あらすじ
プロ野球選手の引退試合が開かれた、ある日。引退を惜しむファンたちと、試合を観戦する桐生夕子。プロ球団フライハイヤーズのチーム編成担当である夕子は、彼らに「もっと面白い野球を見せる」と宣言する。
目次
1
球場のスタンドが激しく揺れた。
メガホン片手に吠える者や、抱えたタコ焼きを大急ぎで頬張り声援に集中する者、父親と母親の肩をゆすり、「あれが高崎だよ」と自慢げに選手の説明をする子供たちの熱気が急速に高まり、静寂の夜空とは正反対の空間が地上に創出される。
奇麗な女の売り子たちも、この時ばかりはビールやファストフード売りの商魂の逞しさを封印し、観客の邪魔をしないようにする。嫌われては元も子もない。ある女は今夜、商品を売り切れば売り上げランキングで球団トップに立ち、来季の昇級が約束される。それだけでなく、運が良ければ芸能界デビューも夢じゃなかった。今夜の試合に懸けているのは選手やファンだけではなかったのだ。
グラウンドでは、外野者の高崎誠(39)が最後の打席に向かった。
「ごほん」
と咳を一発、気持ちを落ち着かせる。
バットの柄に念入りに滑り止めのスプレーを噴きかけ、不測の事態だけは避けようと懸命だ。大振りしてバットをふっとばすなど、みっとないことにはなりたくなく、ヒットを打つ以外の邪念が混じってるのに気付く。
いかん、いかん・・・。
彼は心の中で首を振り、今だけに意識を集め直した。そうしたら、かつての記憶や思い出が自然と頭に浮かぶ。記憶と思い出の違いに関する詳細な説明は割愛するが、簡単にいえば、記憶はデータ、思い出は情感がやや過剰なメモ帳に相当する。
高崎がバッターボックスに立ち、ヘルメットを抑えつつ、バットを二度三度ぶらぶらさせると、スタンドからどっと歓声が起こった。「辞めないで!」「まだできる!」といった類の声援が大半だ。高崎を知らない観客の間には、しれっとした薄い反応もあったが、周りの雰囲気に呑まれ、ポップコーンを漁る手が思わず停止する。
高崎の涙腺が緩んだ。いかん・・・と、また同じ科白を胸で吐き、バットを両手で握る。
ズバッ!
初球はストライク。見事なストレートだ。球速以上に威力を感じる。
前島さんを彷彿とさせる・・・。
前島とは、高崎が「生涯のライバル」と一目置いたピッチャーで、5年前に先に引退した。肘の故障が原因だ。交流は今でもある。昨年末に飲んだ時には、昔話に花が咲き、「あの時打たれたホームランは忘れられない」「馬鹿言うな。俺が何度凡退したと思ってる」などと、互いを褒め合うのが肴になり、酒宴は長々と続いた。球団関係者と家族以外で前島にだけは、ひっそり引退を打ち明けたのだ。彼が寂しそうにしてくれた姿が嬉しくて忘れられない。
ささいな思い出の力を借り、打席に立つ高崎の気合いが頂点に達した。
観客からの拍手はとめどない。
祈るファンたち。泣くカメラ小僧(35)と、その隣で太った女(50)が怒鳴り散らす。
「まだやれるだろ! くそったれ!」
彼女にとって高崎は特別な野球選手だった。故あって、今は離れて暮らす一人息子と初めて観戦した試合で、高崎がホームランを放った。その時、興奮した息子の顔がいつまでも瞼の裏に焼き付き、彼女が死ねない理由となった。引っ込み思案な息子にもこんな一面があるのか、私でもこんな一面を与えることができたのか・・・。あの日の、あの瞬間のおかげで、彼女は生き直したのだ。
「最後の雄姿、見せてくれ!」
こう叫ぶカメラ小僧もまた、高崎に救われた一人であった。太った女ほど具体的なエピソードがあるわけではないが、打席で見せる高崎の表情、構え、ベースランニング、そしてホームベースでチームメイトに迎えられた時のはにかんだ仕草が、内気な彼に人間の豊かさを教え、釘付けにされた。
そう、彼や彼女にとって、高崎は単なる名選手にとどまらず、救世主でもあったのだ。
しかし・・・。
そんな彼らのそばで打席を見つめる女、桐生夕子(45)はまったく別の考えを持っていた。
奮闘虚しく、高崎は三振に倒れた。
観客から、おおっ、と地を這うようなため息が漏れる。ダグアウトへ戻る高崎に拍手が送られた。ちなみに、ダグアウト(dug-out)とは、服役召集された高齢の退役将校たちを意味する。選手たちを軍人の字になぞらえるところに、野球の面白みはある。
蘊蓄はさておき、高崎は悔しさに任せスパイクで地面を蹴り、首を振った。チームメイトからは温かく迎えられ、敵チームも賛辞の拍手を送り、スタンド側のほとんどのファンたちは泣いた。TVやネットで試合を観ている視聴者もそうだったろうし、明日の新聞やTV、ネットニュースでもきっと高崎が取り上げられる。すべての時空が、彼を祝福しているようだった。
太った女もこの時ばかりは食欲が萎え、「ちくしょう。まだやれるのによ。引退撤回しろ!」と吠えた。
「駄目ね」
太った女は耳を疑った。「ああ?」と相手の顔を確認する。
駄目? 駄目だと? 引退の感動に浸り、その感激を今後の人生の糧にしようと心の準備をしていたのに、水を差しやがった相手は、悔しいが美人だった。
長い髪を後ろで束ね、強調されたゴールド系のイヤリングがきりっとした横顔に品性を付け加えている。着ている服も上等そうなホワイト系のジャケットとスカート。ベンチで組んだ滑らかな脚が、この女の気位の高さを象徴するようだ。
けれど、そんなことは関係ない。太った女はカメラ小僧を乗り越え、その隣に座る女に飛びかかってやろうとした。
「一軍の登録選手には限りがあるのよ。体がまだ動けても、球団の、若手たちの未来のために退く。それが一流の引き際じゃなくて?」
女は意に介さず冷静だった。
「知った風な口を。OLに何が」
太った女は唾を吐きかけたくなる。カメラ小僧も同調し、
「そうだ! あの人がいたから、今日まで俺は生きてこられた!」
2人に睨まれ、桐生夕子はやれやれと礼儀正しく向き直った。
「そう。なら安心しなさい。いえ、喜びなさい。このフライハイヤーズのファンだったことを。私が見せてあげるわ。今より、さらに興奮する野球をね」
2
翌日。
清々しい朝焼けがまだ居残る早朝、小奇麗なスーツ姿をした大泉智(48)が玄関から出てきた。「おじちゃん、おはよう」野球少年の藤岡一輝(10)が、バットとグローブを持って駆け寄ってくる。
「おう。おはよう」
「竜兄ちゃんは?」
「さっきまで、慌てて朝飯食ってたぞ」
智は親指で玄関を差した。昨晩はよく眠れなかったろう、と息子を思いやり、無理に起こすことはしなかった。そんな親心も結局は怨めしく思われるのだが、大泉家の父と子は、よその家庭よりかは比較的通じ合っている。母が死んで、強まる絆といったところか。あくまで「比較的」ではあるが。
「もう、こっちは準備万端なのに」
バットを担いだ一輝は体を右に左に捻り、玄関の戸が開くのを今か今かと待ち構えた。そこへ、一輝の母・藤岡恵美(40)が犬を連れて通りすがる。
「おはようございます」恵美と智はほぼ同時に挨拶した。ついでに「わんっ」と吠えられる智。
「こら。あなたはいつになったら慣れるの。ごめんなさい」
「いえいえ。もう、お約束ですから」
智は犬嫌いじゃないし、この犬も別に智を嫌っていない。悪態交りのコミュニケーションが人と犬の間でも成り立っていた。間もなく、息子の竜(18)が靴を履くのに難儀しながら出てきた。
「何だよ一輝、今朝は早いじゃんか」
「俺、今日から練習の鬼になるんだ」
どうにか靴がはまり、竜は落ち着きを取り戻した。
「そいつは立派な心掛けだけど、どこかで聞いた科白だな」
「一輝君も昨日の引退試合、観たのかい?」
「へへ」
「単純な奴。父さん、行ってきます。おい、お前も行くぞ」
「待ってよぉ。お母さん、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
「気を付けてな。一輝君、ボールは見過ぎたら駄目だぞ」
子供の背中を見送る2人。こんな光景も、もう何度目だろうか。
「すごいですね、竜君。父親のいいところを受け継いだんですよね、きっと」
「まさか、まだまだです」
この頃。
フライハイヤーズ球団本社ビルの会議室は、ぴりっとした緊張感に包まれていた。分厚い木製テーブルの周りに、球団役員らが重々しく腰掛ける。
これからとても、とても大事なミーティングが始まる。来季に懸けたミーティングだ。今季のフライハイヤーズの成績は芳しいものではなかったから、役員らはGMの叱責が飛ぶのではないかと戦々恐々である。
夕子だけが椅子に座らず、一人、会議室の窓から外を眺めた。
いい天気ね。
そう呑気に思えるのも、彼女に自信があったから。このビルは地上40階建て。低層部は別の会社のフロアだが大半は球団のものだ。このビルより高い建物はいくらでもあり、窓から見る景色は絶景というわけではない。彼女が一人でいるのは、景色に興味があったからではなく、群れるのが嫌いだったからである。
そんな夕子の背中をビジネスパートナーの富岡サラ(28)が一瞥し、本日の資料にまた目を落とした。
少しして、GMの周鉄志(45)が颯爽と現れた。
光沢のあるオーダーメードの高級スーツに身を包み、夕子以上の自信に満ち満ちている。革靴の埃をさっと払うと、出席者全員にスマイルをサービスした。
「お待たせ。早速始めよう。本日の議題、来季に向けた編成について。お手元のタブレットをご覧あれだ。現状のフライハイヤーズの戦力を他球団と比較したものなんだけど。まずは、ピッチャー」
夕子以外の全員がタブレットに見入った。
「ご覧の通り、先発陣の防御率は他球団と比べても悪くない。今季、我々のリーグを制覇したブラックマウンテンズの数値も上回っているから、先発陣はよく頑張ったといえるだろう」
一部の役員から「本当よくやってくれたよ」との声が上がる。
「しかしだ。リリーフ陣がいまいちだった。先発投手が交代した後の6イニング、7イニング目は失点を抑えているのに、それ以降の8回、9回が鬼門となっている。象徴的だったのが、8月4日と5日のバブルガムズ戦」
役員らが一変してざわつき始めた。
「8月4日の試合は8回裏3点リードの場面だったが、投入したセットアッパーがワンアウト獲ってから打ち込まれ、1点差。たまりかねてクローザーを送り込んだものの、ツーアウト後に同点。クローザーが続投した9回には、ホームランを喰らってサヨナラだ」
この試合はサラも覚えている。不安の予兆はあった。8回表の攻撃で無死1・2塁まで行きながら追加点を奪えなかった。3点リードはセーフティーではない。得点は奪える時に奪わないと、プロの世界では何が起こるか分からず、1点足りなかったことが、振り返れば敗因という結果はあり得る。スタンドのフライハイヤーズファンらも大いに怒ったものだ。太った女はポップコーンを惜しげもなくグラウンドに投げつけ、カメラ小僧はせめてホームランボールは手に入れ溜飲を下げようと、ボールを追い掛けたのだから。
周の口ぶりがより重くなった。
「翌5日の試合は8回裏5点リードの展開でありながら、前日の悔しい思いを払しょくさせようとのベンチの粋な計らい、というやつで、同じセットアッパーを出す、が。その回になんと同点。クローザーを投入した9回には、またサヨナラだ」
2日連続の体たらく、しかも5点リードを逆転される大失態に、スタンドのファンらが怒り狂ったのはいうまでもない。昨日の不満だって収まっていなかった太った女は怒りでベンチを破壊し、カメラ小僧はその様子を撮りまくったほどだ。この日以降、試合終盤の救援陣のやりくりに困ったチームは、夏場の大事な時期に連敗続き。
「リーグ優勝の可能性が大きく後退してしまった」と、周はその場を見回した。役員らは目をそらし、夕子は微笑する。
「最優先の補強ポイントが救援陣であるのは明らかだ。問題は自由契約、トレード、ドラフトを含め、誰を、何人、いくらで獲るか。次のページに僕なりに考えたリストを載せた」
タブレットをタッチする役員らの姿が、夕子には滑稽に映る。リストに目は向けるが、彼女は無表情だ。
一方、サラは少し驚く。
「左投手がこんなに」
「それは結果さ。データで割り出した、イニングまたぎの投球にも強い投手たちだ」
「リスト上位の選手が、GMがみる優先度の高い選手ですね」
「その通り」
役員らが「ジェットピクルスのバーガー。あちらのチームでは先発投手で期待され、鳴かず飛ばずだったのを、リリーフとして獲るのか」とか、「ブラックマウンテンズからFAになる越谷は、他球団も狙っとるでしょう」などと意見を述べると、
「こちらの買取希望価格も書いてあるはずだよ」
「おお、こんなに」
「獲れなかった選手の金額は別の選手に上乗せすることを考えてらっしゃいますね。交渉が長引いた際、有利な条件を提示するための原資になる」
「そこまで読み解けるかい。さすが、夕子が手塩にかけて育てているパートナーだ。ねえ」
周は夕子の見解を求めた。
「駄目ね」
焦る役員らを尻目に、サラが嬉しそうににやついた。
「噂通り、始まったな。では聞かせてもらおうか。ブラックマウンテンズからお越しいただいた、新たなスカウトリーダーの戦略を」
夕子の指示を待たず、サラは機敏に立ち上がり、用意していた資料を配った。
「ありがとうサラ。それでは披露させていただきます。私の頭の中を皆さんに」
会議が終わり・・・。
夕子は地下駐車場に停めてあった車のキーを開け、運転席に乗り込んだ。黒のBMW。内装も外装も手入れが行き届き、存在感は際立っている。皮のステアリングが夕子の手に馴染んだ。
サラが遅れて助手席に座った。
「お昼どうします?」
「どうしようか。何かこう、がっつりいきたい気分なのよね」
「がっつり言い放ちましたからね。それなら、立ち食いの焼肉でどうです?」
「いいわねぇ。午後の仕事なんかお構いなしって感じじゃない」
歴代のGMたちが使用した立派な部屋では、駐車場から出る夕子の車を周が見下ろしていた。
「桐生夕子。ふんっ、期待以上にそそる女じゃないか」