自衛とは、単に生存を保持するための計画や行動ではない。
目に見える命や財産だけでなく、その国が積み上げた歴史や良習、言論などの保持なくして自衛を成し遂げたとはいえない。
本題を先にいうと、人とは常に自衛的な存在であり、守ることで生きている。
身の回りの生活を思い浮かべれば、日々どれだけ守りに腐心しているか、実感が浮かび上がるだろう。
守るのは家族や資産にとどまらず、ビジネス上のキャリアや趣味の収集品、祖父母のお墓、過去の思い出など、さまざまなはずであり、それなら、国にも同じことがいえそうだ。
一般的な平和論者は、自衛の意味を命の保守に限定するから明快でいられる。
武器は命を脅かすものだから武装には反対。
それでいて、もし攻撃されたら、との問いには沈黙し、悪いのは武装する側だと決めつけ被害者面するのがパターン化している。
信念が正しいと信じている者に態度を改める理由はない。
しかし、「守り方」は守りたいものに応じて変わり得るのを忘れては駄目だ。
武力による侵略には武力でしか対応しようがなく、同じように経済に対しては経済、文化に対しては文化の対抗策を講じる必要がある。
もちろん、武力も経済も文化も、裏で密接に結び付いている可能性があるから、完全に仕切りを設けるのは難しいし、仕切りにこだわるとしたら愚かであるが、ここで言いたいのは「守る」という行為の複雑さについてである。
これは私の仮説(自分には真説に近い)だが、一般的な平和論者が「命を守る」と連呼したとして、本当に守りたいのは、実は命ではない。
彼らが守りたいのは平和に関わる思想や理想であり、彼らにとって、実体としての命の重さはそれらより実は少し劣る。
先に注意しておくが、時と場合で命より大切な思想や理想があるだろうとの考えには私も同意する。
共感できないのは彼らが本心を伏せている点である。
あるいは本心に向き合わず、勢いに任せ言論を展開しているのかもしれない。
命を守ると言い募りながら武力の有用性を否定するのは、腹の底では命を軽視している証拠とも思えてしまう。
それが違うというなら、彼らは恐らく命の「格」を無自覚に選別しようとしている。
そう考えれば諸々理解もできる。
単に命を守りたいのではなく、「守るに値する命を守りたいのだ」との主張が隠れているのであれば、まさにその通りと思うからだ。
一般的な平和論者たちが猛烈に武力を拒否するのは、武力によって守られる命に価値はない、価値が弱い、と考えているからだとすれば納得もしよう。
この可能性はもっと強調されるべきだと思う。
武力で保護されるくらいなら死んだほうがよいとの価値観が潜んでいるために、武力を否定している可能性についてである。
ちょっと聞いただけではすべての命を大切に扱っているようにみえる言説の真の姿は別にあり、その姿はこれまであまり表沙汰にならなかった。
もしこの可能性を指摘されたら、彼らはそんなことはないと否定し、裏付けも困難だったろう。
その困難さが彼らのかっこうの逃げ道となり、今日まで道は続いている。
このことは、武力で国を守れと豪語する衆論のほうが単純一途であることを示唆する。こちらには裏表がない。
心から国を守りたいと願うから武力の必要性を説くのだ。
一方、かの平和論者は命を超えた価値のセールスを知ってか知らずか強いている。
繰り返すが、私は命を超えた価値の肯定には共感する。
気に入らないのはやり方、振る舞いだ。
かの平和論者らの行為が意識的でない恐れもある。だからこそ問題の根は深い。