サエはみよ子のいびりから早く逃れたく、たどたどしく弁明しようとするのだが、
「牧田さん、最近落ち着きがないんじゃなくて?」
とか、
「授業に集中してる?」
だとかの次には、
「とりわけ私の授業でぼうっとしてない?」
や、
「あなた、まだ子供なのだから家庭では親御さん、学校では私たち教師の言うことに素直に従いなさい」
などと、お説教は続いた。そんな場面をまた運悪く、スミレたちに見つかり笑われる。
「あなたたち、用がないなら早く帰りなさい!」
「はーい」
みよ子の注意には彼女たちも素直に従うようだ。遠くのひそひそ話だけでサエは十分傷付いた。
少しして、みよ子の隣に男性が立って言う。
「近頃の若い子は」
気落ちして去るサエとの距離を見計らい、おもむろに姿を見せたのだ。数学教師の前沢和也である。
「能見先生も酷ですね」
ぶしつけにこう言われ、みよ子はむっとした気分を隠さない。
「何がです?」
「校外で男性と歩くくらい、大目に見てやりましょうよ」
前沢は細身で背も高く、目の前に立たれると彼女は気圧される心地がして余計むかついた。
「聞いてらしたの。悪趣味ですわね」
「男女の関係を無理矢理引き離そうとする方が悪趣味では?」
みよ子はあきれたように、
「交際を勧めるわけで?」
「そりゃあ相手にもよりますがね」
「相手など関係ありません。私は教育者の立場で常に行動しています」
「私だってそうですよ」
「そうでしょうか」
みよ子は踵を返した。
「それに、今は戦争中です」
前沢も言い返す。
「教育者なら、まず、いじめをどうにかすべきでは?」
反論を期待した前沢だったが、みよ子は振り向きもせず、すたこら歩いていってしまう。
「ふん……。うん?」
外の気配に気付いた前沢は、すぐさま廊下の窓を開けると、強い調子で言い放った。
「楡井さん、何を見ているの?」
外にいたのは学校に住み込みで働く用務員で、3年前に本土から移り住んできた、楡井正夫だった。彼はよそ者の中年で、「つまり変わり者だ」と、教師の間でささやかれている。
「のぞきかい?」と前沢。
楡井はどきっとし、逃げだすようにそそくさ遠ざかる。同じころ孤独な気持ちで廊下を歩いていたサエは、「どうして私ばかり……」
ふと窓の外を見た。そこで早足の楡井と目が合い、サエは小さく頭を下げた。
「こんにちは」
だが、彼はお辞儀を返さない。それどころか、違う生き物でも見るかのような不気味な目つきを向けてくるではないか。サエは戸惑い、「ごめんなさい」思わず謝ってしまった。
けれど、この楡井、実はサエのことなどまったく気にせず、ある夜のことを思い出していた。
「……あいつじゃない。あいつは、あの男じゃない」
そうして…。
その晩。
ひゅうひゅう、と風にあおられた炎。赤々とした鋭い先端が夜空へ伸び、大きなうなりを上げた。
「火事だあ!」
「消せえ!」
町の外れで家畜の飼料を置くサイロが燃え上がったのだ。火の勢いはかなり強い。塔状の建物が下から上まで火にくるまれていく。
「何てこった」
あの隻腕の青年、篤志も駆け付けてきた。
5日の山火事と違い自然発火でなく、失火か、あるいは放火の恐れが濃厚である。けれど今はそんな火事の原因はさておき、眼前の火を消そうと篤志と島民らは懸命だ。ようやく火が収まるころにはサイロも崩れ、篤志らはやるせない気分であった。
朝日が昇ってくると、一人が焼け跡にそろそろと近付いた。その背中に篤志も続こうとすると、
「ひ、ひええ!」
その男が悲鳴を上げ、腰を抜かしてへたりこんだのだ。篤志はすぐさま駆け寄り、「どうした?」
直後、彼も思わず絶句してしまう。それから、堀部がいる署に事件の知らせが入った。
◇◇◇◇
焼け落ちたサイロの付近で、堀部はしゃがみ込んだ。周囲の野次馬が、
「もったいない」
「馬鹿。おっかないだろ」
などと掛け合うのをよそに、彼は現場の観察に時間を割き、脳に映像を刷り込ませていく。
「死体はこちらです」
「うん」
「一部がれきで損傷しております」
制服の警官に案内され焼死体と対面すると、見た目の無残さもさることながら、においに参るのだった。時折こんな事件にも出くわすから、堀部は決まった時間に食事をとらず、「これ以上は」となる手前くらいで、適当なものを胃袋に入れるのだ。
焼死体の一部は生焼けである。
「顔はただれて、識別できないな」
堀部は死体を眺め、
「まず女性ではある」
平凡に述べた。
「逃げ遅れたのでしょうか?」
と同じ警官。
「夜中にサイロでかい?」
「では」
「だろうな」
堀部は死体の頭部を少し動かしてみせた。
「髪が焼けてるから、かえって見やすいだろう。小さいが、右のこめかみ辺りに陥没がみられる。死体は仰向けで?」
「はい」
「なら、がれきでもこんな傷はできんだろう」
現場の焼け跡からは身元を特定するものが見つからず、堀部は念入りに死体を調べた。爪先にインクが染み込んでいるのに気付き、とっさの直感で、ある可能性に思いが至った。遺体の爪には、黒と赤のインクがにじんでいる。
……確認するだけなら難しくない。
堀部は事件について単純な想像を巡らせた。
……昨晩、何者かがここへ被害者を呼び寄せ、頭部を殴打して致命傷を負わせたのち、サイロの中へ運び入れた……火を放ったのは、身元を分からなくするため……とはいえ、島で行方不明者が出れば騒ぎとなり、いずれ身元は判明する……そうなれば……身内や仕事関係など容疑者になり得る関係者も浮上するが……島から本土へ出る手段も限られているし、逃亡すればやはりすぐ怪しまれる……それにまさか……。
「島の北側には逃げんだろう」
「え? 何か仰いましたか?」
「いや。それよりあちらの方々は?」
堀部は左を向いた。
「火消しに協力した島民です。一応、第一発見者とみられる2人です」
その2人に堀部はゆっくり近寄った。
「火消しのときは無我夢中で」
ようようと語る島民は身振り手振りを交え、昨夜の火事を表現した。
「まさか驚いた。あんな炎の中に人がいるだなんて、思ってもみませんもの」
「火事の周りに不審な輩はいませんでしたか?」
「不審な? そんな余裕ねえって、みんな必死だったんだから。ほら、この腕見てくれよ。火の粉で火傷しちまったい」
「ご苦労様です」
堀部の関心はむしろ、もう1人の島民に向けられていた。先に自己紹介すると、
「篤志です」
そう挨拶してくるから、上の名前も聞いたのだが、
「この島ではただの篤志で通してるので」
「はあ」
自己紹介は妙なものの、彼は隣の島民よりは賢く返答した。
「あれが放火だとしたら、やった奴が燃え方を見届けようと現場にいた可能性もあるのでしょう? だったら残念。無我夢中だったのは俺も同じだから、怪しい人物なんか探す余裕はなかったな。あのとき犯人はいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。今だってもしかして、あの野次馬連中に紛れているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。でしょ? いずれにせよ、犯人は酪農の大変さを知らん奴だろうな」
堀部はうなずき、
「あなたは酪農を?」
「やってますよ。人手不足のおかげか、こんな体でもできる仕事はあるらしく、雇ってもらっています」
「火事の前に、この辺りを通りました?」
「ええ」
「何か変わったことは?」
「なかったと思います」
「一昨日や、その前はどうです?」
「その前……」
「……?」
「いや、これはもう少し前ですがね。そう、4日前だ……」
彼が言うにはその日、仕事の合間にふらっと気晴らしに散歩に出てみて間もなく、不思議なものを見たんだそうだ。初めは脱走した乳牛かとも思ったようだが、そうではなかった。
乳牛の中には利口なのもいて、放牧の際、1頭や2頭が群れを離れることもあるらしいが、その牛、いや牛のようなものは前脚が不自由に見えたという。
「それなのに後ろ脚の力だけでぬしぬし歩いていたんだ。異様な獣の類さ」
堀部は聞いた手前仕方なく、黙って続きを話させた。
「もっと近付こう、正体を見てやろう」
彼は恐る恐る一定の距離を保って獣をつけ、たどり着いたのは納屋だったという。
「その牛、いや獣は納屋に入ったっきり、いっこうに出てこなかった。俺は勇気を振り絞り、納屋の小窓から、こっそり中をのぞいたんです。あれには本当に勇気が要りました。昨夜の火消しの比じゃないですよ。何てったて相手は化け物。へますりゃこっちの身が危ない……」
そうして彼が小窓をのぞくと、中では見るもおぞましい光景が広がり、その牛、いや獣は人間の男を締め殺そうとしていたらしい。
「助けてやりたかったが、できなかった。おぞましい獣の姿と雄叫びに、全身がぶるっちまったんです。あの現実をどう理解したらいいのか……。まぶたの裏に焼き付いた光景。あれはまるで……」
篤志は苦悶の表情を浮かべた。
「そう、あれはまるで、金物屋の女房が炭鉱夫に馬乗りになり、その巨体を上下に揺らしいるようだった! ああ、おぞましい! 獣の女房は後ろ脚で男を絞め殺すだけでは飽き足らず、男を潰しにかかったんだ! 哀れ、男は獣のなすがまま、息も絶え絶え、今にも事切れそうに、顔が紅潮していったんだ。あん、あん、はあ、はあ……。雄叫びと悲鳴が交錯するあの瞬間は、まさに地獄絵図だったなあ!」
こう話し終えたら彼はうなだれ、次にへたり込んだ。
隣の島民が腹を抱えて笑い出す。
「金物屋って、あの通りっぱたのか? あそこの女房は確かに牛だな! ぶはは!」
島民はすっかり喜劇を観た気になっている。篤志は得意げにまた立ち上がった。
「一緒に笑ってください。寄席代はもらいません」
「不謹慎だとは?」
「そうでしょうか?」
彼は左腕を上げ、
「おい左手。お前のせいで、俺の心も欠損するみたいだぞ」
にんまりと、そう一人芝居した。
風変わりな青年だ……。
堀部が彼に関心を持ったのは隻腕という身体的特徴もあったのだが、身なりは薄汚れてはいるものの、顔形が島ではまれな整い方をし、何より斜に構えた顔つきと態度から、……ここの出じゃない。
そう直感させたからである。
念入りに現場を確認した堀部はいったん署に戻ることにし、車に乗り込んだ。
ぶろろ。
そして……。
署に戻ると、彼はいつもと違う、署内の物々しい雰囲気に面食らった。いや、既に運転中、町の気配がおかしいのには感づいていたのだが、この署内はもっとなのだ。今朝から調子の悪いラジオの調整をしていた谷山は、
「……面倒な」
と、ぼやきつつ電話の対応に当たっている。誰かから堀部の所在を聞かれ、
「現場です」
と即答したところで、谷山はようやく堀部と目が合った。
「大変だ!」
谷山は持ってた電話を放り捨て、叫んだ。
「ソ連が開戦を宣言した!」
8月8日のことである。