

彼はそのうちにおいて『プロシア神権政治の下に最も多く国利民福を挙げ得た、プロシア国王は絶対の主権を上帝より受けたもので、議会制度は国王が任意にその一部を割いてこれを臣民に賦与したものにすぎぬ』と述べ、はばからず自由民権党に挑戦した。

 

その後も数回演壇に立ったが、野次や妨害で立往生することもあった。すると彼は、向きを変えて演壇を背にし、ポケットから新聞紙を取り出して頓着なく読み始め、議論の騒ぎが静まるまで読み続け、少し静まったところで演壇に向き直って前の演説の続きをやるという風であった。

こんなことで彼は院の内外の注意を惹き、かつ彼の名は自然政界に知られた。

 

されど当時燎原の勢いをもってたびき来たれる自由主義は、帝王神権論などで弾圧し得らるべくもない。

翌四八年二月パリに新革命起こり、余勢は他の欧大陸各地に及び、神権主義の大御所と目されしメッテルニッヒは墺都より出奔し、墺帝フェルヂナンドもウイーンの外に蒙塵し、プロシアにおいても、三月十八日、ベルリンの宮殿前において軍隊と民衆の衝突があり、国王ウィルヘルム四世は軍隊を抑制してわずかに騒乱の拡大するのを防ぎ得た。

 

ビスマルクは折から地方議会の閉会中なりしを機とし、シエーンホイゼンに悠遊中であったが、変を聞くや急ぎベルリンに上り、危険を冒して王政擁護のために奔走した。殊に政府の執りたる措置の手温きに憤慨せる彼は、王政党の一新聞クロイッツ・ツアイツング紙にしばしば寄書して所信を天下に訴えるところあった。

 

けれども民衆の要望はこれを無視するを許さずで、ウィルヘルム四世王は同一八四八年十二月新憲法を発布し、翌四九年二月、新憲法による二院制の議会を召集した。

この議会は、前の権限微弱なる地方議会連合会議とは大分選を異にしたものである。ビスマルクはまた選ばれてその議員となった。

彼は新議会において依然君権擁護論者として起ち、多数の自由主義者を敵として屈せずたゆまず奮闘し、殊にドイツ統一論に触るるや、軍隊の力独りこれをよくすと論断し、祖国陸軍のために万丈の気炎を吐いた。

彼の君権主義、軍国主義は当年のプロシア新議会において既に著しく異彩を放った。

 

彼は三三歳より三六歳まで議員生活に没頭した。その頃の彼は、少年時代の放埓懶惰な性情から全く一変し、むしろ極めて真面目なる、几帳面なる、精励かつ摯実なる人物と化した。

ゆえに彼の友人の間には、人間の持って生まれた武性は三十歳を過ぎてから果たしてかくまで変化するものにやと、疑問を戦わした者もあったくらいであった。

 

三 連邦衆議会にプロシアを代表

 

やがて彼は一八五一年、三六歳の時、王の寵臣ゲルラッハ将軍の推挙により、フランクフルトに開催せらるるドイツ連邦衆議会にプロシアを代表することとなった。

当初はプロシア代表ロヒオー将軍の随員として赴任する話しであったが、将軍は間もなく病んで辞任することとなったので、ビスマルクは上ってその後を襲うこととなった。

 

当年の連邦衆議会の代表は、いわば列国会議の外交使節のようなもので、外交上の閲歴ある者がそれに当たることの慣例であったが、ビスマルクはその閲歴を全然持たない。

彼がこの大任を拝すべく参内するや、国王は彼に向かって『卿は外交上の経験なくしてかかる任務を請くるとは随分の勇気だ』と宣われた。

ビスマルク

『勇気は臣にかかる任務を下し給われる陛下のほうにあり、臣にして任に適せずとお認めあらば、陛下には何時にても臣を免黜せられて苦しからず、臣とても果たして任務を全うし得るか否かは、やってみぬうちは分かり申さず、ただ陛下にして臣をお使い下さる勇気を持せらるる限り、臣は犬馬の労を捧ぐるの勇気を有する者にて候』と言上し、王より『極めて妙なり、大いに努力してもらいたし』との言葉を頂戴し、いよいよプロシア大使という官名でその任に当たることとなった。

 

当時ロヒオー将軍の彼を評せる言に曰く、『ビスマルクプロシア王室の尊栄と祖国の名誉のために勇気と献身的努力をもって活動するプロシア人の精華である。予は彼がプロシアの代議員としてその職責を全うすべきを確信して疑わぬ』と。

この評当たれりで、彼は当時からして、使いして君命を辱めざる政治家であり、外交家であった。

 

ビスマルクは貧乏なプロシアの代表者としては、フランクフルトにおいて思い切った豪奢な門戸を張った。

彼の支給は年二万千ターレルで(ドイツ帝国建設後の換算相場では一ターレルは三マーク)、彼としては生まれて初めてかかる高給にありついたのである。彼はこれをもって大いに交際費に充てた。

彼がその頃家兄に送りし一手簡に言う、『小弟は家賃に五千グルデンを払い、天長節には大宴会を催すべく仏人のクックを雇い入れ候。…家屋の装飾に既に一万二千ターレルを支払い候が、いまだに装飾は終え申さず、費用を最も多く要したるは皿、杯、その他の食器類にして、ことに当地にては皿ごとにフォークを替え候ゆえ、三十人の客をするには百組のナイフ、フォーク、スプーン類の用意を要し候。近日一大舞台会を開いて三百人を招待するはずにこれあり云々』と。

得意想うべしだ。

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