あらすじ
疎開者らの出港直前、堀部はサエの一言を機に、事件の真相に気付いた。
「どうしてあの子だと?」
港に残ったみよ子は率直に尋ねた。堀部は自分の後頭部をなでた。
「まずはあなたのおかげです」
「私?」
「ええ。殺したり、殺されたり。あなたは私の野球の話に付き合ってくれたときに、そう仰った。それでまず、発想が転換されました」
「よく分かりませんわ」
「自分はこれまで、木下則子がなぜ殺されなければならなかったか、ということばかり考えていました。けど、これが間違いでした」
「……?」
「確かに彼女は殺されるべくして殺された。しかしもっと正確にいうと、誰かを殺そうとして逆に殺されたのです」
「その殺そうとした相手こそが、あの子だと?」
「はい」
「なぜです?」
「木下則子のハンカチ」
「……」
「まず一番の問題は、彼女のハンカチが殺された後の9日、校内にあったということです。これで、また考えが変わりました。ああ、彼女が殺されたのはあのサイロではなく、女学校の中だったのではないか。こうなってくると、容疑者の可能性は移ってくる。学校の関係者、つまり教師や生徒や用務員などです」
堀部は少し間を取り、唾を飲んだ。
「自分は古谷源造たちの線にこだわり過ぎました。彼らのやろうとしたことは、国家への重大な反逆でしたので、木下則子もその流れの一環で死んだのだろうと。この線は完全な間違いではありません。けれど、線の色は微妙に違っていた」
「線の色?」
「ええ。あの子は、木下則子らの何らかの秘密を知ってしまった。それに感づいた木下則子があの子を消そうとして、逆に返り討ちにあったのです」
「どうしてそうなるのです?」
「あの子、事件が起きる前と後とで、様子がおかしくありませんでしたか?」
「それは……」
「恐らく、本人は意識できてないでしょう。それがこの事件を複雑にし、しかしまたそれが、ぎりぎりで真相に迫るきっかけとなった」
「……」
「あの子は木下則子に殺されそうになり、抵抗したでしょう。それが運悪く、逆に相手を死なせてしまった。そのときの精神的な動揺と錯乱で、あの子は、記憶が一部抜けてしまった」
「そんな馬鹿な」
「確かに馬鹿な話です。これはあくまで仮定です。だからあなたとこうして話している。あの子を逮捕しなかったのは、それが理由でもある」
みよ子は顔を伏せた。
彼女はこれ以上堀部の話を聞くのが恐ろしかった。なぜなら彼女もまた、まったく同じことを考えていたのだから。
「続けます。まずあの子が木下則子を殺してしまった。すると、次の問題が生じます。死体をどうする? 殺害現場は恐らく校長室でしょう。あの子1人で、あのサイロまで誰にも見られず死体を運び出すのは無理だ。車でもない限り。能見先生、あなた、車は運転できますね」
みよ子は首を縦に振らない。
「調ればすぐ分かることです。正直に」
「分かりました。運転はできます」
「ありがとうございます。死体は車で運び出した。真夜中を待ち、木下則子の車を使って。そう、あなたがです」
「はは……」
「これも想像ですが、あなたは校長室の近くを通り掛かった際、何か物音を聞いた。それで、様子を見ようと中へ入ると、そこにはあの子と、頭を殴られ倒れた木下則子がいた。あなたも慌てたでしょう。けれでも、あなたは冷静な人格者でもある。あなたの厳しさは、ときに生徒たちから理解されなかったかもしれないが、本当のあなたは広い心で生徒を受け入れ、いざとなれば盾にだってなる覚悟だった。もしあなたが男だったら、きっと立派な軍人にだってなっていたでしょう」
「そんな褒め言葉、嬉しくありません」
「失礼しました。とにかく、冷静なあなたは、彼女からまず事情を聞こうとしたはずです。しかし、納得のいく返答を得られなかった。そして、ここからがまた大胆なこちらの空想なのですが……」
「続けてください」
「あなたも悩んだはずです。しかし最終的に、あなたはあの子を警察に出頭させるより、事件をうやむやにする方に理があると考えた。だから車で死体を運び、火をつけ、警察の捜査を困難にしようとした。では、それはなぜか? 恐らく……」
「恐らくが多いですね」
「すいません。本当に恥ずかしい限りです。ただ一つ言えるのは、それが死体に火を放った理由にもなったということです」
「……」
「木下則子や古谷源造たちが画策していた国家反逆の件で、我々警察が一つ困っていることがあるんです。源蔵たちがみな、『あった』と証言している国の機密情報。それの行方が分からんのです」
「分からない?」
「ええ、まったく分かりません。でも、それもそのはずです。その情報は、あなたが木下則子の死体と一緒に燃やしてしまったのだから」
みよ子の顔に、また暗い影ができた。
「あの子が、木下則子の秘密を知って殺されたのだとすれば、殺害現場に居合わせたあなたが、その秘密に触れる機会だってあったかもしれない。いや、実際あったでしょう。だから、あなたはあの子の方を守ろうとした。国を食い物にしていた木下則子より、可愛い教え子の方を」
「やめてください」
「売国。あなたには絶対許せない罪だ。木下則子がソ連に情報を売ろうとしていたとまでは、想像しなかったと思いますが、私腹を肥やしていたのは理解できたはずだ。それで、なぜ校長室で木下則子が死んでいて、そこになぜ、あの子がいるのか、あなたなりに想像が及んだ。こんな女のために罪を償う必要はない。そう思い、あの子を先に家に帰し、夜中に死体を運んだ後、木下則子の自宅に車を戻した。あなたは、歩いて家まで帰ったのでしょう。ご苦労様でした」
「今のが、一番最低な皮肉ですわ」
「時間切れになってしまった自分自身への歯がゆさと思ってください。いかがでしたしょう?」
「何とも申し上げかねます」
「でしょうね。そうだ、ついでに一つ。あなたの冷静さは素晴らしいが、あの証言をしたあなたはいまいちでした」
「あの証言?」
「あの夜、火事に駆け付ける人たちの騒ぎで目が覚めた、と仰ったでしょう?」
「それが何か?」
「その後、まさか校長が、と続けたあなたの顔。全然悲しそうじゃありませんでした」
「まあ」
みよ子は頬を膨らませた。
「それをいうなら、あれはそもそも証言なんかじゃありませんでした。ひどい人ですね」
「すいません。私も焼きが回ってきたようだ」
「これから、どうなさるつもりで?」
「どうにもなりませんよ。あなたは別に自白などしていないし、確たる証拠もない。最初に言ったでしょう、これは私の想像話です。ただ、あの子が気になります。彼女が本当に記憶を一部失っていたとしたら。人格にも何らかの影響がありそうです。それを、あなたはかばっていた」
「……」
「答えなくて構いません。ただ、ご不安でしょう。本土と連絡を取って適切に対処しておく方が良いかと」
「それは一教師として分かっています。どうして、あの子が記憶を失ってると?」
「それもハンカチです。死体を運び、焼いてまでして身元を分からなくしようとしたのに、彼女の持ち物を学校で落とすなんて考えにくい。それで、犯人が現場からハンカチを持ち帰ったのを忘れてしまったのではないかと」
「それも想像ですわね」
堀部は海の向こう側へ小さくなる船を見つめた。
「ええ」
翌日、8月14日。
この晩、疎開者の誘導業務から急きょ呼び戻された堀井は、篤志が入院する病院にいた。既に訃報は知っている。
しばらくして篤志の病室から楡井が出てきた。彼の目は赤くはれ、体は一回りも二回りも小さくなったようだった。
「葬儀の手はずはこちらで整えよう。大したことはできないかもしれんが」
堀部は勇気づけた。
「飯でも食うか?」
楡井は力なくうなずいた。
堀部は病院内の食堂に無理言って、簡単なものを見繕ってもらった。酒も一緒である。こういうとき、警察の権力は役に立つのだ。
堀部は篤志の身寄りについて楡井に尋ねたが、彼の知る限り、縁者はいないというのだ。
「まったくの一人か。こっちに移ったのは3年前だったかな?」
「ああ」
「何か訳が?」
楡井は沈黙し一言も発しない。堀部は酒に手を付け、
「詮索する気はない。君が彼のことを覚えてやれる人であるなら、それで十分だ」
「娘……」
「うん?」
「サエとかいう篤志の女は、無事に島を出たのか?」
「ああ」
「良かった。本土ならこっちより安全だろう」
「そうだな」
堀部は二つの嘘をついた。
一つはサエのこと。島からは無事出港したが、その先の安全までは彼には保証できない。
もう一つは「詮索する気はない」と言ったことだ。堀部にはいくつか確かめてみたいことがあった。なぜ篤志が隻腕になったのか。彼の名字は。
それと、スパイ疑惑をかけられた朝鮮人が行方知れずだが、何か知らないか……。
「その娘にも、篤志のこと知らせた方がいいよな?」
「いずれは。向こうが落ち着いた頃合いがいいだろう」
「そうか……」
楡井は茶碗の酒を飲みほした。
「ご馳走さん。悪いが、先に行かせてもらうよ」
「ああ。夜道には気を付けてな」
楡井が帰ってからも、堀部はしばらく酒を飲み、もの思いにふけった。
「ごほん」
食堂から咳払いがしたところで、ようやく彼も席を立ち、酒瓶だけ片手に家路についた。
今夜くらいは飲まずにはやっていられないだろう。
たとえソ連兵が来ても、一緒に飲み明かしてやるさ、なんて馬鹿げた冗談も思い付いては、気持ちを奮い立たせた。
「酒はこうしたときのためにある!」
酔った堀部は夜道で吠えた。
「なぜ俺より先に死ぬ、馬鹿め!」
これでもまだ泥酔じゃない、ほろ酔い程度だ、と本人は真剣に思っているからおっかない。
彼は悲しくてたまらなかった。せめて、息子や娘が帰ってきたら、あの面白おかしき青年の話を聞かせ、人の記憶の中で彼を生き返らせてやろうと決めた。
そうなると、息子たちから必ず出る質問がありそうだ。
「なぜ隻腕?」
「名字は?」
思い当たる答えも堀部にはあったが、今宵はどうでもよかった。いずれにせよ、この戦争が終わってからも自分の命があればのことである。
同じ晩。
楡井はあの女学校の寝床ではなく、篤志の家にいた。病室で篤志が教えてくれた畳の下を探ると、お目当ての物が見つかった。それを片手に、「あの野郎」楡井は笑った。
これはまだ、息を引き取る前の篤志の科白だ。
「堀部さんには絶対気付かれるなよ」
死ぬ直前まであいつらしいのが、楡井はうれしかった。篤志いわく、「どさくさに紛れ、うまくやってやった」とのことだ。
この後、楡井は篤志がいた空間の余韻に十分浸り、家を去った。
「転んでもすんなり起きねえよな、お前は」
夜道、その手には札束がたんまり握られていた。
「これで借りは返してもらったぜ、りぃ。李篤志」
そして……。
再び8月13日。