あらすじ
対米戦争末期の1945年8月、南樺太に勤務する警察官の堀部は、ある日、火事の焼け跡から出た死体の捜査に出る。死体の状況から殺人と判断する堀部。同じころ、島では国境を接するソ連が対日開戦を宣言する。堀部は聞き込みした女学校で、生徒のサエや教師のみよ子らと出会い、死体が校長の木下則子であることまで突き止める。
疑惑の目を炭鉱業の源造らに向けた堀部だったが、そのころ町で騒ぎが勃発する。ある朝鮮人が、ソ連側のスパイと疑われ、島民らに襲われたのだ。見かねた青年・篤志が、どうにか朝鮮人を助け出し・・・。
「それで、小野田の奴は何と?」
「その夜、学校で会ったのを最後に顔は見ていないと」
「なら私と同じだ」
源造は酒を注ごうとしたが、車の堀部は遠慮した。代わりにお茶をもらう。
「美味しいですね」
「妻は茶が趣味で。棚には緑茶以外にも外国の茶が色々眠っている。私はよく分からんが」
「誰かに恨まれてたという話は、聞いていませんでしたか?」
「まったく」
そう源造は答えたが、
「とはいえ、人の上に立つ者で恨みや嫉妬を買わない者がいるかな?」
「あなたのように、ですか?」
「私のよう? 違うな。私こそはだ」
源造は一人で酒を開けた。
「炭鉱開発でここまで築いた財は一筋縄ではなかった。先々代、先代と苦労を引き継ぎ、ようやく形になったのだ。競争相手で弾かれた人間は数知れぬ。……堀部君といったかな? 君、子供はおるかい」
「ええ。息子と娘が」
「当ててやろう。2人とも戦争に行ったな」
「息子は陸軍、娘は赤十字です」
「立派なことだ。悪く思わんでくれ。私は顔を見れば、だいたい相手の人生が分かってきて、それを言わずにはおれないときがあるんだ」
こう言って、早くも2杯目に手を付けた。「自分の人生に飽きているんだ。だから、人のが気になる。あいつはどんな辛苦を背負っているか、こいつにはまだ夢があるのか……。炭鉱作業で死んでいった奴ら、多くはつまらん男どもだが、深く掘り下げれば、中には面白い者もいたかもしれん。残念だ。いや本当、これは本当なのだよ」
堀部は話を戻し、
「7日の夜はどちらに?」
「家にいた。ずっとだ。私がわざわざ炭鉱や会社に足を運ぶことはない。この家が指令室なのだ」
「小野田達吉さんに木下校長の件を伝えると、動揺したようにも見えました。なぜだと思われます」
「そんなもの。最近会った者が死んだ、いや殺されたのだ。動揺もするだろう」
「動揺する理由が、他にあったとしたらどうです?」
堀部は相手の反応をつぶさに観察した。「木下則子、真壁一、小野田達吉、玉田高太郎、そして古谷源造。この島の名の知れた5人が一堂に会し、何事か話し合った後、1人が死んだ。疑いたくもなります」
「それをいうなら……」源造は2杯目を飲み干した。
「ソ連が攻めてきたのと同時に死んだ。こっちの方が壮大で面白くはないか?」
「……なるほど」
こうして源造と話し終えた堀部は「ふう」と、疲れた息を吐いた。玄関で靴を履いていたら、スミレが姿を見せた。
「お巡りさん。昨日はありがとうございました」
「いえ。気分は大丈夫ですか?」
「問題ありませんわ。まさか、あの前沢がやっただなんて。驚きはしましたけど、私そんな程度で傷付いたりいたしません」
なぜか彼女は正座になった。
「父が何か?」
堀部はやれやれ困ったように、
「それは言えません」
「何かは、あるのですね」
「……」
「ああいう父です。家族の知らない悪いこともたくさんしてるでしょう」
スミレはさらに頭を下げた。
「なにとぞ、穏便に」
「頭を上げてください」
「お巡りさん。私、気付いてます。お巡りさんはすごい方。一度疑ったら、必ずその正体を暴いてしまう恐ろしい人です。……父のためを思ってこんなことしてるんじゃありません。家族のため、炭鉱で働く従業員のため、是非、手心を加えていただきたいのです」
それから堀部が去っても、スミレはしばらく、頭を上げなかった。
「おいスミレ。何をしている?」
「お父様」
スミレは取りすまし、
「今日のお夕飯、何にいたします? いよいよ物不足も深刻になってきましたし、早めにお母様に伝え、台所の用意をしておきますわ」
さて、そうこうして堀部、運転中これまで感じたことのない迷いを覚えていた。
源造のことではない。木下則子に関する事件全体についてである。堀部は先ほど源造には明かさなかったことがある。
「私はやっていない」
先の聞き込みで、小野田達吉がそう漏らしていたのだ。達吉から7日の夜の行動で話を聞いた際、参考までに則子の死因などの情報を明かしたときだった。彼は突然嗚咽し、席を外したのだ。
「私はやっていない」
そう言い残して……。
その後、彼は戻ってきても上の空、どうやらその日は会社を早退するようでもあった。
「何か変だ」
この日はここまで源造と達吉には話を聞けた。残るは玉田高太郎なのだが、堀部は高太郎の会社や家宅ではなく、署に車を走らせていた。そして……。
「仕方がない」
こうつぶやいたときだ。
「危ない!」
道路に人が飛び出してきて、堀部はとっさにステアリングを切った。
きいい!
車は横滑りし急停止した。すぐさま運転席を降りた堀部、慌てて相手の安否を確認した。
「2人とも大丈夫か!」
それから……。
また少しして……。
「とりあえず、ここなら大丈夫だろう」
堀部は2人に茶を出した。道に飛び出してきた2人、篤志と朝鮮人を彼の自宅に招き入れたのである。
「こっちは胆を冷やした。お茶は熱かったかな?」
「大丈夫です。うっ、いつつ」
「しみるかい?」
「平気です……。ちっくしょう、あいつら。どいつもこいつも気違いだ」
「まさか警察でな」
堀部は篤志の傷を手当てするため、いったんその場を離れた。篤志は朝鮮人に言った。
「大丈夫。ここなら安全だ」
朝鮮人は顔を伏せ、
「どうして僕を?」
「あんな横暴見てられるか。どっちが鬼畜なんたらか分かりゃしねえ」
こう言って、篤志は笑ってみせるのだ。
「あなたも危険になるのでは?」
「俺? 俺は大丈夫。こう見えて、修羅場は結構くぐってるのさ」
篤志は得意げに左腕を上げてやった。
「僕は本当に、スパイではないのです」
「そもそも何だって疑われたんだい?」
朝鮮人は説明した。それによると、事情はこうのようだ。
そもそもこの日は漁に出たのがいけなかった。
彼は早朝、小舟で漁に出ると海に浮かぶ死んだ魚を何匹か見つけたという。ここのとこ不漁続きだった彼は腹の足しになれば、死んだ魚でも構わないと思ったのだそうだ。小舟から身を乗り出し、網を伸ばして何匹かの魚を獲ることができた。そうして陸に戻ると間もなく、他の漁師たちが一斉に集まってきて、訳も分からず拉致され、警察まで引きずられたのだという。
「どうやら、水面をかく僕の姿が何かの合図と勘違いされたようで……」
彼は力なくこぼした。篤志は立ち上がり、
「ひでえ話だ」さらに短い左腕を突き出し、おどけてみせた。「この五体が満足なら、さっきもボコボコにしてやったのに。運のいい奴らめ」
「あなたは、おかしな人ですね」
「はあ? 命の恩人に向かって、おかしな人はないだろ」
この後、救急箱を手に戻ってきた堀部、篤志の応急措置を終えると、一つ提案した。
「これでよし。することもないなら、飯でも食うか」
「賛成!」
だが、これが油断だったのだ。
少し前である。警察はある男の行方を追い、少ない人手を方々に散らせていた。署での大騒動から抜け出していたのは篤志たち以外にもいたのだ。群れのリーダー格だった男のことだ。
「朝鮮人め、どこ行きやがった……」
この男、この日は驚異的な直感をもって篤志たちの行き先に迫ろうとしていた。
「あいつを殺るまでは、絶対捕まらん」
そして……。
ばん! がざしゃん!
堀部が飯の仕度に入ろうとした矢先、何者かに玄関が破られたのである。
「うおらあ!」
と、男のうなり声が上がった。
「誰だ、お前は!」
「堀部さん、こいつだ! こいつが島民をたきつけて!」
男は猛烈な勢いで押し入ってきた。
「あああ!」
どこで拾ったのか、男は錆びたナタをぶんぶん振り回す。堀部は素早く腰に手を回した。