いつまでも自衛隊を違憲と言い張る勢力に対抗するには間違った手段ではなく、誤解の余地のない固有名詞の明記は、言葉の認識力に乏しい日本人のためにも不可欠な措置といえる。
自分たちの身は自分たちで守る、そのための軍備は自分たちで整える――。
こんな当然の法則さえ、この国では戦後から当たり前に共有されてこなかったようで、そんな国民が実行する憲法改正は、自衛隊の明記くらいで丁度よいのかもしれない。
見るからに、どこまでも生きたがりの平均的日本人が、自らを守るための軍備強化にどうして及び腰なのか。
ここでは慎重を期し平均的日本人といっておこう。非常に不可解な彼らの心理を簡単に分析すれば、おそらくこうだろう。
――今の日本は平和➡➡平和なのに、どうして軍事力を増やすの➡➡海外の脅威が高まっていても、まずは外交努力で平和を維持すべきだ➡➡単独の外交努力では不十分なら、国際社会を巻き込もう➡➡国際社会に信頼されるためにも、軍備には慎重でなければならない――。
あまりに簡単過ぎる考察だが的外れとも思っていない。むしろ、これでも丁寧に説明してあげたほうである。
実は彼らについて説明するのに論理はどれでも構わない。
論理的にこうだからこうした結論が得られた、といった手順で彼らを理解するのは無理がある。彼らには結論ありきを前提に、それを肯定する考えを持ってきてやればよい。
結論が同じであれば、論理の姿はどうでもよいのだ。
人はえてして価値観に縛られ、容易に飛び越えられない。紛れもなく生物の一種のであるはずの人間が、人工物でもある所以だ。この人工物という側面を軽視しているうちは、平均的日本人の正体は見えてこない。
人はよく学び、学んだものを己の人生の中で多かれ少なかれ生かそうとする。
それ自体は美徳的であるのだが、学んだものが間違いだった、あるいはもう通用しなくなったとして、現実を受け入れ軌道修正する勇気をどれだけの人が備えているだろう。
苦労して身に付けた知識や知恵の陳腐化はあり得ること。まったく身に覚えのない人がいるとは思えない。
いや、苦労して手に入れたものであればあるほど、それを失うのが怖くもあるから、直面する現実との摩擦で不協和音が生じることになる。
この不協和音を聴き、「世の中が変わってしまった」と嘆いて自分を変える発想がないのが事態をより深刻にする。
こうした言い方をすると、世の変化に速やかに飛び付くのが優れた人間だ、と主張しているように思われるかもしれないが、そうではない。
私は新しいものに飛び付く人間が好きじゃない。
慎重過ぎるのも害だが軽率も愚かに見える。時代の潮流を見定めたつもりになって、波に翻弄されるのが嫌なのだ。
船酔いは地上に戻ってもしばらく続く。人生における船酔いの「しばらく」は永遠に近い。
新しい知識の摂取に熱心なのは結構だが、何のために知が必要なのかわきまえない知識欲には興味がない。状況の変化には敏感でありつつ、感応し過ぎない構え方でなければ知の歴史を総合できず、頭の働きは一過性のリアクションに終わってしまう。
そして、それが平均的日本人の特徴の一つであり、彼らの対応はいつも場当たり的なので、予期せぬ場面に遭遇すると被害者面をよくしてしまうのだ。
・・・悪いのは自分たちではない・・・。
この思い込みが判断と行動を鈍らせ、対応が更新されないまま時間だけが過ぎていく。
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