私が指摘する意味での保守派の拡大は、相当前から絶望的であろう。
チェーホフ風にいえば、ここまでの話などは利口な人にはとうに知れたこと、そうでない人には糞面白くもないものだ。
糞面白くもないと思う層が圧倒的な世の中で、保守派の立場から自衛は義務であると主張しても、所詮は対処療法的な受け入れ方にとどまる。
差し迫った危機には慌てるが、危機がやわらげばすぐ忘れる。自国の防衛すら権利だと認識するようになった時点で、その国の存続は相当に怪しい。
権利意識は承認欲求に通じる。
いや、承認欲求が権利の形を借りて発信されるといったほうがよいか。
自衛を権利とする主張者は生き抜く努力をしたいのではなく、誰かに生かしてもらいたい衝動に突き動かされている。これでは死んでないだけで、生きてることにはならない。
戦後日本人は「生きる」難業より「死んでない」状態を選んだのだ。
多くの場合、(よりよく)生きる派と、(ただ)死んでない派が交わりはしない。
そして、生きる派は絶滅危惧種だ。
どうみても勝敗は決した。
それでも語り続けるのは、負けても劣っているとは思わないからである。
生き続けたければ生きればいい。私には無理だろう。無理に生きることはない。生きるより死ぬ理由が勝れば死ぬしかないし、死んでしまえば後悔のしようもないのである。
ただ、躊躇する気持ちがわずかでもあるなら、とりあえず明日一日を生きる選択もありだ。そうした日々の連なりが、結果的により良い生き方として結実する未来は否定できない。
私の中では、堕落を避けるために死を選ぶのは十分あり。また、堕落の恐怖に食い潰されるまで生きる方法も同じくらいあり得るのだ。
どちらの可能性も拮抗し、そのために、選択でもがき苦しむのが、私が思う保守の真髄である。
こうした考え方はとても息苦しく、特に財を築くのが重要な社会においては損でしかない性となるだろう。
だとしても、自分を超えた存在を感じ、そこへ近付こうとしたら、そうならざるを得ないのではないか。
死んでない派には、どうせそこが分からない。分かりやすい結論に飛び付くのが彼らの性向であり、真骨頂なのだから。
終