人の心理は複雑だ。
その複雑さから目を背け、安易な結論を語ったり信じたりする態度は忌み嫌われるべきだと思う。
自衛の件に話を戻せば、こうすれば守れる、守ってもらえるなどと期待を抱いてはいけない。
何をなしても、いずれ滅びるだろうと予感しつつ、予感がある以上、考えつく対応を疑心暗鬼を抱えたままこなしていくしかない。
この作業が日本人はどうしようもなく苦手で、そのためにストレスへの耐性が弱い。
ストレスのない生活にこしたことはないが、戦うべきときに口先だけで、ただ逃げ回っていては、やがて、今受けるよりずっと酷い災禍を被るはずである。
自衛が義務ではなく権利だと、どうしても思いたい民衆には、いざという事態が起こった場合に対する行動の回答がみられない。
そんなことを考えることすら不謹慎とのムードが強かった時代にはそれでよかったが、現在ははたしてどうか。
かつての平和主義者たちも、もうそれでは無理だと薄々感づいているのではないか。
無理だと思っているからノスタルジーに傾き、抵抗を強める。
彼らは自分が信じた信念が時代の徒花であったと認められず、あるいは認めるための機会を何度も見過ごし、状況をこじらせてしまっている。
愚かさが死ぬまで続くといわれる所以でもあろう。
これは乗り越えなければならないし、少なくとも私自身はそうしたい側である。
こんなことを面倒臭く考えなければならない日本人とは、実に厄介な民衆ではないか。
攻めくる敵とは戦うしかない、そのための備えは必要だ――。そう前提を置くのがまあ普通だろうに、この国にはその文化がない。消えてしまった。
文化とは「文徳による教化」のことだとの説がある。
この国では、文(言葉)によって人の徳を高めようとの教えが乏しい。
今や、この国の教育とは将来に役立つものでなければならず、役立つ教育とは社会で仕事に生きるテクニックを覚えることだ。
言い過ぎだとお思いだろうか。これは言い過ぎではなく、説明が少し足りないだけである。説明すればこうだ。
――この国の連中は「将来」の意味が分からぬまま「将来」を語り、「役立つ」ものがなんであるかも知らぬまま「役立つ」ものを求め、生きるのが死ぬよりも辛い場合があるのを考慮せずに生きなければ駄目だと説く。すべてが漠然とした拙い想像でしかなく、想像で現実を捻じ曲げ、ただ生きていられればそれでよい――。
分かりやすい境地だろう。
だが、本当にそれでよいと心の底から思えるだろうか。
そう思うことで楽になりたいのと、納得してそう思えるのとは明確に異なる心境だ。
前者はいわば思考の放棄であるのに対し、後者は探求の結果としての一応の結論に近い。
自衛を権利だと思いたい連中は前者の類であろう。義務を負うとなれば煩わしいことになるから、権利と言ってしまえば要求するだけで済む。要求に対し、気に入った回答が得られれば喜べばいいし、気に入らなければ不満をぶつけてストレスを発散する。
この場合、要求する側は常に民衆であり、される側は政府であるのはいうまでもない。
守られるのが当たり前だと長年信じ込んできた人々に、自衛の義務を意識しろと求めても、きっと虚しい遠吠えにしか聞こえない。
ならばどうする。いや、きっとどうしようもない。
どうしようもないと知りつつ、言わずにはおけない自分が確かにいるから、ときに語り、ときには書いてしまう。
誰も聞く耳を持たず、誰も読まなかったとしても自分の本性はそこにある。
これが分かった時点で、生きる意味を体得したといってもよいかもしれない。
だから、もはやいつ死んでも悔いはなく、これ以上生きるほうが死ぬことよりも面倒である。
私は、「死ぬ気があるなら生きる力だってあるでしょう」、などと諭す類の言説が好かない。
死への気力は死に向かってしか発揮されないからだ。
「生きる気があるなら死ぬことだってできる」とは言わないように、「死ぬ気があるなら生きられる」とはならないのだ。
生と死は互いに意識し合いながらも、容易に助け合えない隔たりが両者にはある。
この点を見誤ると、死生観はちゃちな紙芝居の物語へと堕ちていく。
そして、このことが自衛の概念まで狭め、自衛の成否の基準を低水準へと沈めてしまっている。