lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

エッセイ―この世で最も信頼していいもの、若き日の予感

他人の不幸は蜜の味、と誰々がほくそ笑む。けれど、他人の不幸から甘みしか感じられない味覚の持ち主が、一人前であるはずもない。

今、自分にとって、この世はこんな半人前だらけ。自分が一人前と思っていた人たちは、みんな綺麗に天に召された。

 

故人を責めるのも不謹慎とは思うが、たとえば、私のじいちゃん、ばあちゃんには、この世から言っておきたい。その経験、子供の頃に詳細に聞かせてくれてたらなぁ。今は、なけなしの想像力フル動員でどうにか補っている。自分に子供はいないけど、せめて甥っ子、姪っ子たちには同じ思いをさせたくない、と勝手に責任感を抱えている。

 

「君が家族を持たないのは、いつでも一人で死ねるようにだろ」と誰かに言われたら、「そうですね。だとするとあなたは、立派に生き続けるために家族を持ったわけだ」なんて切り返すのも自分流。
 

ローランドの真似になってしまうが、この世には、二種類の人間がいる。自分と、自分以外。

独善的と批判されるかもしれないが、そうではない。これは自分以外の側のほうが大多数だという戒め。それだけ、「自分を持つ」というのは困難な所業であり、幻想に近いとすら思える。だからこそ、自分探しは崇高な行為足り得る。

やり方を間違えたらみっともない、という節度さえ失わなければ、その積み重ねはやがて、誰とも異なる魅力となって返ってくる。

 

こうしてとりあえず生きてみた結果、若き日の予感は変わらないと確信した。家族の有無にかかわらず、大切なのは「神聖な気持ちを忘れない」ことだ。そいつこそが、野蛮で下劣で幼稚で淫らで過剰な行動を遠ざけてくれる。

 

神聖な気持ちとは何か。それは、先の見通せない現実でも、信ずるに足る価値や存在があるする、不特定多数による盟約。

では、真の神聖な気持ちとは何か。それはおそらく、ただ一人だけの盟約を隠し持つことである。

 

私が本当に欲しているものは、心を激しく揺さぶられたり、びっくり仰天させられたりするような経験、イノベーション、シナリオ、エンタテインメント……なんかではなく、魂を鎮めてくれる意見や見解。

だからきっと、こんな面倒くさいことばかりに興味を持ち、考えてしまう。

 

(終)

 

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