lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【連載】「自衛権」と「自衛義務」(5)~右派・左派は仮称にすぎない、西部邁氏と佐高信氏のタッグにみた認識の可能性

自らの心根をつぶさに分析し把握するのは難しいものだ。

 

考えに考えたあげく、最終的にはセンチメンタリズムが結論を下してしまうケースも少なくない。

それが分かっている者は「これでいいのだ」などと漫画調で簡単に決めつけられず、思考の反覆横飛びはやめたくてもやむことがないが、このストレスは相当なものだ。

 

そこから逃れようと多くの知識人がトライしては破れ、破れてなお精神の完全性を追い求め、しかし残念ながら、安直なゴールを選択しがちになる。

 

その選択が、自分がこれまで突き詰めてきた命題にそぐわないと薄々感じつつ、人前で発言する以上、言葉の伝えやすさを優先してしまうため、本当の本心との距離は離れていく。

けれど厄介なことに、当の本人は本心を捨てたわけではなく便宜的に蓋をしているだけと割り切っている。

本人にはなんの過ちの意識もないのだ。

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Alexas_FotosによるPixabayからの画像

周囲には誤解を広めながら、彼の思いだけが正しい針路に向かっている。

 

このことは体内時計だけに頼っていると、グリニッジ標準時とのずれがどんどん大きくなっていくのに似ている。

 

齟齬を修正するにはどこかで一度立ち止まり、伝えやすさを捨て、面倒な言論の組み立てに立ち戻らねばならない。

金にならず人からも敬遠される作業であるのは間違いないが、ここをないがしろにしたら、私たちの「知」はいつまでもたっても輝きを増さない。


私の説では、平均的な左派は右派に対して人権より国家を重んじていると批判し、その裏で彼らもまた、人権を超えた価値を欲している。

彼らが他国の侵略による国民殺害という最大の人権侵害を抑止してくれる自主防衛力の存在を否定したい背景には、こうした深層意識があるように思えてならない。

すべてではなくても紛れている。

 

人権より高位の価値とは、「それを失ってまで生きる意味はない」ということ。

例えば気高さや自己犠牲など、自身を押し殺してでも貫く精神性が考えられる。

・・・国の歴史を鑑み、武力とは絶対に否定されるべき悪しきものだから、武力に頼って生き延びるくらいなら死んだほうがいい・・・。一つ思い付くのはこんな発想だ。

 

このような左派は、右派と本質で似ている。ただ、命以外の大切さを奉じる点では同じであるのに、左派は巧妙に本音を隠しているか、本音に対する自己省察が不十分なために、表に出る主張が複雑さを失っている。

 

この説を考察する上で、かっこうの材料となる関係性を私はある二人の評論家の間にみた気がしている。

その二人とは西部邁氏と佐高信氏である。

 

両氏について少し触れよう。


西部氏は保守、佐高氏はリベラルの論客とされ、この二人が本や映画をテーマに対談する番組が以前あった。

 

世間的には二人の相性は悪いとみられたようなのだが、番組の内容はすこぶる軽快で知的好奇心を刺激する魅力的な会話がなされていたと記憶している。

会話の比重は、演説のような話術を得意とした西部氏のほうが大きかっただろう。そこへ佐高氏が合いの手を入れる形で話が深まり、視聴者の想像の先を行く展開となっていた。

 

なぜ主義・主張が正反対とされていた二人の馬が、あそこまでかみ合っていたのか。

この点は西部氏の死後、佐高氏自身も答えを探しているようであるが、私には理由は明確だと思える。

 

佐高氏は単純な人権擁護派ではなく、守られるには相応の矜持が必要との立場だと理解している。五体満足の者たちには社会的弱者よりずっと高度な忍耐と集中力を求め、そうなっていない大多数を公然と罵倒するのをためらわないのが佐高氏だ。

そして、大衆に内面の強靱性を重視するのは西部氏も同じだった。

 

一国が立派であるためには国民一人ひとりが上等でなければならない。

こうした確信の下、国や社会の在り様を批判しながら、それ以上に個人の無様を憂いていたのが西部氏である。

 

二人は共に、国に厳しく、個々人にはもっと厳しい目を注ぐという思考の流れが共通していた。

 

簡単に言い切ってしまうのは二人に失礼になるが、当初合わないとみられていた二人のやり取りが見事ににかみ合い、絶妙に面白かった要因の一つは、恐らく前述の共通点にあったのだろうと感じている。


一視聴者の目には、その共通点に、より敏感だったのが西部氏のように映った。

佐高氏も直感的に類似性を感じ取っていたろうが、親しみを即座に言語化し会話に溶け込ませる能力では西部氏に一日の長がある。

親しみの言語化といっても、それは率直に信頼や友情を語るという子どもじみた方法ではなく、ある話題の最中、聞き手も好むであろう持論やユーモアを飛ばすことで自分の本性を感じ取ってもらいつつ、その場の相手も十分楽しませる会話法のことだ。

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272447によるPixabayからの画像

佐高氏はそんな西部氏の話を聞き、それなら次はこんなのはどうかなと水を向ける。

佐高氏の思い付きで西部氏の饒舌はさらに加速し、二人の会話は世界のあらゆる構成要素を巻き込んだ壮大な哲学となる。

 

知識人がつくる一級のエンタテインメントだった。

 

凡庸な左派や右派は両氏のようには振る舞えない。

己の主張を支える深層意識に目が向かず、従って、相手の深層意識も推し測ることができないためだ。

 

これまで便宜上、左派をやや強めに批判してきているが、自己省察の不足では平均的な左派も右派も大差がない。

 

右派だって不穏な国際情勢となれば、国民の命を守れと単純に言いがちだろう。

すべての国民が国民という言葉で一括りにされ、真にあるべき国民の姿がいともたやすく希薄になってしまうのは右派でもよく起こる現象だ。

 

こう考えてくると、左派とか右派とかで物事を識別するのがどれだけ認識力に害を与えるかが分かってくる。

分類が認識の第一歩だとしても、最初に設えられた分類がいつまでも有用とは限らない。現憲法と同じ課題だ。


私の場合、右派(仮称)にあって西部氏のような、左派(仮称)にあって佐高氏のような言論が互いに重なったとき、腑に落ちる経験は訪れた。

 

正直に言って、佐高氏単独ではやや魅力に欠けていて、表面的な言論からはどうしても「本音に対する自己省察が不十分なために、表に出る主張が複雑さを失っている」状態にみえてしまう。

私の中では西部氏と並んではじめて最強のタッグであった。このことは、言論の可能性を広げるテストケースにもなろう、と勝手に予感し続けている。

 

左派にしろ右派にしろ、自衛を権利と捉えようが義務とみていようが、何を自衛したいのかを真面目に考えるべきだ。

守りたいものの実相も測れぬまま、自衛のあり方で意見をぶつけ合ってもディスコミュニケーションと恨みが募る。

自分が守りたいものと真摯に向き合い、同時に相手の本性を洞察する慎重さがなければ、ほとんどの言論は口論で終わってしまう。

 

私は今でも西部、佐高両氏が繰り広げた言論の再現を探しているし、自分自身も同じようになりたいと思っているが、たどり着けていない。

 

さらに白状すれば、同じ土俵に立つのが難しいと思えば思うほど、むきになって追いかけたくもなり、私がここまで生きてきた理由の一つにもなっていた。

 

夢をいつまでも持ち続けるのは虚しいから、そろそろ諦めてもいるが、自分が憧れたものの正体には一応の決着をつけてみたい。

 

自衛権、自衛義務の議論がその足掛かりとなる。

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