※例えば、「テレワークはお酒を嗜みながらやっている」と公言し、家族や友人から煙たがられている、そんなひねくれ者でも、観終わったらきっと余韻に浸れるだろう映画をセレクト。感想を寄せてみました。気の向くまま、順次アップしていく予定です。
今回は、少し趣向を変え、
『ロボコップ』(1987年版)
この2作を絡めて話していきます。どちらも同時期に大きな影響を受けただろう作品。あらすじは言わずもがなと思い、すっ飛ばしていきます。
目次
憧れと失望のジェットコースター
「ねねねねねねねね!」
『ロボコップ』で強く印象に残っているのが、このセリフ(吹替版)のシーン。
(ねねねねねって、なかなか言い続けられない)
主人公の警官マーフィーが悪党のクラレンスから「ねねねねね!」と遊ぶように銃口を向けられ、あげく片腕を吹き飛ばされます。
もだえるマーフィー。
映画をVHSで観たのは、たぶん幼稚園児のとき。ショックでした。のちに堅牢なロボコップになるとはいえ、ああも無残に警官がやられ、悪党が圧勝する光景をそれまで観たことなかった。
凄惨ないたぶりの仕上げは、ズドン、と脳天に一発。
「・・・アメリカってやばい」と、子ども心に直感したものです。
『ロボコップ』の世界は治安がとにかく悪い。登場人物の多くが悪い奴、嫌な奴、変な奴、汚い奴に分類され、警察もオムニ社の言いなりだし、園児が共感できるキャラが少なかった。
作品の世界観は、80年代の米国の世情が大いに反映された結果でしょう。リバタリアンの民間企業が至るところで幅を利かせ、公共の秩序はぐらぐら。巷では凶悪犯罪が横行し、「死なない警官がいればなあ」と空想を巡らせる人々もいたはず。
こうした負の連鎖をいっそエンタテインメントにしてやろうと、アイデアマンらが集まり、映像化されたのではとも想像しています。
園児がラストまで観られたのは、やっぱりロボコップ自体の目新しさ・格好良さに惹かれたからでしょうが、おかげで、志操を鍛えるいいヒントを貰えたなと、今では思ってる。
米国人らが仕掛けた娯楽の策略に、まんまとはまったとも言えますね。
一方、『スター・ウォーズ エピソード6』。
こっちのほうがロボコップより先に公開されたはずですが、自分の記憶では、どちらが先か後かでなく、ほぼ同時に観た認識です。
この映画も園児には衝撃だった。
だって、フォースにジェダイの騎士、ジャバ・ザ・ハット、R2‐D2、C‐3PO、ライトセーバー、ダークサイド、ダースベイダーに帝国軍、皇帝陛下などなど、何の説明もなしに話が進むんだもん。
カーボン冷凍からハン・ソロが救出された場面なんか、「誰?」って真剣に考えましたよ。
「ホントの主人公はこっち? 黒い服のお兄ちゃんじゃないの? そうだったらヤダな。だって銃で戦うより、光の剣を使う方がカッコいいもん」
戸惑ったのは当たり前。
当時は、『スター・ウォーズ』がエピソード4・5・6の3部作だなんて知らなかった・・・。エピソード6だけで完全な形と思っていたから、ビデオ観賞中は置いてかれないよう、ストーリに付いていこうと必死でした。
(同じような経験した人、いないかな。探してるんだけど、見つからない)
のちに3部作だと知ったときは、「なあんだ」と納得しつつ、胸には淋しい気持ちが。
説明がなくてもお構いなしに進んだストーリー・・・。
想像力の4気筒エンジンをフル稼働させ食らい付くのは疲れたけど、未知の体験をしているようで満足感は非常に大きかった。
『ロボコップ』で「米国人ヤバい」と思い、『スター・ウォーズ』では「スゲーな米国人」と関心。
「海外の映画作りって、何でもありなんだなあ」
そんな憧れにも似た感情を抱いていたところ、別の真実が明かされたのだから、少年の失望は小さいものではなかった。
『スター・ウォーズ』で得たあの感動は、もう長いこと味わっていません。
粋のフォーマット
『スター・ウォーズ』については、ある著名人が「壮大な親子喧嘩だ」と評したことがあるそうです。
確かに、ルークとベイダーの関係性が展開の軸になっているので、総評を「親子喧嘩」とまとめるのは一つのセンスではあるでしょう。
しかし、見方を変えれば、映画のジャンルは種々あれど、結局は家族関係の構図に焦点を当てた脚本が多くの人を納得させる、と捉えることもできそうです。
アクションだろうと、SFだろうと、サスペンスだろうと、コメディーだろうと、人間関係の密度で描き方に工夫があるものが、より名作へと近付く。
こうした見方のほうが、映画評としては、いささか優れている気がします。
『ロボコップ』にだって、実はそうした構図がある。
ロボコップにされる前、マーフィーには家族がいました。機械の脳が徐々に人間の記憶を取り戻していく過程で、悪の黒幕に迫るのが物語の筋です。
破天荒な世界観なため、細部の設定にいちいち感情移入するのは難しいですが、展開の理屈は周到に用意されています。SFは斬新なアイデア優先とみられることもある中、現実の機微のピースをまく緻密さに、作り手の手腕がうかがえる。
園児だった初見時に、現実の機微なんぞ当然頭にありません。月日を経て解釈が練られ、評価はどんどん過大になっていくものなのです。
「人間は考える葦である」(パスカル)
政経の授業で聞き流していた言葉が、死に近付くにつれ実感を高めます。
ロボコップは機械・人間の融合体ならではのセリフも言う。
クラレンスらと因縁の戦いで負傷し、
「マーフィー、あたし死ぬわ」と相棒の女性警官。
すると彼は、
「また俺のように蘇る」
・・・これって慰めになってるの。
純粋な園児は、また真剣に考えてしまいました。
正確には、真剣に考えるのはもっと背が伸びてからだったと思うけど、「思念」は確実に植え付けられた。植えたものが育つまで、どれだけ時間が掛かっただろう。そういう意味では、この映画の影響力は何気にすごかったということになります。
ラストシーンのユーモアは好き。
黒幕を追い詰めたマーフィーですが、オムニ社関係者には手を出せないプログラムが邪魔に。しかし、人質に取られた社長が、
「お前は首だ!」と叫んだことで、制御が外れる。
「ありがとう」
そう切り返して、とどめを刺したのが粋だった。
『ロボコップ』も『スター・ウォーズ』も、結末としては勧善懲悪で終わりますが、そもそもの世界観や主人公らの宿命を考えると、単なる「正義のお話」とは違ってきます。
あるいは、一つ二つの作品をこすり続けるほど、我が人生は暇だとも言えそう。
ジェダイのロボの帰還
『スター・ウォーズ エピソード6』の副題は、今では『ジェダイの帰還』ですけど、昔は『ジェダイの復讐』でした。
これには自分も違和感あった。
原題を見れば、違和感の理由は一目瞭然。
『Return of the Jedi』
この英文を『ジェダイの復讐』と訳すのは厳しい。
ストーリーの形としては、ジェダイが下すシスへの復讐だとしても、「Return」を「復讐」に置き換えるのは無理がある。「復讐」なら「Revenge」がふさわしいと思います。
エピソード3の副題が『シスの復讐(Revenge of the Sith)』となっていることからも、「Return」と「Revenge」は明確に使い分けなければなりません。
それだから、エピソード6の日本での副題は変わったのかもしれませんね。
個人的には、『帰ってきたジェダイ』『ジェダイ復活』『復活のジェダイ』などが良いかなと常々考えていました。
「Return」(帰る、戻る)の派生語「Returnee」には「帰還兵」の意味がある。銀河を渡る兵士としてのジェダイの宿命を意識したら、『ジェダイの帰還』が適当だったと言えるでしょうか。
『スター・ウォーズ』を通じ、日本人の英語力の課題をまさかの再確認。日本人の誤訳に関わる考察は別の連載で触れていますので、興味があればこちら。
・・・そろそろ決着だけは付けておこうか。
実際に戦ったら、フォースを操りビームだって跳ね返すジェダイに分がありそうですが、ここで言う強さとは、ただの戦闘能力でなく、自分に与えた影響の強さ・・・。
うーん、『ロボコップ』かな~。
非情の脳天ズドンから、「ありがとう」ズドンまでの流れは読み取るべき多義性があふれてる気がする。
まあ、『スター・ウォーズ』あっての『ロボコップ』、『ロボコップ』あっての『スター・ウォーズ』に変わりはないですが。
あえて順番付けるなら、『ロボコップ』かな、です。
他の映画評はこっち