「それにしても谷山、あとで正しい狐の煮方を教えてやろう」
そうして小野田家に着いた堀部。玄関を叩くと、出てきたのは昨日の女学生、妙子だった。
「あら」
「おはようございます。そうか、小野田妙子さん。こちらがご自宅でしたか」
「はい。昨日はどうも」
妙子は一礼した。
「私たちの疑いを晴らしてくださり、ありがとうございました。あろうことか、先生方にあらぬ疑いを掛けられ、落ち込んでおりました」
「お役に立ててよかった」
「感謝しております」
「5学年のみなさんは、学校の顔ですからね」
堀部はサエへのいじめについては直接触れない。これがいかにも警察らしい、と妙子には思えた
「はい。おかげ様で、諸先輩方の顔に泥を塗らずよかったですわ。下級生への面倒もしっかり務めせていただきます。もっとも、学校に行く機会があればですけど」
「そうか、今日から休校でしたね」
「戦争ですもの、仕方ありませんわ」
「帝国軍人の安否を気遣う姿勢、婦女子の鑑です」
化かし合いではどちらも負けていない。この場合、堀部が狐である。
「それで、今朝は何のご用ですの?」
「お父様はいらっしゃいますか?」
「父? 父なら、ついさっき出掛けましたが」
「本当ですか、どちらへ?」
「会社だと思います」
「会社……」
「ええ。父とお約束でも?」
「いえ、そうではないのですが……」
これには堀部、出鼻をくじかれた。ソ連軍の攻撃が続く非常事態、安全第一の経営者ならまず自宅にいるかと考えたが、見くびっていたようだ。回る順番を変えるしかない。気になるのは、他の2人もそうだとしたら、移動で予想以上の時間を消費してしまい、当初の目的は、より一層困難さを増すだろうということ。
車へ引き返した堀部は次に近い、玉田高太郎宅へ向かおうかと考えた。
「せめて頭の回転が速くなれば……」
そう願い、素早くステアリングをさばいた。ここで、知った顔に目が留まる。
「おや?」
思わぬところで見つけた。ぜひ話さねばとブレーキを踏み、らしからぬ大声で通行人の名前を呼んだ。
「……?」
呼ばれて振り返った相手は、うわっと仰天する。
「あ、あなたは……」
さて……。
このとき路地裏の楡井、少しの間、相手を待っていると彼が来た。
「よう、久しぶりだな」
「楡井、あの呼び方はやめろって言っただろ」
現れたのは篤志であった。
「互いの素性には触れない約束だ」
「悪い。どうしてもお前と話がしたくてよ」
楡井はポケットから小さな酒瓶を出し、篤志にくれようとした。
「あの娘、お前の女か?」
「お前には関係ない」
「関係あるさ。あの娘は、うちの学校の生徒だ」
篤志は酒瓶を突き返した。
「何が言いてえ」
「怒るなって。知った顔だっていうだけの話だ。今日は頼みがあって会いにきたんだ。実はな……」
この2人、この日出会ったのは楡井が町に出て、間もなくのことだった。彼が篤志の働く農場方面に足を向けたところ、
「あれは」
通行人の中に、お目当てらしき人の姿を見つけたのだ。楡井は後ろからスルスルと距離を縮めた。
「間違いない」
すぐに声を掛けたかったが、彼はとっさに遠慮した。どうやら、連れがいるようなのである。
……早く別れてくれねえかな。
人様の色恋に口を出さない程度の分別は、彼にもある。けれど、相手とその連れは親しそうに並んで歩き、あっちをフラフラ、こっちをフラフラ無軌道にぷらつき、一人になりそうな気配がない。
……あいつには悪いが、仕方ねえ。
楡井は相手との距離を詰め、背中にそっと呼んだ。
「……りぃ」
そして今……。
「あっはっはっ! お前、相変わらず馬鹿だな」
篤志は大笑いしてやった。楡井は茫然と立ちすくんだ。
「そんな男、俺とお前で、どうやって見つけるんだよ?」
「だ、だから、2人で手分けして……」
「どこを?」
「あ、怪しそうな男がいるとこをだよ。お前、そういうの詳しいだろ?」
「……あのなあ、俺が大事なことを教えてやる」
篤志は右手の甲で口元を隠し、
「……馬ー鹿。あっはっはっ」
「ふ、ふざけるな!」
楡井の顔が真っ赤になった。茹でたタコのようである。
「な、何でもいい、心当たりとかないかよ!」
「あるぜ」
「本当か!」
「俺だ」
「……? 違う、お前じゃない」
「どうしてさ。俺もお前の学校の生徒と付き合ってる」
「お前の姿なら、暗くてもすぐ分かる」
楡井は篤志の左腕をにらんだ。
「ふん、むかつく奴。どうでもいいじゃねえか、おばさんの校長が死のうが死ぬまいが、単なる用務員に関係ないだろ」
「それは、余計なお世話だ……」
「あん? ……もしかしてお前、そのおばさんに惚れてたのか?」
楡井は耳の奥まで赤くなった。
「うへえ。本気かよ冗談きついぜ。変わり者とは知ってたが、女の好みまで変わってやがるとは」
「う、うるせえ! お前があの人を知ってんのかよ! ……くそ……」
楡井はやけになり、「もういい!」一人で行こうとした。
「馬鹿な奴」
けれど、このとき篤志には夜更けに楡井が見たという男に別の心当たりがあったのである。
……どうせ、今は会えやしないけどな。
篤志は楡井を追い掛けた。
「おい待てよ」
「離せ」
「悪かった。このまま行かせたら、あとでどんな報復されるか分からないからな。……その男にたどり着けるかどうか、保証はできないが、頼れるところがある」
こう言うと、彼は楡井を引っ張った。
向かったのは……。
「ここだ」
「おい、ここって……」
篤志は構わず先に進んだ。
「堀部さんはいらっしゃる?」
連れてきたのは、何と警察署だった。