lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説連載】刑事堀部(20)~先手 その4

翌朝。8月12日。

この日、二つの大きな話題が町を駆け巡った。一つは新聞報道。その見出しは、

『本土に緊急疎開へ』

記事によると、

『本日付で樺太庁長官が、13歳以下の男女と14歳以上の婦女子など約16万人を疎開対象とする通達を各市町村に出す』

というのである。

疎開は翌13日から。時間と日を分けて何回か船を出す。島の南海岸と西海岸の港を使い、北海道の稚内、小樽両港へと上陸させる計画なのだ。

「手続きの統制で、お前を動員するそうだ」

堀部がそう事前に教えられたのは昨日のこと。谷山が家まで見舞いに来たときだった。

 

「そうか。わざわざありがとう」

こう答えた堀部は、どこか寂しそうでもあった。

これは昨日。腹の空いた堀部は、まだ熱っぽい体を無理矢理起こし、

「何かあったかな?」

と、台所を探していた。そこへ、

「生きてるかあ?」

玄関から谷山の声だった。

堀部は不思議そうに彼を出迎え、「どうしたんだ?」

「見舞いに来てやったんだ。上がるぞ」彼は許可を待たずに上がった。

「食い物も持ってきてやった」

「……ありがとう」

「それにしても、よくこんな家に住めるな。殺人現場だろう」

と意地悪く言って、谷山は身震いする真似をした。

「うるさい」

「まあどこにいようと、お前の思考は明晰だろうがな」

このとき、朝方よりかは幾分熱も下がり、堀部の神経がだいぶ落ち着いたこともあり、「いよいよ、事件の捜査どころじゃなくなっちまったな」谷山からこう水を向けられたことで、堀部の神経はかえって事件の方へと移っていった。人には、あちこち歩き回って考えるより、同じ場所でじっとしていた方が、頭の整理がつく場合もあるのだ。

 

さて……。

そもそも、あの『木下則子』とはどういう人間だったのであろうか。女学校校長という肩書きが、

……彼女の顔のすべてでなかった……のは確かだ。

いずれも島の有力者であり、同じ女学校の父兄でもあった古谷源造、小野田達吉、玉田高太郎。この3人と組み、彼女は、何か企んでいたに違いない。

……その目論見に何事か齟齬なり問題が生じ、彼女は殺されたのだとしたら?

だとすると、源造たちは容疑者の最有力である。気になるのは、

……高太郎の本土への出張だ。

実はこれが出張ではなく『本土への逃亡』なのだとしたら。それは、

……源造と達吉も承知しての行動か。

それとも、

……単独、つまり高太郎の裏切りか。

口を割らせるなら、

……やはり達吉の方か……いや。

適当そうなのはもう1人いた。真壁だ。8月6日の夜。則子、源造らと一緒に彼もいたことは他の教師らが証言している。話の内容までは誰も知らなかったものの、あのみよ子によると、「翌日から、真壁先生には挙動のおかしさがありました」というのだ。

一方、則子はいつもと変わらぬようだったらしいが、これは深読みすれば、前日の話し合いで、則子と源造らの間で意見の食い違いが生じていた証拠にならないであろうか。その場に居合わせた真壁の方が、当事者以上に緊張していたとすれば……。

そうして、殺されたのは則子であった。

殺されたのは、8月7日の授業が終わってから夜にかけて。殺されて、火をつけられている。このやり方は、気力が若い者の仕業にも思える。だとすると、

……実行したのはやはり真壁か……しかし……。

ここで、堀部の推理が止まる。先へ進ませたくても進まない。

「気を落とすなよ。仕方がない」谷山は励ました。

「お前はどうなる?」

「俺は、明日からソ連の海路侵攻を警戒するため、西海岸で警備だ」

「そうか……気を付けてな」

「ああ」

そうして、この日。

もう一つの出来事が……。

 

「お父様、怖い……」

「心配するなスミレ、ここまでは来れやせん」

「出てこい古谷!」

源造宅の表では、大勢の島民が家を囲み口々に憎悪を叫んでいた。

「この売国奴め!」

どうにも大暴動が起こる一歩手前の切迫さだ。

「お父様……」

「大丈夫、大丈夫だ……」

源造はスミレの肩を強く抱き、平静を装った。その傍らで、妻や使用人たちがブルブル、ガタガタ震えた。

ことの発端は一つの怪文書にあった。

『古谷源造は国を売った』

こう書かれたびらが何枚も入れられた封筒が、町の官公庁や企業、一般家庭などに届き、それを目にした島民から幾重にも伝聞を介して、瞬く間に噂が拡散したのである。怪文書の真偽は定かではなかったが、人々は食い付いた。昼ごろには源造宅にワッと島民が集まり、

「出てこい、出てこい、源造!」

などと騒ぎ始めたのだ。

炭鉱業で財を成し、島の有力者であった源造だけに、売国奴という筋書きは庶民の嫉妬や猜疑心に火をつけるのに十分であったのだ。とりわけ、ソ連との危うい戦局、その不安と恐怖が島民らの間で高まる中、先日のスパイ騒動で疑心暗鬼も生まれ、新たな疑惑が出た源造への怒りが一気に噴き出したものである。

「ざまあみろ」

物陰で状況を観察していた真壁は、悪党のそれらしくほくそ笑んだ。

「これで奴もただじゃ済まない。さて……」

彼は新聞片手にいずこかへ去ってった。

それから間もなく、

「らちがあかねえ、やっちまおう」誰かが口走った。

「やるか」

「ああやろう、俺たちがやるんだ」

こうして、また大きな過ちが起ころうとしたときである。

きい、きいい!

複数の警察の車両が島民らを包囲した。

「やめなさい!」

真っ先に車を飛び出た堀部が叫んだ。病み上がりの彼は構わず声を張り上げ、

「馬鹿はやめて、うちに帰るんだ!」

「なぜだ、奴は売国奴だぞ!」また誰かが言う。

「単なる怪文書だ、証拠はない」

この堀部の説得にも、

「だが疑惑が出た、濡れ衣というなら奴に証明させろ!」

「火のない所に煙は立たん!」

「そうだ、そうだ!」

島民らはいっこうに聞く耳を持たない。それでも堀部は根気強く説得を続けたのだが、ついにうんざりし両手を広げた。

「じゃあ、好きにすればいい」

と同時に、

「どうせ、その家には誰もいない」

とも言ったのである。これには島民らもキョトンとし、

「嘘をつけ、俺たちを騙す気か!」

堀部は声を荒げた。

「嘘だとか、騙すとか、自分の目で確かめればいい!」

ならばと、島民数人が源造宅に乗り込み、間もなく戻ってきた。

「ほ、本当だ、誰もいねえよ」

堀部は詰め寄られ、

「どこに隠した? 警察もつるんでるのか!」

「うちへ帰れ」

「命令するな! 撃てるもんなら撃ってみろ!」

「……あなた、妻や子供は?」

彼の目は怒っていた。

「明日から疎開が始まる。こんなことしている場合じゃないだろう」

 

実はこのとき、警察署では源造たち家族と、その使用人らが既にかくまわれていた。署の中で安全は確保されていたが、それでもどうしようもなく、不安と恐れに駆られていたのだ。

「ふん」

署長は怪文書を指でパンッと弾き、得意げにした。

「ご丁寧に警察にまで送ってくれるとは。我々は同じ轍は踏まんのだ」

 

続く