バドミントン、卓球、テニス、野球etc。
目が悪いせいか(苦しい言い訳)、小さい球(羽)を追うスポーツは苦手。
学生の頃、上に挙げたスポーツでテニス以外は体育の授業で一通りやったけど、上達する予感は、ゼロ。卓球じゃあ同級生にコテンパンにやられ、愉悦の薄ら笑いを甘んじて受け入れるしかなかった。
当時の自分は専らサッカー派。
けれど今では、スポーツはまったくやらない。
プレーはしないが、たまに観るのがプロ野球、そしてバドミントン。
バド選手の中では、なぜかいつも奥原希望選手が気になってる。
この記事のタイトル通り、「色気」を感じるのがその理由かもしれない。
新型コロナの影響でyoutubeチャンネルを開設する有名人はホントに増えた。奥原選手もその一人。トレーニング風景や、あの有名サッカー選手とのリモート対談の動画などをアップし、人気は上々なようだ。
タレントやアスリートがユーチューバ―になって悪いことはない。好きなだけやればいいと思っている。
そうすることで、TVではいまいち伝わらなかった人格的幅の広さを広めるのに成功する人だっているだろう。
それはそれで、既存ファンとしては嬉しい限りなのだ。
さて、先ほど触れた奥原選手の「色気」。
色気といっても、ここで意味する色気とは、性的なセクシーさとは違う。
彼女の声・言葉遣い・話し方・表情・振る舞いなどから伝わってくる人間的魅力がスルスルと体に馴染み、注目せずにはいられない気がするのです。
他の選手と比べても異質な雰囲気を持つように感じる。
その正体は何だろう。
加入しているケーブルテレビのチャンネルの一つ、「JSPORTS」の試合中継。世界ランクはトップクラスでも、実力的に群を抜いている訳ではなく、勝ったり、負けたり。
勝てばこっちも嬉しいし、負けそうな試合では途中で観るのをやめたこともありました。しばらくしてインタビューの頃合いかなと思ったら再びチャンネルを合わせる、なんてこともあったような。
求道者としての姿勢に惹かれている? いや、それなら他の選手も同じはず。
奥原選手の場合、バドミントンの求道者でありながら、ふいに意識をずらしてユーモアを発揮できるところに共感を覚える、のかも。
今の世の中、特にこの「JAPの国」では、名の知れたアスリートが自分の文学的感性や哲学的思想を表現する機会はほとんどない。というか、許されない。
世論の炎上やスポンサーの機嫌を恐れず、そんなことが自由自在にできる、許されるのはごくごく一部。他の大多数は、バラエティー番組でひょうきんな言動をちょこっと見せるのが精一杯です。
奥原選手も、今はまだ大多数の一部かもしれない。けれど、やがてはみ出て傑物の一人となるような予感、いや期待があるので、気にもなるのだろうか。
リオデジャネイロ五輪で銅メダル。そこから4年。
次の五輪がホントに開かれるのかどうかはよく分かりませんが、彼女が選手として、人として、成長しているのは間違いない。
今ではリオ五輪金メダリストのタカマツペアより、思想の立ち位置的には上とみた。
問題は、その成長が競技の勝利に繋がる者もいれば、そうならずに終わる者もいるということ。
蓋を開けてみなければ分からない・・・。
そのプレッシャーたるや、いかなるものか。
勝負の時まで選手らにできるのは、肉体のピークが本番に来るよう、神経質に逆算してトレーニングを積むこと。
だから、アスリートの誰かが「五輪開催の延期は悪夢」と言ったとしても、決して言い過ぎではなかったと思う。
競技を観る側には、その辺の心情を察する義務がある。
「五輪万歳」とさんざんはしゃいでおきながら、コロナ禍であっさり掌を返した連中は、なおさら高度な義務を負ってしかるべきだ。
一般人がまずすべきアスリートファーストの思考とは、こういうことではないか。
バドミントンに関連し、奥原選手以外で印象に残っているものが、もう一つ。
「JSPORTSバドミントンオリンピックレース」公式テーマソング
『Survivor(サバイバー)』
こいつがかっこいい。
「Noe」というシンガーソングライターが歌う曲で、試合終了後、ハイライトシーンと同時に流れると、それこそ、身震いの第2波、3波がやってきて、視聴の締めは完璧。
名残惜しくて、また試合が観たくなるくらいだ。
マジなアスリートにはかっこいい音楽がよく似合う。
音楽を感じさせる生き方。
自分にはできそうもないけど、あり得る一つの「形」として脳内にメモってはいる。
「五輪万歳」とさんざんはしゃいでおきながら、コロナ禍であっさり掌を返した連中には、せめて僕の爪の垢を煎じて飲ませてあげたい。
それで少しは溜飲を下げられそうだが、そんな日は来るはずもなく・・・。
このまま五輪が無事開催されても、JAPが気色悪くて観る気にならないかも。
せめて奥原選手の試合はしっかり観よう。