楡井は可能な限りの小声で、「まさかお前、俺をしょっぴくつもりで……」
「馬鹿」
「何です?」
「ごめんなさい。こっちのことです」
谷山は2人の顔をじろりとのぞいた。
「堀部なら、朝から出とる
「例の事件の捜査で?」
「……そうだが」
谷山は篤志の左腕に目を落とし、
「あんたかい、愉快な酪農家ってのは」
「へえ、俺もすっかり有名人だ」
篤志は得意げに鼻をいじった。
「堀部に用があるなら、今日のあいつは一日中戻らんぞ」
「忙しいんだ。事件解決も近いのかな」
「さあな。どうしても会いたいなら『古い小玉』でも当たるといい」
「ああそう。ありがとう」
篤志は右手を振り、出口に引き返した。
「おい、『古い小玉』って何だ?」と楡井。
「やだな、3年もこの島にいて知らないのか?」
篤志はあきれて教えてやろうとした。
「古いは古谷、小さいは……」
すると、この直後だった。
ばん!
だだだ!
島民らの群れが、騒々しく署になだれ込んできたのだ。篤志と楡井は出口付近でその群れに弾かれ、よたよたっと足がもつれた。駆け込んできた島民たちは息を切らし、かなり興奮しているようだ。
「何だあ?」
好奇心が立ち、篤志と楡井は遠巻きに群れを眺めた。
「あなた方は?」
谷山が対応に出ると、「スパイだ!」群れの一人が叫んだ。
「スパイだ、こいつはソ連のスパイだ!」
谷山を含め、その場の警官らがぎょっとした。彼らが突き出してきたのは細目で髭を生やした男であった。その彼は漁師の格好をし、年は20半ばくらいに見えた。嘘か真か、群れのリーダー格らしい男が言うには、
「ソ連の海岸侵攻を手招きしようとしていた」
のだそうだ。
「そうだろ、この朝鮮人め!」
「誤解だ! 僕は知らない!」
朝鮮人の男は懸命に否定し、こめかみに青筋が浮かび上がった。無実を叫ぶたび、瞳はどんどん血眼にもなった。
「うるさい!」
リーダー格の男は一人で激昂し、わめいてはいきなり朝鮮人の顔を殴りつけた。
「やめたまえ、ここをどこだと思っとる!」
谷山は止めようと勇敢に割って入った。しかし、この男の狂乱はやまず、触発された群れ全体がどっと殺気立った。
「殺せ!」
「ソ連討つべし!」
群れの中から次々罵声が飛んでくる。みな恐ろしい剣幕だ。
「馬鹿な! やめなさい!」
ここで暴動の恐れを察した警官らがついに威嚇のため警棒を振り上げた。しかし、これがかえって、島民らを興奮させてしまう。
「スパイをかばうのか!」
一人が騒ぐと、
「抵抗するな!」
「構わねえ、やっちまえ!」
「貴様ら!」
まさに瞬く間、警官と島民らで格闘が始まった。ものの数秒で、その場は大混乱となる。無関係の島民まで巻き込まれ、
「何やってる警察! いくら税金払ってると思ってんだ!」
「魚なくせえ漁師どもが、とち狂ってんじゃねえ!」などと文句の雨あられだ。そんな中でも、冷静に状況を捉えている者はいた。
「……今だ」
「こっちだ!」
彼は荒れ狂う島民を肩でかき分け、突き飛ばし、朝鮮人を逃がそうとした。
「おい、あの野郎逃げるぞ!」
「やっぱりスパイだ! だから逃げるんだ!」
「あいつは隻腕の篤志! 面倒くせえ、あいつも殺せ!」
篤志は歯を食いしばった。
……ふざけんな、どんな理由だ!
もう出口寸前のところまできて、朝鮮人のもう片方の腕が引っ張られた。
「くそ!」
自分が隻腕である不便さを篤志は痛感し、境遇を呪った。
「離せよお前!」
と、ここで、
「行けえぇ、りぃ!」楡井が叫んだ。
朝鮮人に絡みつく有象無象を払いのけ、彼は果敢にも人柱を買って出たのだ。
「てめえ、やるじゃねえか!」
篤志はかなり興奮した。
「てめえじゃねえ、行け!」
篤志が抜け出した後も乱闘はしばらく続いた。とにもかくにも、署は前代未聞の大混乱である。この後、署長が血相を変えて現れなければ、双方に死者が出ていてもおかしくなかったのだ。
同じくこのころ。
署の騒動を知らぬ堀部は古谷源造宅に赴き、畳の部屋で源造と真向かいに座っていた。
「8月6日。小野田達吉、玉田高太郎らと共に、あなたも木下則子に会いに来たのを何人かの教師が話しています」