あらすじ
暴動におびえた仲間の達吉は自白し、則子、源造らとの計画が明るみになる。彼らは対米敗戦とソ連侵攻を見据え、ソ連と取引を画策していた。逮捕された真壁は、殺害したのは則子ではなく、もう一人の仲間・高太郎だとも自供。迷いがあった高太郎は邪魔になり、消されていた。源造の娘・スミレは事実を知り、落胆する。
則子殺害の捜査は振り出しに戻った堀部。北海道への緊急疎開も始まり、彼は疎開者の誘導・警備のため捜査断念を余儀なくされる。
5 りぃ
明け方。
すさささ。
速いが静かな足音だった。
山林を這うように進むこの人影。はたと立ち止まり、木と雑木の陰から1台のトラックをじろり観察した。
間合いを図って車体に近付き、音もなく荷台のほろに滑り込む。
これで一息。
あとは、ただじっと待つだけだ。
昼前。
銀行の窓口で、行員らはみな緊張の面持ちだった。手が小刻みに震えた者もいる。気分は尋常ではない。
「まだなの?」
預金を下ろしに来た男や女が催促するが、順番がなかなか進まず、そうこうしてるうちに、外の列が前を押して入ってきて、屋内に人がたまってきた。
すると、どうしたことか、出入り口に近寄った行員が突然扉を閉めて鍵を掛け、誰も出入りできなくしてしまったのだ。これには客たちも驚き怒り、わっと行員らに迫った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
行員らはただひたすら謝るだけで、事情を明かさない。
業を煮やした客の一人が叫んだ。
「支店長を呼べ!」
◇◇◇◇
この日。
「こっちだ」
「おお」
山林で汗だくになった警官らが、掘った地面に集まった。眼下の無残なありさまをのぞき、「出たな」
「玉田高太郎だ」
警官らは死体を適切に掘り起こし、布でくるんで運び出した。
「落とすなよ」
「お前も、足元気を付けろ」
「……おい、この間の女はどうだった?」
「今聞くことかよ」
「今なら大丈夫さ」
「彼女を汚したくない」
「そんなに良かったのか? どんな味だよ」
トラックに運び込まれる布の大荷物に、興味本位の島民たちが目を注いだ。
「一寸先は闇だ」と、その中の1人。「けどしょうがねえ、自業自得よ」
彼の隣で篤志がうつむいた。
「あんたもそう思うだろ?」
篤志は答えず、運ばれる死体に思いをはせた。
埋まった土は温かかったか、冷たかったか……。
「すべては戦争のせいだなんて、言い訳は通じねえよ」
警察の車が出て、野次馬もぞろぞろ解散する。
たった一人、篤志だけがまだ残った。
この日は8月13日。
昨日の捕り物での興奮冷めやらぬ警官たちは、無理矢理にでも頭を切り替え、目の前の対応に懸命だった。
「ちょっとまだなの?」
「ああ、はいはい」
疎開対象者に証明書を発行しなければならない。昨日から窓口となっている市町村の手伝いに、警官らも駆り出された。慣れない作業に、
「夜警の方がましだ」
早々にぶうたれる者もいれば、
「俺は事務仕事の方が好きだ」
結構手際よくこなす者もいた。
「治安はどうなる。現場はどんどん人手が少なくなってる。俺はもっと堀部さんや、谷山さんのような働きがしたいんだ」
「あの人たちも、今は別業務だ。大局を見て役割を果たせ」
いずれにせよ、基本彼らは熱意があり優秀だった。
今夜、疎開者の最初の出港がある。
その誘導と警護のため、島南岸の港では堀部が朝から現地で待機していた。
この海の向こうが北海道。
堀部は細い目で遠くを見やった。
……あれはそう、今ごろの時期か。
生前、妻と行った北海道旅行を思い出し、顔が柔らかくなる。誘ってきたのは彼女から。堀部はどうにか仕事の都合をつけ、3日間街を巡ったのだ。そこで出会った珍しい手土産や美味しい食事、その何より、彼女の笑顔が目に浮かぶ。もう、久しく見ていない。もう、見ることはない。
彼が柄にもなく黄昏れていると、
「堀部さん」
明るい声を掛けられた。みよ子である。
「お仕事ご苦労様です」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「人助けって言葉、堀部さんにこそよく似合います」
こう言って微笑んでくれた、彼女のゆったりした顔は、どこか彼の亡き妻とも似ているように思え、
いや失敬……。
心の声で謝った。
「どうかされました?」
「何でもありません。出港は今日?」
「ええ」
「お早いですね」
「一人で来る生徒たちもいるので、早めにと。早過ぎましたかしら」
みよ子も、彼と同じように遠くを見た。
「しばらくお別れですね」
「どうだか。今生の別れかもしれません」
「まあ。もう顔も見たくないように聞こえます」
「そんなつもりでは。こっちには、心残りがまだあるので」
堀部は海を見るのをやめて振り返った。
「申し訳ありません。力不足でした」
「とんでもありません。真壁教頭の本性を暴いてくれました。教師も生徒も動揺はしたと思いますが、捕まらなければ、島の恥になるところです」
こう断言するときの彼女の口調にはとても厳しいものがあり、空気がぴりっと引き締まる。
「改めて、お礼を言わせてください。ありがとうございます」
堀部は素直に礼を受けた。
(結婚おめでとう)
このころ女学校の敷地にある楡井のねぐらでは、彼と篤志が顔を突き合わせていた。
篤志は無難に酒を勧めた。
「悪かった。役に立てなくて」
楡井は茶碗に唇を尖らせ、
「気にすんな」
もったいなさげに、ずずっとすすった。
「けど、ちゃらってわけじゃねえぜ」
「分かってる。あんなことまでさせたんだ」
どうにも、今日の篤志はひどく落ち込んでいるようである。
確かに気持ちは分かるが、過ぎたことは仕方がない。
それに相手には、殺されるだけの理由があったではないか。
……スパイごときに、あまり気を取られるな。
思わず、彼はこう言ってやろうと喉まで声が出掛かったが、篤志の心の奥にある闇はもっと複雑な形をしているようにも感じられた。