lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

~久々更新記念、長文放出~小説『その女の衝動』

『その女の衝動』

 

言論。それは、ただこの世の正しさを論証したり、間違いを公明正大に糾弾するだけでなく、その場で聞いてくれる人たちの気分を、憂鬱を、ありとあらゆる陰鬱な心持ちを少しでも解消してくれるものでなければ到底言論を操ったとはいえなかった。これは、そんな気付きを幼い頃から抱きながらも、実践できずに死んだ女、哀れな女のちっぽけな話……。

 

        

この女には堪らない衝動があった。男。男に抱かれることこそが彼女の煩悩を払う術だった。「はあ」「うう……」朝起きて、レースのカーテンを開け、窓から朝焼けの街の、低い屋根の家々をぽうっと見つめ、昨夜のまぐわいを思った。ここは高級とまではいかないが、それなりに良いホテル。煙草を吸い、煙をくゆらせながら、上半身裸の彼女は白いシーツのベッドで、同じく裸のまま逞しい胸毛を茂らせたマッチョな男の寝姿に見惚れる。可愛らしいが、どうもだらしがない。つまり、愛らしい。部屋の天井でひゅんひゅん回るシーリングファンのプロペラが昨夜から回りっぱなしなのはいかがなものだったか。組んだ腕で、さっきより豪快に煙を吐く女は唇をまあるく広げ、頭をぼうっと、ぼうっとさせるのだった。

男好きとはいえ、誰でもいいわけでなかったのだ。いい男でなければ。彼女にとっていい男とは、一言でいえば時代を生きて、時代に死ぬ男たちである。もうそんな男に何度も抱かれてきた。朝なのにこの部屋の奥、窓からちょっと離れたベッドの先の影はひどく暗い。彼女は部屋の物影が嫌い。そこへ指を入れると、溶けて消えるような気がする。なんてことは冗談である。

 彼女は今カタールにいる。仕事だ。昨夜は一晩中セックス三昧だったが、そろそろ頭を切り替えよう。手近のミニテーブルの灰皿へまだだいぶ残った吸い殻を押し付けたら、腰に巻いてたガウンを脱ぎ、肉好きのいいヒップをたゆらせ、シャワーに向かった。今朝は日差しが強めで、サングラスに地元で買った麦わら帽子を被り、慣れた風に車を運転する。服装は白のノースリーブ。唇は光沢のあるリップを厚めに塗った。保湿対策だ。別に男に媚びろうというんじゃない。

舗装されず、土の地肌が露わの凹凸のある道を颯爽と車で走り、見知った交差点でハンドルを左に切った。曲がりながら、頭に大きな、ざるのような網かごを乗せ、朝の商売に出る現地の女らとすれ違う。この女たちは、線は細いが実に健康的に見えた。黒い肌に、彼女は憧れがある。日本人の自分はどうにも年を取ると、肌の張りがなくなり、しわも増え、よぼよぼになってしまう気がしてならない。現地人が持つ肌の強さに、羨ましさを感じているのだ。

 目的地に着いた。倉庫の前。古く薄汚れ、トタンの屋根は茶色く錆び、もう古いから誰にも使われてない。細く、色気のあるすらっとした素脚から先に出し、車を降りた彼女は、サングラスを外した。まだホテルで寝てるだろうブライアンを思う。あの男の名だ。金髪のアメリカ系アメリカ人。つまり、ただの米国人。本当はアイルランド系なのに、自己紹介では無意味に馬鹿っぽさを演出する。それに反比例する彼の逞しい背中、太い腕、厚い胸板。想像して、思わず彼女は愛液が零れそうだった。いけない、馬鹿ね。仕事に集中しなさい。切り替えるため、またサングラスを掛けた彼女は、倉庫の入口へと歩いた。

 中では、男たちがルール不明なカード遊びをしていて、1人は煙草を口にくわえ、カードを配っていた。不明なゲームというのは彼女の視点で、ただのポーカーゲームである。彼女はポーカーを知らない。正確には知ってはいるが、やったことはなかった。これはまあ、どうでもいい話である。

 がら、ぐぐ……。たてつけが悪く重い扉を、彼女なりに思いっきり横に押し、女一人入れる隙間をつくった。

「やあ、夕子」

現地の言葉で言われる。女は声を出して挨拶しないのが、ここのルールだ。夕子は、かるーい会釈を返す。ルールとは、これからする取引のルールである。彼女は男たちが集まったテーブルに、ばん、と両手を置き、サングラスのまま、にこっと笑った。さあ、始めましょう、の合図だ。

 倉庫の中はただの空間で、ピックアップトラック数台が入る広さ。床は土だから、ほとんど張りぼての倉庫。よく壊れないでいる。夕子は感心する。

「何からやりましょう」

 彼女は手持ちの鞄に手を入れ、要求を待った。「銃だ」相手がそう言うので、その書類を渡す。男たちはのぞき込んだ。この場には4人と、テーブルから少し離れたところに1人の計5人の男たちがいる。離れた1人は夕子の見張りなのだ。黄色いポロシャツを着て腕を組み、不審な動きをしないかどうか、彼女を監視している。

「いいねえ、これだ。お前らはどう思う?」

 髭を生やした色黒の男に意見を求められ、周りの仲間は「いいんじゃないか」「俺もそう思う」と、同意見を並べた。夕子は表情に出さず、にやっとする。「では、サンプルを持ってくるわ」振り返り、あの肉付きのいいお尻を揺らせ、一度倉庫を出た。

「お前、あの女どう思う」

「どう思うって?」

「女としてってことだ。やりたいか?」

「俺はジャパニーズには興味ない」

 男たちはお決まりの猥談で時間を潰した。資料にずっと目を落とす髭の男は「値段は少し高いがな」顎をいじった。倉庫はその会話以外静かなもの。男たちの足元に、6本脚した1匹の茶色い虫が這っていた。触角をなびかせ、かさかさ、こそこそ、ぐるぐる。誰からも気にされないこの虫は、やがて、髭の男に踏まれて死ぬ。この時、世界でも人の死ぬ出来事が起きていた。戦争。この国の隣国と、そのまた隣国のいさかいである。彼らはその戦争に、義勇兵として参加するため、わざわざここまで来たのだ。夕子が戻ってきた。白いノースリーブ姿が、倉庫の入り口から差し込む光に溶け込み、一瞬姿が消えたようになる。手に持った商品だけは存在感を放った。

「おお」

赤いTシャツを着た若者が口笛まで吹き、夕子の手元に見惚れた。「AK55式。殺傷力は抜群よ」夕子が手に持つそれは、艶消しした黒が重厚感を放つアサルトライフル。AK55は隠語だ。正式名称は夕子も知らない。彼女はこの仕事のベテランだが、よく知らないことも多い。知らない方ができることもある。銃を熱心に眺める男たちを見て、夕子は満足し、腰に手を当てた。彼女なりの決めのポーズ。ここは薄暗いとこなので、夕子には早く済ませたい気持ちもあった。さっさと仕事を仕上げ、お日様を思う存分浴びたい。ブライアンも、今日ならまだ付き合ってくれるだろう。どこへ行こうか、どこでもいい。遊び終われば、セックスが待っている。

 なぜ私は男にこだわるのだろう。ずっと疑問だが、答えは出てない。自分の理由すら、彼女は深く知らなかった。「どお。ご満足かしら」現地の言葉で流暢に話す。髭の男はライフルを両手で上げたり下ろしたり、まるで、おもちゃでも手に入れたみたく喜んでる。神でも見るかのように、赤いシャツの若者がライフルを目で追い、緑と青のTシャツを着た中年2人も、にこやかにたたずんだ。これで取引は成立した。

「次はどうする?」

「また銃だ」

 髭の男は当たり前だろといわんばかり、ライフルに夢中になったまま。「了解」夕子もよく分かっている。彼女の客には、よくある反応だ。この後も流れるように取引は進んだ。大盛況。こんなに売れるのは久々ね。これも戦争の賜物と思い、彼女はほくそ笑んだ。彼らから現金を受け取り、車へ戻ると、太もも辺りを虫に刺されてるのに気付いた。痒かったからだ。クリーム色したスカートの上から掻き、生地の裏は少し血で汚れた。「いいわ。すぐ捨てるし」彼女は取引で一度着た服は二度と着ない。ルールだった。この地域の前任が、げんを担いで同じ服装ばかりして、最終的に殺されたを知ってから、そうするようになった。死の商人らしくするため、後付けした理由。本当はただ単にファッション好きなだけの30代と変わりりゃしない。

 外の陽は、天使の眼差しのように彼女に降り注いだ。砂漠地帯でわずかに生えたメースたちが、おいで、おいでと誘ってくるし、ペルシャ湾から漂うしょっぱい香りは昨日よかずっと運転する彼女を幸福に包んだ。今の私なら何だってできる。強気にさせるのは、取引の成功だけじゃなく、カタールの風土が思いのほか合っていたのと、いい男が待ってくれてるからだ。

どうするか、少し食事してから……。信号が変わる手前で車を右に曲げ、昨日食べたチキンと米料理の店に行った。貧乏そうな子供らが車窓から目に入る。子供らもこの辺りじゃ珍しい黒のセダンを見て、ドライバーが女なのを知り、余計に関心を持った。1人は少年で、手にしたアイスより、車の排気量の方が気になる。メカニックに憧れていた。そうとは知らず、夕子は車のバックのマフラーによってさえ、男を惹きつけていたのだ。

フロントガラスの日差しが眩しくなってきて、路肩に駐車した。食事の前に、疲れたようだ、2、3分休憩しよう。彼女は運転席のシートで首を伸ばし、凝った肩を片手で揉んだ。思ってたより緊張していたようだ。さっきの取引、確かに相手の客は正常とはいえない。日本人の価値観からだが、この仕事にもう10年関わってても、シミみたく染み付いた習性は容易に変えられない。そろそろ車を出そう。フロンドアの窓に肘を掛け、片手運転で再発進しようとし、そこで地元民らに正面を横切られ、彼女はちっと舌打ちした。コンコン。助手席側のガラスを叩かれた。何? と思うのとほぼ同じ間で、男が乗り込んできた。「ちょっと」彼女は冷静だ。危機だとは認識したが、まだ死ぬはずはない。

相手の男は夕子と同じサングラス、口元に白い髭を蓄え、額や目尻、首筋には人生経験の多さと深さを感じさせる皺が走っている。コーディネートは上が彼女と同じ白のジャケット、下は黒に細いストライプの入ったスラックス。特徴的なのは、指が太くごつごつした大きい手。指と指の間、一度怪我したら治りにくそうな部分にいくつも傷が見える。この人、どれだけ人を殴ったのかしら。呑気に構えるのは、迫りくる危機に臆せず対処するための本能だった。

「覚悟はあるか?」

「ないわ」

 丁度、鷹が1羽上空から車のボンネットを見下ろし、人の世の俗事に花を添えた。これから殺すのでしょう、あたいもついさっき獲物を一つ仕留めたばかり。鷹に口はきけないが、確かにそうさえずっていた。この鷹は特殊だ。2日前にメスと交尾して子種を付けたのだったが、恐らく不首尾に終わったろう。彼らには翌日にそれが分かる能力があり、特に彼の場合は鋭敏なそれを持っていた。今は眼下の人間に対し、持ち前の予知能力が発揮されようとしている。

「殺される前に、一つだけ聞いていい?」

 夕子は一転して死を覚悟した。ごつごつした大きな手に、彼女も駆け出しの頃、何度か売りさばいたことのある拳銃が握られ、ああ、やっぱり駄目だ……。早々に諦めてしまった。男の銃の持ち方はプロのそれで、重い、500グラムはする拳銃を、軽いドライヤーで頭髪をブローするような気軽さで握るのだった。プロ。プロの殺し屋。彼女はもう理解していた。ああ、せめてあと一度。脳裏に浮かぶのはブライアンのこと。彼が彼女の中でフィニッシュした瞬間の恍惚とした表情は、彼女にとってダイヤモンドより硬くて神々しい記憶になった。あと一度。それが叶わぬなら、この男だって構わない。テクニックは相当ありそうなこの男、せめて死に際のサービスくらいしてくれないかしら、なんて、娼婦も顔をしかめるダサいジョークを頭の中でぐるぐる回し、もう使われることのない自分の膣に、虚しいね、そう心で呟いたのだ。

 死ぬ前に一つ言っておきたいが、彼女は決して淫乱ではない。付き合った男性は32歳になるこれまで、2人だけ。そのうちの1人がブライアン。抱かれた男は数知れぬが(最初は19歳だった)、本気で好きになり、身も心も捧げてしまいたいと願ったのは、本当に2人だけだった。

 彼女の中で地球が崩れていくイメージ、光景がふっと湧いて出た。噴火した山々、粘度の高いどろどろの溶岩、それに飲み込まれる高級住宅、そして、白いブランコの前で目をこすって泣いている少女時代の私。この時も、今と一緒で麦わら帽子を被っていた。人は、今も昔もそうそう変わりはしない。それだけ確認して、彼女は死を受け入れようとも思ったが、サングラスの裏で、かっと目を見開き思い止まった。

 まだ死にたくない。この思い、非常に強い、土壇場の生存本能が彼女を突き動かした、生存しろと。ドン! 抵抗したことで無駄な銃弾が一つ放たれた。彼女は必死で抵抗してみせた。細い腕で、男の腕や顔や、どこでもいいから押しまくり、そして脚ではスラックスを蹴っ飛ばし、逃げる隙をつくろうとしたのだ。私ならできる。根拠ない自信が彼女にはあった。

 けれど男は冷静である。女の抵抗を前戯のごとく受けながし、放ってしまった銃弾は、まあよくあるリスクと割り切り、すぐ殺して挽回すれば問題ないと、口髭をにやけさせ、2発目を撃った。命中だ。女の白い奇麗な服が、奇麗は紅で染まっていった。この血に男は興奮する。殺した女にも、この時惚れるのだ。けれど、惚れた時にはもうこの世にいない、いつものことだ。彼の前で、女は脇腹から血を流し、顔をステアリングに沈め、青白い顔で、濡れた赤いリップを輝かせ、瞳を見開いたまま、絶命した。

「終わった」

 男はしれっと何食わぬ顔で車を降り、道行く通行人らの恐怖と好奇心の目がまるで報酬であるかのように、乱れたジャケットの形を両手で整えたら砂埃の中へ消えた。砂はまだ舞っている。男がいなくなっても、一つ一つの砂粒は自己主張するように、延々と舞ったのである。

 さて、彼女は、夕子なる女はこれで死んだ。奇麗な体だ。ステアリングに突っ伏し、ノースリーブからのぞく柔らかな脇の辺りが、上からのぞくとたまらなく色っぽく見えてしまう。爪まで奇麗に手入れされていたと、ここで分かる。だらんとした細くて長い指は、クラシックの指揮者のように指先から意味を発していた。彼女の爪はピンクの部分と、伸びた白い部分のバランスが実によく可憐であった。彼女は死んだ。しかし、その死は無駄でなく、あのゴーギャンにも匹敵する芸術となる。それだけ、彼女は本当に美しい、実に素晴らしい日本人女性であったのだ。ただし、魔物に食われた女性ではあった。

 

        

 彼女の死の一報が、ブライアンに入った。「ガッデム!」ありきたりな米語を吐き、ホテルの受話器を耳に当てたまま、もう片方の手で金髪を掻き、頭を伏せた。なお頭を掻き、彼はいらいらして金髪を振り乱した。前歯も噛み合わせている。電話の向こうでは、白髪頭の上司が葉巻片手に、置かれた状況をつぶさに説明する。「ガッデム」また同じ単語を吐いた。ブライアンは賢かったが、緊張してしまうと、言語能力が俗物に落ちたのだった。

「どうする、ボス?」

 ブライアンはようやく落ち着き、冷静な質問ができるようになった。「夕子の仇を討つか?」これは冷静な判断でなかった。激情に駆られ、腕はいいのに生かしきれない部下は山ほどいたのが、ブライアンは本来そうではない。

「とにかく今は帰ってこい。それが命令だ」

 上司は葉巻をかじって言った。電話の向こうでどんな態度を取ってるかなんて、相手には分からない。「謹んでお悔やみを申し上げる」かじった日本文化にならい、適当にそう告げたら、彼は電話をガシャンと切った。

「ちくしょう」

 ブライアンは両手で後ろ頭を掻いた。腰にはバスローブを巻いている。彼女が出掛ける前、風邪を引かないようにと気を利かせて巻いていったのだ。後頭部で頭を組むと、彼の逞しい二の腕の筋肉が自然と盛り上がった。夕子が愛した体だ。ブライアンは上半身裸のバスローブ姿のまま、携帯電話でどこかへ電話した。トゥルル、トゥルル。相手はなかなか出てこない。「早く、早く」彼のスマートな顔が徐々に醜くなった。

「遅いじゃないか、とっとと出ろよ!」

「ああごめん、薬をやるとこだったんだ」

 電話の相手は、もうだいぶラリッた状態でブライアンに謝罪した。「女が殺られた、俺の女だ」ブライアンは事情を説明した。これは職務規定違反だったが、どうでもよかった。復讐。彼の頭にはこれしかない。

「やったのは俺が見つける。お前はいつもの準備をしろ」

 一方的に用件だけ告げ、不作法に電話を切ると、彼はまたベッドに座って頭を抱え、悲しむのはもう十分だろうと踏ん切りをつけ、立ち上がり、腰に巻かれたバスローブをほどいた。ホテルの窓から吹き込む風が温かくねっとりし、乾燥肌の彼には合わなかった。乾燥肌に合う風などない。彼は頬の痒かったところを掻き、爪の間に入った悪い角質を指で弾いた。このホテルは小高い丘に立つ、石灰を使用した真っ白な外観を夕子が気に入り、出張の拠点に選んだのだ。彼女にとっては、どのシティーのそれに負けない高層の高級ホテル。ブライアンの決意は固い。黄金の金髪をオールバックにし、ワイシャツにネクタイを締める正装を鏡の前できちんとこなし、オートマチックの銃を腰に入れたら、最後に夕べ飲み残したスコッチをあおり、お出掛けの準備は整った。この時、夕子の死を見届けた鷹が窓の外を素通りした。この鷹には彼の未来も見通せた。

 世界全体の環境汚染のせいで灰色がかった雲たちが、青空に要塞の如く浮かんで、ブライアンの行末に呪いをかけている。ジャケットを羽織った彼は景色より殺意をたぎらせ、世間を威嚇する歩き方でホテルを出て、夕子を殺した相手を探しに行く。彼の様は、いかにも異国で羽目を外す外国人であり、威圧的だった。シャボン玉を吹く子供が彼を振り返り、部外者め……、誰に教わったわけでもない差別意識を逞しくした。街は殺風景だが、建物には伝統があり、質素だが清潔さと自然素材の持つ有機質の安心感を発していて、ただ歩く分にはブライアンにも十分気晴らしにはなった。夕子さえ生きていたら。彼は彼女のことをまだしっかり把握しきれてなかった。肉体の柔らかさと、時折見せた熟れた笑顔くらいしか知りはしなかったのだ。これからゆっくり知ればいい、そう思っていた。ひとえに、人生には後悔が付きものである。

 見当は付いていた。いや、奴らとしか思えぬ連中がいる。肩幅の広い彼の存在感は人混みに紛れても失われることがない。地元の市場の狭い通りの真ん中を堂々と直進し、ただ目標だけを目指す。ブライアンもサングラスをしていた。夕子もそうだが、この国に来る外国人たちは目元を暗くしないと眩しさで視界が十分ではないようだ。彼は林檎を一つ買い、そのまま丸かじりし、左の唇のきわから甘酸っぱい蜜が零れた。この甘酸っぱさ。抱き合ってからしばくして放つ夕子の首筋の香りに似ていて、彼は唇一杯に付いた林檎の蜜を惜しむように舐めた。彼はこの国が嫌いだ。白のぎざぎざと茶色っぽいぎざぎざが噛み合わさった国旗のデザインさえ、母国の国旗と同じで好きになれなかったし、アラブの風習も食事のリズムも道行く人々のファッションも、てんで合いやしなかった。それでも一番気に入らない国は彼の母国。この国の彼らは厳しい戒律下でも生を謳歌してるのに、かの国ときたら、自由、平等、また自由とオウムみたく叫び続けてなお、誰もが生に不満面するのだ。彼はブラウン系のテラコッタの屋根をした小さな生家を思い出す。あの家には何もなかった。太り気味で偏屈な母が巷で聞きかじったレシピを披露する日は大抵、何か良くないことがあったのだ。「ブライアン、食器を出して」催促する母のたるんだ二の腕の赤らんだ皮膚やシミが、嫌いではなかったが、ひどく、ああ、ここは田舎なのだなと感じさせ、目をそらせたものだ。父は朴訥とした生真面目な男で、ユーモアは解していたが、母の小言には無口だった。「あなた、食べ終わったら、コーヒー飲む前に食器を片してちょうだい」ぶっきらぼうにそう言われても、あの男は嫌な顔一つ見せなかった。蓄えた髭が自慢だった父は、よくブライアンに、お前もいずれ俺の真似をしろ、もっと大きくなったらだ、と期待していたが、彼は母似の金髪で父と同じ、真っ黒な硬く濃い髭は頑張っても生えてきそうにはなかった。

 彼は父より母が好きだった。嫌いながら、母の姿に惚れていたのだ。ある時、ちっちゃな町の商店で母と買い物していると、強盗がやってきて、あの辺りではよくあることだったが、ブライアンは驚き恐怖して両手で顔を覆い隠した。その指の隙間から、店主の老人が年甲斐もなくあたふたし、目出し帽を被っていても恐らく若い移民だろうと思わせたその強盗が、こっちをのぞいたのが分かった。母は毅然としていた。母は彼にとって誰よりも美しい女性だったが、世間からすれば、シミとそばかすだらけのブスだったろう。だから、彼は母がこの強盗に襲われる心配はしなかった。「馬鹿な真似はよしなさい」母は銃を向けられなお、強気を崩さなかったのだ。そういうところが夕子とも似ている。強盗は恐らく、目出し帽の裏で舌打ちし、二束三文の銭を手に店から遁走した。すぐ射殺されたと、のちに聞いた。その夜、父は饒舌だった。「母さんは強いだろう。そこに惚れたのだ」普段あまり飲まないビールをぐいぐいあおり、父は心底楽しそうだった。これでブライアンは確信する。男は、女の外見やセックスの上手さより、芯の強さに惚れねばならぬ。まだ10歳だった。ブライアンの両目は一つの真理を獲得した哲学者のようにブルーに輝いた。父の喜びようが彼にも嬉しかった。その晩、彼は潜ったベッドの中で母を尊敬し、人生で一番の安眠をむさぼったのだ。そして、そんな母の記憶に、夕子は被さる存在であったのだ。

 彼は決してマザーコンプレックスに苛まれてたわけではない。母は一人の人間としての理想であった。そうした経験を持つ男性は少なくないだろう。夕子を殺った殺し屋だって。ブライアンはまだ殺し屋の正体を知らない。それでも、殺し屋の本心は分かる。臆病者だ。自分を死なせたくないから、他人を殺すのだ。ブライアンも経験済みのことだ。これは、彼がこの仕事を始めてわずか3カ月目の時、先ほど電話で話した上司、当時は単なる一教官に過ぎなかった彼が、ブライアンを叱責した。

「お前には才能がない」

 ブライアンは聞き返した。

「才能とは何です?」

 彼の答えは明確だった。「人を殺す才能だ」彼いわく、人を殺めるには三つのセンスが要るという。一つは歴史に詳しい脳みその持ち主であること。これは学校で教わる歴史が頭に入ってる入ってないなどと、表面的な知識の有無や量を指してるのではなく、今ある、現在進行形の歴史に敏感な皮膚感覚を備えているかどうかという話だった。「俺にはそれがある」教官はそう自慢げに言った。もう一つのセンスとは、人を殺めても動じない気の鈍さであった。「俺には、それはない」彼はこともなげに言った。そして最後の一つが「愛する人をつくらない」というものだった。教官は「俺にはそれも持ち合わせてない。だから教官失格なのだ」と話して、他の指導生らの笑いを誘った。これで、この人は信頼に足る人だ、とブライアンにも思わせた。

 さて、それはさておき、ブライアンは倉庫に来た。夕子が取引に使った場所である。「おのれ」彼はまたつまらない科白を吐いた。これだけはどうしようもない。腕は優秀なのだが。

 ブライアンはすぐに倉庫を出て、車を走らせた。街には、いくつか自由に乗り降りできる高級車を配置している。盗まれる心配などなかった。この車は高級すぎて、手を出せばただで済まないと地元民にも予感させたからだ。

 夕子とは何者であったろう。砂埃を巻き上げる車の中、彼は物思いにふけり、彼女のために思考を費やした。夕子。くどいようだが、彼女は彼にとってまさに理想の女であり、人間でもあった。ある日、彼女は物憂げな表情で言ってきた。「生きてても楽しくないの」昨晩あれだけ盛り上がった翌日のことだったので、ブラインアンもショックを隠し切れず、「どこかまずかったかい?」くそ真面目にセックスのノウハウで間違いがあったか聞いてしまった。「馬鹿、そうじゃなくて」それから彼女はこう続けた。「生きる意味をね、だいぶ前から見失ってるの」彼は興奮した。ああやはり、この女は素敵だ、唯一無二だ。その夜、彼はセックスでなく、一晩中彼女と語り合った。あはは、と笑うその笑顔がとてもセクシーで、抱きたい衝動に駆られはしたが、彼はぐっと辛抱し、自分の身の上話に夢中になったのだ。「素敵な人生じゃない」ベッドの上の彼女は細く、それでいて魅惑的な脚をクロスさせ、より魅惑的な声色で彼を誘った。けれどその日の彼は、そんなことより、もっと彼女に自分のすべてを知ってもらいたかった。今夜が、その瞬間に間違いないと確信していたのだ。

「……というわけだ。つまりどういうことか分かるかい?」

「さあ。何なの?」

「僕はつまるところ、無意味な人間だってことさ。ガキの頃は親の財産で飯を食い、大人になったら人殺しの稼業に身を堕とした。駄目な男だろ?」

 彼は自虐的になりつつ、微かな共感も期待した。彼女はベッドの上で色っぽく首を伸ばし、背を反って、しばらく彼女の思いを確認していた。紅色の唇から「いいんじゃない」と、言葉が漏れた時には、彼は胸がすくような心地でより一層、彼女を好きになった。

「さてと……」

 彼は車を降り、2階がバーになっている建物の地下へ下りた。薄暗い。外の陽気な光が、この階段にはまったく届いていなかった。階段の幅は狭く、段差は不安定で、土を塗りっぱなしの壁はぼこぼこし、彼の指先に緊張と落ち着きをもたらした。下りきったその先に、目的の奴らがいる。彼は覚悟していた。この先格闘になり、たとえ命を失ったとしても、相手を仕留められるのなら、悔いはない。彼の悔いは、彼女を死なせてしまったことなのだから。ドアノブに手を伸ばした。少しだけ空中で手を止め、彼女のすべてを思い出す。殺しの前の儀式。彼は人を殺す前、愛する女のことを思い出したのだ。ここ最近は、夕子がずっと対象だった。

 彼は勢いよくドアを開けた。ほぼ同時に、威嚇も兼ねて銃を1発放つ。これで彼が場を制した。

「何だてめえは!」

「ふざけてんのか!」

 男たちの威勢に、彼は動じない。そんはなずもない。「殺ったのは誰だ?」彼は朗らかに尋ねた。これも彼の流儀。殺す時は、決して激高しない。「もう一度聞く。殺ったのは誰だ?」わざと銃口をカチャカチャ揺らし、相手の緊張と恐怖を煽る。と、そこで、銃口がある一人を差して止まった。こいつか……。サングラスの奥で、彼の目が輝いた。分かるのだ。野生の直感、いやベテランの習性というべきか。一目見て、そう思わせた奴がいた。白い髭。遠目でも見える、ごつごつした手。間違いなかった。彼女の死の直前の記憶が、ブライアンに乗り移ったかのようで、彼は嬉しかった。ドン! 躊躇なくまた1発放つ。外れた。髭の男の背後のロッカーに、弾はめり込んだ。ここは、何かの控え室のようだった。プロスポーツ選手が休憩時間に集うような造りで、ベンチに、ロッカーに、タオルを掛ける手すりに、それくらいしか、この部屋には置いていない。ブライアンには好都合な場所だ。殺しの場所までは必ずしも選べない。相手の動向次第だから、今日はラッキーだった。

 白い髭の男は、夕子を殺した時と違いサングラスは外していて、彫りの深い瞳をブライアンにぶつけていた。今の男は丸腰。名をサンチェスといった。当然偽名だったが。サンチェスは万事休すの事態に、持てる脳力を総動員して活路を見出そうとした。けれど、その方法は容易に浮かびそうでない。あの女、夕子を殺った昼前は意外と簡単な仕事で、彼はややのんびりしすぎ、油断した。プロにあるまじき行為だったかもしれないが、長年同じ仕事を繰り返していると、ごく稀に、数年に数度の頻度で油断が忍び寄ってくる。今日がその日だったか……。髭の男、サンチェスは目を伏せ、髭をぽりぽり掻いた。「おい、動くんじゃねえよ」ブライアンは銃口をサンチェスだけに向け、引き鉄に指を掛けている。もう殺す気だ。サンチェスにもそれは分かり、時間がないのだと知り、今日殺した女と同じ状況じゃないか、と苦笑いしたくもなった。彼のごつごつした手と指がひくひく動きだす。プレッシャーからではなく、殺し、殺される稼業に身を置くものだけが体得する皮膚感覚が指先まで勝手に支配し、諦めるな、きっとまだチャンスはあるさ、そう叫び、慰めてくるのだ。サンチェスは決断した。死のう……。意外な判断。彼の美徳は、物事に執着しないこと。それが今、彼自身に発動しようとしていた。彼の価値観に、命を何が何でも重んじる境地などない。虚しい死をガキの頃から、嫌というほど目撃してきた。あれはまだ19、20歳の頃、恋人をギャングに殺されたことだってある。それ以来、彼は殺人を仕事にするようになったのだが、恋人の亡き骸、あの見るも哀れな肉の塊から、まだ生気の残る深紅の血液がどよどよ流れ出るあり様を、彼は皮肉にも再現し続けている。

 だから死に鈍感になったわけではない。いずれにせよ、彼は今の仕事に身をやつし、いつか必ず、同じ目になったはずだ。彼が殺してきた人々と同じ目に。「煙草くらい吸わしてくれよ」これも夕子の死の間際とよく似た言動。殺した者と殺された者が、似たような時間を共有している。サンチェスには初の経験だったが特に驚きもしない。長い、いや長く儚い人生、こんなことだってあるだろう、そう達観した。ブライアンも、彼の死の覚悟を悟ることができた。ブライアンも、人種としては彼と同じだった。彼は首を振った。今、この瞬間だけは、こいつとは違う人間であろうとした。そして、指先の動きを完全に己の意思で操り、引き鉄を引いた。空虚な音が部屋に響き、周りの仲間たちは狼狽し、命乞いをした。ブライアンは許さなかった。同罪。彼の意識はただそれだけであり、同情など微塵もありゃしない。1発、2発、3発、4発。確実に1人1発の効率の良さで命を奪い去り、ブライアンは満足げに銃口の煙を吹いた。そうして電話を一本。「後の処理は任せた。」

 それから3カ月。彼はまた仕事だった。女はいない。もうこの先、女を抱くことなどないのではないか、そんな予感と朦朧とした覚悟を抱え、彼は無慈悲に、無頓着にただただ仕事をこなしていった。あの日から、ブライアンは白い服しか着れなくなった。着なくなったのではなく、着れなくなったのだ。白いジャケットに白いワイシャツ、白のパンツに白いソックス、白の革靴。どう見ても目立つこの格好に、彼は執拗にこだわり、組織の上司から「やめろ」と忠告されても無視をして、白い殺人マシーンは世界を往来し続けた。そしてある日、彼がまた首尾よく依頼を済ませてから、夜の酒場で酒を共に黄昏ていると、眠くなり、ばたっとテーブルに突っ伏し、グラスを落として割ってしまった。すぐに気が付いた彼は、悪い悪い、と店主に告げ、必要以上の弁償代を渡したら店を後にした。

飲み足りない。ブライアンは別の店を探したが、探すのも疲れるので適当なディスカウントショップでしこたまアルコールを買い込み――アルコールなら何でもだった――宿泊先のホテルへ戻ると、早速ウィスキーから開け、ぐいぐい、ごくごく喉を焼かすようにアルコールを流し込んだ。ぷうっ、と吐いた息は、ひどく疲れたそれで、彼の余命を物語っていた。左の手の甲で濡れた口元を荒っぽく拭い、ホテルのテレビをつける。面白い番組などやってなく、いくつかチャンネルを回したら、飽きて両腕を頭の後ろに組んでふて寝する。「夕子……」もう幾夜となく彼女の名を呼び、そのまま眠りにつければよいのだが、彼の体液がそうさせてくれぬから、いつしか彼は自殺を考えるようになった。その夜はどうにか眠れたものの、朝起きて、昼になり、また夜がきて、そして朝になっても彼の欲求は1ミリ、1ミクロンたりとも変わらなかった。喪失が大きすぎた。母を亡くした若かりし頃を凌ぐ虚無が、彼の身体を制御しつつあった。彼の顔つきは次第にくすんでいった。彼女を失う前は血色よく、酒場やカジノに一人で行けば、まず間違いなく女性にモテた彼だったのに、そのオーラ―は遥か昔の神話のように、誰も信じない、話は聞くけど、時に笑ったりもしてみせるけど、誰も心に留めおかない与太話の類に成り下がった。はあ、と仕事に向かう車中の彼は、また性懲りもなく陰鬱な嘆きを吐いてしまう。そうして、また人を殺すのだ。

 

        

最近の殺し方に、ブライアンの上司は納得しなかった。ぬるい……。どこがどうぬるいかといえば、この間のターゲットは日本のヤクザの幹部だったのだが、日本刀で喉元を切り裂き、喉笛を掻き出し、その男の組に送り付ける、というのが依頼の内容であったのに、彼は首は切ったが、切断した頭部をそのまま送り付け、喉笛までは掻き出さなかったのだ。殺し屋として失格の行為である。殺しは、自分の思想やその時その時の心情を投影してはならず、ただ精密機械となって、言われた通りの方法と手順とスピードでこなさなければならない。それを破った、もしくは守れぬ者は、この世界から一刻も早く消えねばならない、それが掟だ。ブライアンの上司は、甘いキャンディーで脳の熱を冷まし、彼の今後について思いを巡らせた。失うのは惜しい男だ。本音だった。彼の仕事で一、二を争う殺しを知っている。あっという間に、コロンビア人の売人5人を殺傷し、一人だけ生かした相手から、組織の内情を暴き出すと、後は手際よく、組織の重鎮らを1人ずつ確実に、かつ迅速に処理していった。中でも2人目を殺った日の彼の手際は見事だった。その日、彼は朝から見張りに出て、相手の動向をつぶさに探り、ここぞというタイミング、殺しの対象がレストランで大便にふけった瞬間に、トイレのドアの上から脳天をぶち抜き、そのまま店内に戻り、食卓にいた残り4人を数秒で片したのだ。客らは騒然とし、恐ろしさで喚いていたが、誰一人、彼の顔を警察に証言できなかった。まさに神がかった恐怖の支配者であったのだ。そんな仕事を、彼はあれ以来知らない。だから惜しい、失いたくないのだが、永遠なものなどこの世にはなかったから、諦めもつく。彼は決めた。ブライアンを消そう。決断は難しくなかったのに、指令をいつ、誰に出すかではかなりの時間を食ってしまう。彼はまた、甘い甘いキャンディーと、今度はアイスクリームも舐めつつ、殺しの場所と方法について思案を重ね、ついにすべてを決めた。彼は自分のオフィスでサングラスを外し、外の景色を眺め、高層ビルが並ぶシティーの先の海原に、一部斑点模様のカモメが空高く舞うのをイメージし、最後の電話をした。ブライアンにだ。

そんな時、ブライアンは外でファストフード片手に、人生最後かもしれない散歩をぷらぷら楽しんでいる。電話には出られない。出る気もなかった。青さの弱い空が、ついに彼の終末を告げているようだ。彼はもしゃもしゃ、ハンバーガーとフランクフルトを貪り、胃袋を満足させたら、組織のビルへと入った。彼も決めていたのだ。死ぬ前に、ここの連中はいくらか掃除せねばならないと。どうしてか? 自分と同じような境遇がいるこのビルで、自分と同じ死に様を向かえないようにするため、先に殺しておいてやるのがせめてもの慈悲、仲間たちへの無償の友情なのだと、勝手に決めたのだ。だが、彼の思いは、願いはきっと届かない。

ビルは地上50階建て、その40階以上が組織のオフィスフロアである。彼はエレベーターで40階を目指した。1階のエントランスを行き交う人々の多くは普通のビジネスマンや、ビル低層部の商業施設で買い物する客たち。すれ違う彼らの中に、組織の者がいないかどうか注意し、一人きりになるタイミングを見計らい、エレベーターに乗るのも、彼の技術である。エレベーターに乗り込む前、カラフルな風船を持ち、母親に手を引かれる黒人の少年が印象深かった。太いボーダーのシャツに、ハーフパンツを履いた少年は実に楽しそうで、空気を明るくし、彼を取り巻く世界は幸せに満ちていただろう。ブライアンにだって、同じような記憶はあったはずだ。思い出せないだけで。

夕子との日々は、いくらでもブライアンの胸に生きている。2年足らずの付き合いではあったが、最初のキスから2カ月して虜となり、人生を羽ばたかす翼が生えた。確かまだ、回数が二桁にも達してないデートでのランチで、彼女は覚めるような赤のワンピースを着こなし、上機嫌だった。彼女は初めて、生い立ちを僅かに話した。母子家庭。父は早くに亡くなり、母一人が朝から晩まで働き詰めで彼女を育てたのだという。そんな立派な母を、彼女は好ましく思ってない風だった。自分から口にして失敗したと後悔したか、カフェが面する通りに視線を移し、続きを話そうとしない。いくら何でも不自然すぎるだんまりだった。これまでよく生きてこれたな、なんて具合のターゲットはさんざん目にしてきたブライアンも、夕子の心中は推し測れなかった。想像だけならたやすい。暴力を振るわれたとか、男や金にだらしなかったとか、まあそんな不幸ならよくある話だ。しかし彼女の場合は、どれにも当てはまり、どれにも当てはまらない複雑な構造に組み込まれてる雰囲気を放っていた。死の商人を20代からこなしているのだから、イマジネーションを超える壮絶な過去を背負ってたとしてもおかしくはないが、そんなミステリアスな色彩が強まれば強まるほど、どうしようもなく気にさせるのだ。

「結婚しよう」

 あらゆるプロセスを吹っ飛ばし、彼は告白した。知り得ない過去に太刀打ちするには、唐突な未来をぶちまけて心を手繰り寄せるしかなかった。短い時間で、精一杯考え抜いた結論ではある。いい加減な選択ではなかった。

「いいわよ。どちらかが死にそうになったら、式を挙げましょうか」

 冗談か本気か……。きっと本気だったはずだ。彼女は無機質な冗談は得意だったが、人間の生き死にが絡む有機質のジョークは、使いどころで節度を保っていたからだ。「ありがとう」ブライアンに日本人が乗り移り、丁寧にこうべを垂れた。彼は日本人と米国人の違いを考えるようにもなった。日本人は米を食う、米国人は肉を好む。日本人が魚を食えば、米国人だって魚を食す。野菜の持つ栄養素の大切さはどちらも承知のはず。つまり、朝昼晩で食べる物の好み、調理の仕方、一度に胃袋へ入れる量、満足する味の質には微妙な差異はあれども、大した違いじゃないっていうのが、彼の答えだった。腹に入っちまえば同類項だろって論理だ。そんなものより、まず注目すべきは、彼女の生業にも関わってくる戦争へのスタンスである。米国人は戦争好きか? 否、彼らは戦争のノウハウを忘れないために戦場を切り開いただけだ。

例えば米国で起きた同時多発テロからイラク戦争までの間、日本人は「Show the flag」との屈辱的な米国からの恫喝に対し、反発するどころか、慌てふためき、承知しました、ただいま参上いたします、と言わんばかりのとっちらかりぶりで、議論を放棄し戦闘行為に加担した。彼らの恫喝は、彼らが戦争好きだから出されたものではなく、戦地に割く人手と予算が欲しかった。そのために旗を持ち出し、正義への忠誠心や国際協調の自己犠牲を問う文言を無礼にもぶつけてきた。日本人は言い返せず、いわば口の上手さに負ける形で非戦闘地域なる戦場へと馳せ参じたのではないか。参戦の判断基準は戦争の好き嫌いでなく、米国の、または、国内・国際世論とかいう得体の知れぬ激情に流されたのが現実だ。戦争をするしないの判断基準が、好き嫌いの感情には寄っていないという点で、両国は似た者同士である。同盟が「同じ盟約で繋がった者」を意味するとしたら、両国の盟約とは何だろうか。安全保障か、経世済民か、世界平和か。どれも不正解だ。両国の盟約とは、戦勝国と敗戦国の主従関係。激しすぎた戦争をしでかしたが故に、戦勝国と敗戦国の主従関係が揺るがない神話の結末にまで成りおおせてしまった、思考の停止状態に等しい関係が両国の同盟といえる。ならば、この主従関係を互いに共有する限り、両国は、またもや似た者同士ではないかとの結論に至る。ブライアンはそう考えた。

鮮烈なセックスの後、汗ばむ夕子が彼女の戦争観を披露した瞬間がある。

「助けるためなら、何が何でも殺したい。ただ勝つだけが目的なら、相討ちだっていいわ」

 ブライアンは納得しかねた。

「ただ勝つだけが目的の戦争とは何だい。勝たねばならない理由があるんじゃないか」

 例えば、非民主的な政治体制が民衆を虐げているとか、テロ支援国家であるとか、大量破壊兵器を秘密裏に量産しているだとか、経済活動を隠れ蓑にした侵略行為が目立つなどと、彼は例を挙げてみせた。夕子は悠然と返した。

「どれも、危機感や同情を過剰にする理由にはなるわ。けど、自分が勝って生き残らなければならない理由にはならない。間違って世界を破壊してるのは、こっちかも知れないでしょ?」

「だとしても、人は生き残るために戦うものだろう」

「そうね。けど、そうでない私もいるの」

 彼女と夜を過ごすのは決まって彼女の家か、適当なホテルかのどちらかだった。ブライアンの自宅に泊まることは一度もなかった。もしかしたら、ブライアンは心の底で信用されてなかった可能性もある。もしくは気を許しすぎるのをためらったのか。いずれにせよ、彼女の戦争観、というより死生観は、言語的に理解はできたものの、完全に受け入れる準備までは当時の彼には整わなかった。しかし今なら……。エレベーターの彼は40階に上がった。

 上司はとっくに待ち構えている。あえて一人。電話が通じなくとも位置を知る術はごまんとあり、それは相手も承知だから、それなら電話で、これから殺すと親切に教えてやりたかった。かつての教官と指導員、死に際の情けだった。ブライアンは拒否したようだ。殺られる前に殺る。殺しの常識にのっとり、自ら乗り込んできたのだろう。ブライアンの上司は掌のクルミをごりごり鳴らし、可愛い部下の登場を待つのだ。

 上司はがっかりした。電子錠の白銀のドアが開き、現れたのは血みどろの彼だった。ここはまだ44階。最上階まで辿り着けないのは、火を見るより明らかなほど、彼の鍛え上げられた肉体はめためたに傷付き、こだわりの白装束も赤黒くなり台無しだ。すべてが彼の血ではなかったろうが、僅かでもない。見立てではせいぜい、永眠まで一歩半前。

「どうした、どうした。お前は本当に、あの自慢の部下か?」

 ブライアンの左足は重傷で、足首を外側に曲げ、ずりずり引きずっている。両目も血で塞がりそうだ。

「俺もとうとう、殺し屋失格になりました」

「何がそうさせた」

 上司は胸が張り裂け、臓物が飛び散りそうな思いだった。10年に一度の逸材であったはずの男が、見る影もない、まさに死に体で突っ立つ姿は、郷愁すら許さぬ非情さがあった。今いる地上44階のフロアは、社長に無理言って2人だけにしてもらっている。屋内に柱のない開放的な造りが特徴のこのフロアは、普段彼と直属の部下12人、アルバイト3人、派遣社員1人で業務を動かし、先月の売り上げはトップだった。組織は各フロアで1チームだった。多く殺せば報酬が増えるわけでもなく、コストとベネフィットの兼ね合いが重要になる。この上司は、そいつを見極めるのが得意だった。副社長になるのも、そう遠くはなかったろう。「何がそうさせた」同じ質問をしても、答えが返ってこない。上司は下唇を噛んだ。仕方なかろう、彼は正真正銘、もう駄目になった。引導を渡す。

「死んでもらう」

 この科白は失敗だった。これから殺そうとする相手に、死を予期させる言葉を掛けるのはご法度なのだ。なぜなら、人の死を操る殺し屋が、その死が訪れるまでの微妙な期限の微調整を、相手に委ねる仕儀になりかねないからだ。上司の男は拳銃片手に、頭をぐりぐり掻いた。俺も焼きが回った……。引導を渡されるべきは、こちらかもだ。その前に、やはり理由だけは聞かせてもらいたい。

「なぜだ、ブライアン」

 また同じ質問を、死を予告した後のタイミングで聞いてしまう。最低だが、どうしても確かめたく、殺しのルールを曲げた。最初で最後だったろう。自分が想像する理由に、彼の理由が追い付いてる、もしくは遥か彼方へすっとんでるのであったら、そっちの方が、この男は嬉しかった。

「女のために」

 ブライアンは零した。自分でも予想外の告白。国内の旅行先の景色に外国人旅行者らと一緒に感動するような、しみったれた旅情に傾くとは、堕ちたものだと我ながら呆れ果てた。ただ、夕子のために、彼女を思い、焦がれて生きた1年数カ月は彼の人生で、最も充実した活力を与えてくれた。ああ、彼女が亡くなるまで、世界はどれだけ光っていたか。世間の連中は知るはずもなかろう。人の価値、憧憬、憐憫は当人以外には伝わらず、だから伝えようと努力もするのだが、大抵徒労に終わるから、人はいつまでも生き辛さを克服できない。ブライアンの指が、かたかた揺れた。これ以上生き続けることへの禁断症状だ。

 しかし、神はブライアンを放っておかなかった。おお! まだ死ぬな! と高らかに叫んだのだ。ブライアンの中の死神が神となり、一時的に彼を操り、状況に横槍した。ブライアンと上司が格闘になった。ブライアンは相手の一瞬の隙を突く職人技に長けていた。瞬きした隙に、片足の脚力だけで間合いを詰めて銃を手から弾き、胸ぐらに飛びかかった。「ぐう!」「ふう!」辺りの机、椅子、パソコン、電卓、ボールペン、丸めた自社カレンダーの束、コピー用紙、アイボ、多機能端末などオフィス用品をぶちまけ、2人は転がった。ずっと静かなのはLEDの照明だけ。消費電力が小さく熱のない明りに照らされ、男たちは熱くなった。

 と、その頃。娘の死を知り、夕子の母は、艶のないけばけばの髪を垂らし、位牌にへたり込んだ。彼女は娘の正体を知らなかった。先ほどまで、さんざん警察にああだこうだ質問され、分かるはずもなく、はなはだ疲れた。余計な仕事を残して逝ったものだ。ろくな仕送りもせず、一人で優雅な生活を送っていたのだろう。実の娘とはいえ、死んでざまあみろとも思ってしまう。しかし、彼女は娘を愛していた。その愛は娘に伝わることはなかったが、伝える確かな方法があれば、彼女は金を出してでも買っただろう。腹が減った。彼女はよろよろっと立ち上がり、夕子とは似ても似つかない骨と皮が強調された脚で、冷たい台所に立った。トントントン。包丁の扱いは上手い。料理は得意だった。披露する男はあっさり死んでしまったが、料理は無心になれるから、手間もいとわず彼女は毎日、どんな短い時間でも台所にいる。昔、夕飯の支度中、スカートの裾を小さかった夕子がつまんで引っ張ったのを思い出す。あの時は何て言っていたか。「お母さん、テレビに来て」だったか。たぶん、好きなアニメの好きなキャラクターが登場したシーンを、一緒に観たかったのだろう。気持ちは理解できる。親子の親愛とは、他愛のない気軽な日常に潜んでいる。彼女は「はいはい」と言って、夕子に従った。たまらなく可愛らしい娘が、究極に可愛くなる瞬間。当時はこれでもう幸せだった。そうでなくなったのは、いつからか。働けど働けど生活は楽にならず、彼女は廃れてしまった。年の割にすっかり老け、新しい男を見つけることも能わず、生きながら終末にたたずんだのだ。どしゃ降りの雨の中、傘も差さず、帰り道を歩いた夜がある。いや、昼だったか。傘を差す力もなかった。かろうじて、家に帰りたいとの思いだけで、彼女は足をするように歩いた。ブライアンとも似た歩き方である。

 家に帰って、彼女は絶望した。娘の笑顔にもう応えられない。確信してしまったのだ。この日から、彼女は悪い母になり、醜い女になった。

 ブライアンと上司は、まだもみ合っている。弟子と師の最後のじゃれ合いのよう。

 勝ったのはブライアンだった。

 勝ってしまった。どうする……。彼は本気で悩んだ。組織を壊滅するほどの余力はもうなく、引き上げる考えもよぎった。追っ手は避けられないから、逃げても逃げなくても同じだ。もともと逃げる気もなく、ここで死ぬ気だったから、目的はなくなった。ああ、夕子。死ねば君に会えるのか……。頭を占めるのはファンタジーばかり。ブライアンは引き返した。あと一夜だけ、夕子を思って死のう。それだけを目的に、彼は、今日をまだ生きるのにこだわることにした。けれど、彼の逃亡の日々はそれから約1年も続くことになる。

 

        

夕子が死んだ国について、少し話そう。

大衆的には、サッカーが急成長した話題もさることながら、経済面、軍事面であの国は岐路に立っている。産油国の一角ではあるが、隣国の生産量には遠く及ばす、発言権の大きさは下から数えた方が早い。オイルマネー。そんな言葉はこの界隈では既に死語である。オイルから生じたマネーを様々な証券化商品や債券、金融資産に転換し、世界中のあらゆる類のマーケットで利益を稼ぐオイルマネーロンダリングこそトレンド。金は金を呼び、その力で軍事力に磨きをかける。なぜ軍事にこだわるかといえば、そうすることで米国、仏国、露国、中国など武器輸出国家のご機嫌を取るためである。石油の埋蔵量の多い強い国がさらに強くなる構図で、夕子が死んだ国は完全に負け組だった。そこで彼らは石油機構を離脱し、独自の価格設定と販売網でもって、オイルマネーロンダリングのパワーゲームに対抗しようとしていた。いずれにせよ、産油国でもある米国がこの構図でも抜きん出ている。

 軍事力を強めた国同士は精神的な恐怖と摩擦を強め、テロリストを媒介にした小競り合いを繰り広げた。事実上の戦争である。民間人でも戦いに参加し、敵国のテロリスや兵隊を殺せば報酬を貰えたが、武器は自前で調達しなければならない。オイルマネーロンダリングで成功する国はどこも物価が高く、富裕層ならともかく、庶民はそうそう手が出ない。そこで、比較的物価の安いかの国へ行き、武器を購入する流れができた。支払いは大抵ローンで、バックには銀行がついた。欧米各国と中国が支援する銀行である。この場合、ローンの支払い義務は書類上の形式だけで、実際はほとんど求められない。小競り合いをできるだけ長引かせ、産油国の軍事予算の維持・増進を図り、それによって生ずる本国軍事産業の莫大な利益から、十分過ぎるほど甘い蜜を吸えるというのが表向きの理屈だ。では裏の理由とは。中東のオイルマネーそのものを弱体化し、蜜月関係により私物化を進める、強制を伴わない帝国主義の実践が狙いだった。

 夕子は地球上の誰よりも早くその背景を察し、社に企画書を出し、かの国で、規模は小さいものの着実に武器売買で金を稼いだ。毒を食らわば皿まで。政治背景が複雑であればあるほど、彼女のモットーは活き活きと輝く。かの国に近付いた動機こそ拝金主義ではあったが、仕事を続けさせた理由は風土にもあった。初めて、かの土地に立った時、ペルシャ湾から吹く風に砂漠の風が混じった空気が案外不快でなく、時代の坩堝にはまりつつある我が人生を象徴してくれる国に来た、と誇らしく思ったものだ。「毎度あり」取引の終わり、必ず彼女は日本語で言った。自分がどうあがいても日本人である自覚だけは失っていなかった。日本人でありつつ、そうでない歩み方を暗中模索し、言い得て妙の境地に辿り着くのが彼女の目的だった。金など、本音では関心ないのだ。男と遊べるだけの量があればよかった。

 彼女が街に出て感じたのは、道行く人々の生命力の強さというか、しぶとさだった。苦難を苦難として感じつつ、乗り越えて生きてゆける望みを絶やさない、その気質の正体を彼女は知りたかった。彼女なりに考えたのが、神の存在。超人的な価値を胸に秘めることが、己の困難を軽くし、歩みにむやみやたらと陰りを与えない、のではないか……。神を信じない、信じようとしたり、存在を夢想したりすることさえ、あまり文明的でないとされた彼女の国の教育にあって、これは今さら求めても手の届かない予感というか、確信めいた異物が手の内に握られている。この国の女たちのような笑顔を、私もしてみたかった。彼女の本音であり、嫉妬であり、憧れであった。颯爽と歩き、胸を張ることで彼女は対抗しようとした。それを外国女の『売り』にしてみたのだ。企みの成果は……まあまあといったところか。とどのつまり、もっと朗らかに、もっと陽気に過ごしたい。彼女がイメージする目的の行き着く先とは、そんな程度であったのだ。

 ブライアンに話を戻そう。彼はまだ生きていた。生きて、夕子について考え、彼女の生と死に意味を与えようとしていた。彼はウィスキー片手に、ポメラを使って彼女の人生を書き出そうとした。しかし、すぐに諦める。彼はもっと適当な方法を見つけた。スピーチだ。演説の形式で彼女の素晴らしさを大衆に伝えよう。この時、彼はもう狂っていた。銃弾の欠片が脳に食い込んでいたのもあったが、彼がおかしくなった原因はむしろ、彼の気質にあった。彼は夕子と会おうが会うまいが、やがて狂うべくして狂う男だった。彼の境遇は生来の気質を完璧に仕上げた。彼が愛した母も一役買ったのは皮肉な事実だ。彼の母は厳しい反面、溺愛もしたから、彼の人格は分裂した。少年の頃はよき分裂症状であったものが、成人し危険の種へと変わっていった。多くの場合、母親が原因の分裂症状を緩和するには、父親の存在が大きな鍵となる。けれど、ブライアンの父は、父と呼ぶにはあまりに普通すぎた。立派な男ではあったけれど、精神と哲学があまりに平凡すぎたため、時代の変化を見据えた利口な科白を、息子にプレゼントすることができなかったのだ。不幸である。父と子の不幸は、大抵このパターンが当てはまる。父と子は、理解し合うにはあまりに遠く、遠ざけるにはあまりに重いリレーションなのだ。それが魅力的な人格の素となるケースもあるから、一概に否定的な意味だけ与えるのは適切ではない。万全を期して、対立する両方の意味を知っておく必要がある事柄は様々ある。父と子の関係は、その広大な海原を航海し続けなければならない典型の一つである。ブライアンは航海のただ中で、凪に遭遇し、もう身動き取れなかった。助け船はない。彼一人の海に、お助けマンなど来た日には、彼は希望すら絶望に感じ、潔く入水したろう。そんな彼だから、支えてくれる女の存在は必要不可欠だった。ブライアンは街に出た。わざわざ彼女の死んだ国まで来て、空港の手続きを進める間も、格好いい文句を頭に思い浮かべ、難しい言い回しはメモに取り、空港を出たら会場を探した。きょろきょろ、きょろきょろ。彼は血眼になり、会場に適当な建物や広場なりを当てもなく見つけだそうとした。夜中になり、ようやく1カ所候補を選ぶ。結局、街の中心部にある公園の一角がそのスペースに適当だと思った。最初にインスピレーションを覚えた場所だ。けれど、彼は完全に納得せず、次の候補地を朝まで探した。そして見つける。既に二晩が経ち、絶食していた彼は歩き疲れて頬がやつれ、脚もふらふらし、情けなくも杖を突き、その場所に寝そべった。息を切らしながら、満足気に笑顔を天にくれてやった。準備は整った。演説は明日敢行する。その夜、彼は久しぶりに肉を頬張った。がつがつ食いまくり、翌日のための体力を一晩で取り戻そうとした。彼は寝た。あの思い出のホテルでいびきをかき、腹を出し、パンツ一丁でぐっすり眠る姿は無防備そのもので、今夜殺されていても不思議はなかったが、彼は生き残る。彼は神の存在を信じ始めた。自分を殺さず、生かし続けるのは偶然だろうか。いや、偶然ならとっくに自分は偶然殺されているはず。彼は自分の余生が特別な力で守られてると夢想する。楽しかった。ああ、楽しい、実に楽しいじゃないか!

 彼は演壇に立つ。午後1時。聴衆はゼロ。彼は大きく息を吸い、公園の連中に目配せし、これから見たことないショーが始まるよ、とテレパシーを送る。最初の舞台は公園だった。パーク。いい響きじゃないか、英語にしては。Parkには『囲い地保有税』の意味がある。聴衆から税金を取ったりはしないが、聞けば金を払いたくなることうけあいだ。この瞬間の彼はパーフェクトだった。雨が降り出したのは余計だった。雨も声援に見立ててやろうと、頭を操作する。時は来た。

「聞いてくれ、者ども!」

 出だしはかなり乱暴だ。「私の名はブライアン。つまらぬ米国人であり、ありきたりな人殺しである。私は伝えにきた。夕子だ。夕子とは私の恋人であり、親友であり、やがては結婚をと真剣に思っていた女性だ。日本人だ。彼女を通して、私は日本人の精神性に触れ、私は生まれ変わった。彼らは米国と戦争し無残な負け方をした。されど、あの国の女性であった夕子は、どの日本人とも異なる性格を育み、唯一無二の女となったのだ。聞いてくれ、何が唯一無二か。彼女は死を売り歩く商人であった……」演説は延々と継続した。

 この少し前、ブライアン抹殺のための殺し屋数人がカタールに舞い降りた。煩悩即菩提。彼らは現世での自らの使命を把握している。価値のない人間を1人でも多く、できるだけ早く、世界から消し去るのだ。彼らは極悪人ではない。愛妻家もいれば、休日にボランティアに精を出す者もいるし、いずれは政治家に、なんて理想を語る者までいた。殺すことと生きることは同義だった。現金でバイクを買い、3人はツーリングを兼ねたブライアン探しを敢行する。そして拍子抜けする。まだツーリングもろくに楽しめてないのに、ブライアンを見つけてしまった。公園の一角で、一人突っ立ち、ぺらぺらくっちゃべっている。3人はバイクを止め、様子をうかがった。見た目には意味不明。誰からも聞く耳を持たれず、子供らに物真似されるブライアン。彼らはしばらく眺めた。ハンバーガーを食べたくなったが、あいにく売ってなく、近場の出店にあった鶏の煮込みや、焼いた鶏ももなどにがっついた。

 ブライアンの演説は夜まで続いた。誰からも気にされることなく、汗だくになり、本心を真剣に、真心を込めて語り倒す姿は、見る人によっては感動的でもある。そうした聴衆が1人もいなかったのは残念だった。そろそろいいか。ブライアンを狙う男たちが、じわっと近寄った。ブライアンは気付かない。孤独のまま、空に言霊を飛ばしている。飛ばす言霊がなくなり、唾だけになった。ボン、ボン。サイレンサーを付けた銃の柔らかい銃声がブライアンにめり込んだ。ブライアンは力なく倒れ、3人は去る。「1人で十分だったな」「分け前は守れよ」などと会話し、今夜はこれから祝勝会を兼ね、女を買う。ブライアンは息を切らしつつ、笑顔だった。言いたいことは言えたし、言えることはなくなったし、満足である。彼にとって言論は絶対の価値ではなく、時々の手段に過ぎない。言論を銃弾で封殺されても、まったくよかった。彼自身そうしてきたのもある。しかし、言い分だけは聞いてやり、その上で殺すことの方が多かったはずだ。夕子を殺した相手は別だが。とにもかくにも、言い分を聞いてから殺すなどルール―違反もはなはだしい。自分は殺し屋に向いてなかった、と死に際で痛感し、腹が痛くなる。笑い転げた。残念ながら、夜空に星は浮かんでなく、何となく雲の形が見えるだけ。彼の命は、あと数十秒で消える。消える前に、やっておくことはないか。真剣に考えた。たった一つだけ、あるといえばある。ということは、ないといえばないのだが、ここは、あるということにしよう。ブライアンは思い浮かべた。夕子と初めて、ディズニーへ行った時だ。ディズニーだなんて、恥ずかしい思い出だが、彼女といられればどこでもよかったのだ。夕子も別に遊園地好きではなかったが、なら逆に行ってみるか、といったノリでミッキーマウスらと戯れることとなる。

「人を殺すには最適じゃない?」

 夕子はマックシェイク片手に言った。

「駄目だ。人が多いと殺しがすぐばれる。逃げる時間が限られる」

 ブライアンはフランクフルトをかじる。2人はビッグサンダーマウンテンの列に並んだ。ひどい行列。順番が回るまでに死んでしまう。夕子は早くも疲れを見せた。「ねえ」彼女はブライアンのシャツをつまんで引っ張った。セックスの催促。けれどブライアンは「あと少し」と言って、彼女をなだめる。楽しいといえば楽しい時間だった。順番待ちでふてくされる彼女の横顔は、それはそれで美しかったし、たまには大衆にまみれ、気分を俗物と化すのも悪くない。ブライアンは平凡を望んでいた、この時から。平凡の終わりは早い。実際には平凡の期間は一生だが、彼には一瞬である。時よ止まれ。何度も彼は念じ、虚しくなった。

 空は快晴。こんなに青い空、彼は見たことない。薄い筋状の雲が無数に交差し、太陽の光を優しく受け止め、地上に幸せを注いでいる。地中からは命の緑が芽吹き、大地の暖かさを逞しくする。完璧だ。完璧な一日だった。ブライアンと夕子の気持ちが、これまで以上に一致する。ブライアンはディズニーに感謝し、ガキの頃からさんざん馬鹿にしてきたアニメのキャラクターたちにも、心で謝罪した。「愛してる」「私も」その夜が最高に盛り上がったのはいうまでもない。

 今、ブライアンは死の淵にいる。彼女についての思索は十分だっただろうか。確認はできない、生きてる限りは。ようやく確かめられる……。ブライアンの胸に、ほっとした心地が充満した。死んだらまた、あの美しい姿に会えるだろうか、いや、きっとそうなる。ニーチェ永遠回帰などとは言わせぬ。人は永遠の回帰などしない、ただ死んでも進み続けるだけだ。ブライアンは絶命した。瞼の裏に、彼女の微笑みを感じて。死後、彼女と再会できたかどうかは、当然だが誰も知らない。

 そして……。

 ブライアンの上司は、病室で包帯をぐるぐる巻きにされ、天井とにらめっこしていた。彼もまだ死んではいなかった。彼の名はスチュアート。遅ればせながらの自己紹介だが、ブライアンが死んで、しばらく物語の軸は彼に移るので、便宜上名前を出すことにする。スチュアートも入院から1年以上になるが、病状は思わしくない。年もあり、回復が遅いのもあった。怪我の程度は命に関わるものではなかったが、彼の気力が回復を遅らせていた。妻と娘も、入院したての時期はまめに見舞いに来てくれていたが、ここのところはさっぱり。看護師の尻を眺めるのが、仕方なしの暇潰しだ。彼は決して尻好きではない。暇になると、男は適当な刺激を性的刺激で代用しようとする。ただそれだけのことだ。「うーん」スチュアートは仕事について考えた。もう、かなりのブランクである。殺しは1日休むと感覚を取り戻すのに3日は要するから、1年は気が遠くなる長さ。恐らく、復帰は難しかろう。諦めが早いのも、この職業に携わる人間の特徴だ。生に期待しない。スチュアートもまた、微妙な違いこそあれ、ブライアンに似始めていた。

 3カ月前、会社の幹部が病室に来て、「よく養生しろ」と気遣ってくれたが、最後通告だろう。すべて忘れ、ただの人に戻れ、という意味だ。正式な解雇は退院まで待ってくれそうではある。その間に、次の商売を決めなければ。スチュアートは憂鬱になった。生まれてから、色々な仕事で禄を食んできた。肌に合ったのは今の仕事だけで、次の仕事など想像もつかない。また看護師の尻を観察した。肉付きは良いが、少し大きすぎる。専門家の調子で、彼は得意げにした。馬鹿な暇潰しだ。自己嫌悪が強まるだけの日々に、いい加減うんざりしてくる。ブライアンめ、なぜとどめを刺さなかった。彼への恨みと憐れみが同居し、自分の心のキャパシティーが占拠され、自分が自分でなくなる。なぜブライアンは……。察しは付いていた。あの女。夕子とかいう女が、彼を堕落させた。ブライアンは気付いていなかったが、あの女のことは隅から隅まで調査済みで、スチュアートにも逐一報告があった。彼女が提携企業の従業員だったからというのもある。ディズニーでデートしたことや、夜の営みの長さまで承知しているのだ。会社として社員の女性関係を把握するのは、仕事の性質上必要不可欠な下衆な行為ではあった。スチュアートも同じ目に遭っている。娘の性行為の相手や日時まで知らされるのだから、並大抵の精神力ではこの商売は務まらない。

 ところで、夕子とかいう女には不可思議な面がいくつかあった。まず生い立ち。恵まれた境遇でないのはよくあること。加えて彼女の場合、生き様も特殊に思われた。不幸な女とは、えてして、壮絶ではあるが、ありきたりな人生を送って死ぬものだ。例えば、両親に虐待された経験を持つ者は、若くして風俗に身を堕とし、下らない男の子供を妊娠して、不幸の連鎖を加速させる。また別の者は逞しく不幸を断ち切ろうとするのだが、逞しさゆえに融通が利かなくなり、平穏な家庭生活とは離れた、孤独な生涯に終始してしまう。振れ幅が極端なのだ。親に義務があるとすれば、できるだけ人生の振れ幅が大きくならないよう、極めて常識的な育て方を徹底することである。常識とは何か。自分にできなかった人生を我が子に強要しないことである。夢を語る時は、極めて慎重な物言いでなければならない。絶望と希望を拮抗させ、単純な結論をむやみひけらかしてはならない。難しいが、スチュアートは心掛けてきた。自身の経験からだ。夕子の人生は、スチューアートの類型に当てはまらない道程を感じさせた。母と娘の確執。これまたよくある不幸の類型にあって、彼女の生き様は輝きを放っていた。死の商人、この生業に従事する以前から、彼女の才覚は異彩であったと思える。彼女がジュニアハイスクールの時代、既に男を知っていた同級生の女友達を彼女は心から軽蔑した。こんなことまで知ってるのか、と疑問もあるだろうが、こんなことまで知るのが彼らだ。どう知ったかはトップシークレットである。少女時代の彼女は、異性関係に対して非情に慎重だったといっていい。セックスというワードを発することすら、嫌悪を覚える性質だった。ある日の体育の授業、ブルマーよりハーフパンツが一般的になり出した時期、彼女は自身の身体性で一つの悟りを持った。脚が速い。それだけは確かな事実であった。どういうことかというと、いつ、いかなる状況でも、一定以上のスピードを確実に出せ、それが走りの終盤まで持続するというものだった。人生にも通ずる働き。彼女は己の人生の行末にまで思いを馳せ、勇気と希望を確固たる道理にまで高め、朗らかに笑い、バレーボールに精を出した。楽しかった。実に楽しい少女時代であった。帰宅すると、幸せは一変する。哀れで無残な母親の残骸と共に暮らす空間は、彼女に憂鬱の種を植え付け、根を張らせた。

「夕子、あんたどこ行ってたの?」

「学校」

「そんな暇があるなら働きな。この穀潰し」

 夕子は何も言い返さない。殺してやろうとも思わなかった。ただ、哀れ……。純粋にそれくらいの感情しか出てこなかった。世界を見れば、また米国初の戦争が起き、きな臭さが漂う情勢にあって、この国は呑気である。世界を俯瞰した視点で己の生き様を捉えられない輩の不甲斐なさに、夕子はうんざりしていた。母親もその1人にすぎない。衣食住の世話以外ではまったく役立たずの母。その衣食住すら滞り始めたなら、もはや一緒に暮らす意味も必要もなかろう。夕子は中学生にして決心していた。血縁を絶つ。

 病室のスチュアートは体の自由を少しずつ取り戻し、一人で病院の敷地を散歩してみることにした。芝生の隅に西洋タンポポの花がいくつか咲いている。彼はタンポポを一つ取り、茎をくるくる指で回した。奇麗な黄色の花弁が回転でぶれて、鮮やかな黄色の存在感だけが際立つ。雨が降ってきた。予報にはない天気雨。彼はベンチの庇で雨宿りし、うなだれた。タンポポはもう捨てている。これがスチュアートの人生の末路である。並の人間より壮絶な生き方であったのは間違いなかろう。終わってみれば、どうってことない。普通の終わり方の一種である。この頃、米国では中国、ロシアとの摩擦が強まり、世界は多極化中の多極化へと進みつつある。日本だけが旧態依然の世界観を逞しくし、無能な保守派が対米従属路線のルートから外れるのを恐れ、ひたすらに過去の逸話を繰り広げた。リベラルはリベラルで思考が幼稚だから、世界中の国々と仲良く暮らせると本気で信じ、自国を滅亡へと誘う。バランスの取れた言論人は、目に見える範囲では皆無。スチュアートやブライアンや夕子の方がよほど、現代での構え方を知っていた。実戦で磨かれた感性。こうした強者が、マスコミに知られることなく世界に潜んでいる。というのもまた妄想だ。スチュアートもブライアンも夕子も、一廉の人物ではなかった。煩悩にまみれ、悟りに達することなく、消えていく、消えていった存在なのだ。たまらなく共感を覚える存在でもあるから、ぞんざいには扱えない。

 スチュアートは隠し持っていた酒を飲んだ。効く。約1年ぶりのアルコールは劇薬に等しい。それだけ彼の神経が病んでいたために、効き目が倍加したとも予想される。頬が赤くなったスチュアートはプラ製の青いベンチの背もたれに寄り掛かり、全身の力を抜いた。このまま死んでいくように。願いが叶うのに時間は要らなかった。1カ月後、彼の容体が急変する。瞳孔が開き、呼吸も困難になった。医者の連絡を受け、駆け付けてきた家族の背後にブライアンの姿を見た。その隣に女がいる。これが夕子か……。顔はぼやっとしてよく識別できなかったが、なるほど、いい女のようではある。すべては幻覚。彼の潜在意識が死に際に、ぞぞっと表舞台に表出し、脳を支配して眼球に画像を刻み込んだ。2人とも、笑っているように見えた。スチュアートはふっと笑う。それを見て、家族は「お父さんが笑ってる」と単純に喜ぶ。誰も彼の深層心理など知りはしない。家族でさえ、そう、家族だからといって、真実をすべて明かされてるとは限らない。

 彼が身罷ったのはさらに2週間後だった。なかなか立派な死だったと言う人はいる。そう簡単に吐く人ほど彼のことをよく知らない。よく知っている会社の人間たちはフューネラルで沈黙を保った。これで、夕子について語ったり、思ったりできる人間はいなくなった。……いや、1人いる。母親だ。無駄とは思うが彼女のそばまで空間をワープしようか。どうせ暇だ、そうしてみよう。

 ところで、夕子がなぜ貿易商、死の商人に身をやつしたかというと、事情は彼女だけが秘めていた。それらしい理由をブライアンに漏らしたことはある。彼はもう死んだので確かめようがないが、もしまだ生きていて質問したら、こう答えただろう。「すべては独りよがりの復讐だった」と。

 さて、夕子の母親の名は、早紀江といった。今は酒の飲み過ぎで、居間のテーブルに突っ伏して寝ている。夢は見ていない。もう何年も見ていないのだ。都心郊外に殺風景でどんよりした住まいを借り、一人で住んでいる。カーテンは地味な茶系で下の端が破け、生地の裏にはカビも生息中だ。半年前に洗ったのに、また生えた。今朝は近くのスーパーで買い物し、食料もしこたま仕入れたので酒を飲んで腹が減っても困ることはなかった。食べる前に睡魔に襲われたが。夜中に目が覚めた。腹が空いたので何か作ることにする。どんなに遅い時間でも、彼女は必ず料理をした。部屋といえば居間と寝室しかない粗末な住まいにあって、キッチンはどこよりも奇麗に片付いていた。これから作るのは毒だ。痛風持ちの彼女は、雲丹に卵黄を和えた小鉢をこしらえ、菜箸の先をぺろりと舐めた。動物性のねっとりした触感に潮の香りがアクセントとなり、口の中の筋肉を縦横無尽に刺激する。満足気な顔のまま、次に丼ものを作った。牛肉のステーキ丼。小鉢との組み合わせは微妙だが、彼女は肉好きで、香ばしい煙に鼻をひくひくさせ、狙い通りの力強い風味にうっとりした。迎え酒の大吟醸も用意して、万事整った。本日二度目の酒宴が始まる。本日といっても、時計の針は夜の12時を回るところだった。飯を食い、酒を飲みながら考えるのは娘について、というのは何も不思議ではない。彼女も生活のだらしなさを除けば、ごく普通の女親。先に逝った子供の人生に意味を与えようと、酔った頭でも機智縦横を目指すのは自然である。thankの原義はto think。つまり、thank  youとは、単に「ありがとう(あなたの存在は、私にとって有り難し)」という感謝の意にとどまらず、「あなたについて、私は考える」との自己への誓いも込められた言葉なのだ。だから早紀江は夕子にthanksの一言を贈った。酔っ払いでも、それくらいの作法はわきまえているのだ。

 親思いの娘でなかったとは思っている。しかし、理由も分かる。分かりすぎている。世間の波に乗れなかった親を持つ身とは、時に誇らしく、時に怨めしく、時に夢遊病者のように時代との隔絶感を味わったりもする。早紀江は2合目に入った。どこでつまずいたのか、もしやり直せるならやり直す気力があるのか……。酔いが深まると、結論の決まった問いがしめしめと忍び寄り、彼女を苦しめた。娘は悪の商人だった。確たる伝統を持たない、知らなかったが故に命を奪う商売にも身を預けた。それが娘に対する彼女の理解である。いささか単純すぎる。守るものがない、という虚無感はえてして他者への攻撃性や介入を強くし、その衝突から生を実感するとの救い難い性を成長させる。自身が虚無であるがために、他者への深い考察がなおざりになり、過激な行動への抑制が効かなくなる。娘は被害者であった。価値の薄い時代で親から十分な保護もなく、野に放たれ、生命力ばかり逞しくし、生と死の距離感があまりに近くなりすぎた。死なないために生きる、生きているから死ぬ。生を意識しながら死を思い、死を考えたら生にしがみつく。振れ幅の大きな葛藤が日常茶飯事となり、それが精神を鍛えもしたが、脆さを恐れる気質を胸の奥深くに潜ませもした。彼女がいい男とのセックスにこだわったのは、ある種の逃避でもある。高揚感に没頭することでしか、弱さを封印できなかったのだ。早紀江には夕子の心情がよく響いた。目の前にいなくとも、自分の経験と思考を照らし合わせ、実存に近付けはした。娘の実存を正確に言い当てるのは不可能ではあったが、近付いている感覚は得られた。これが人と人との理解の限界である。例外はない。これは虚無とは違う。限界に跳ね返されたとて、戻るのはスタート地点ではなく、少しは前進した地点であり、そうであれば人は、歩みは遅くても景色をちょろっと変えるだけの前進はできる。

 そろそろ、夕子にまつわる物語も終わりにしよう。その前に、彼女が生前、特に思い出深く残していたエピソードを紹介せねばなるまい。 

 カタールでの仕事の前、彼女は韓国にいた。北朝鮮に武器を売るためである。ちっぽけな銃火器だったが、相場の2割増し程度で売れるので、トッポギをかじりながら商売に励んだ。ブライアンと出会ったのもこの時だ。危ない場面を助けてもらった、などとメロドラマチックな出会いではなく、逆ナンだ。ブライアンは人を殺した直後だった。殺したのは日本人。表向きは企業経営者で、実は本国のスパイだったが、用済みとなったので日本政府から始末の依頼が来た。用済みになったのは、もはや韓国政府が南朝鮮に成り下がり、それを見抜けなかったスパイが無能だったから。まあ、リストラと制裁のハイブリッドのような措置だ。ブライアンは首尾よく仕事をこなした。その血生臭さを夕子がかぎつけ、彼に惹かれたのだ。ブライアンは自分から素性を明かしたりしなかったけれど、彼女には何となく察しがついた。ベッドインして確信に変わる。その夜、彼女は3セット目をせがみつつ、つぶやいた。

「人類の発展は、貿易という発明があったからこそ。私は自分の起源に迫るため、貿易商になったの」

ブラアインは適当に返事して、3セット目に向け気を奮い立たせるので精一杯だった。今思えば、もっと会話を深めておけばよかった。そうすれば、彼女も彼の人生もまた少し変化があったかもしれない。人は死んでから後悔する生き物。

 これで物語も完結することにする。早紀江の死が、まだもう少し先だったことだけは付け加えておこう。彼女が残した(誰も聞かなかった)最後の言葉。

「仮に生まれ変わることがあれば、今度は男に生まれ、またあの子を娘に持つわ。厳しく育て、道に外れぬ人間にするつもりです」

 

〈終〉