唯は輸入物の食料品店に入ってみることにした。
「知らないパッケージがいっぱい。これは何、スパイス? 勇人、勝手に触ったら駄目だよ」
住み慣れた街での異国の雰囲気に、感性がちょっと陽気になる。
その唯と同じ変化が起きているとみられる二人組が店内にいた。
「豆缶はそっちよりこっちの方がいいと思いますよ」
若い女が連れの男に言った。
「歯応えが違います。食材選びではただものを揃えるだけでなく、食材の個性に応じた出来上がりまでイメージしておかないと。人間と同様、同じ食材でも個性はそれぞれ、その取捨選択が料理人のセンスです」
「分かってるよ、それくらい。たまには気分を変えて違うのを買ってみようかと思ったんだ。これまでのやり方からあえて離れ、新境地を切り開こうとする意識もプロには必要だろ」
「大切なのは両方ですよ。基本を学びながら新しいものにチャレンジする、新しいものを模索しながら基本を忘れない。一流を目指すなら、どっちか片方では駄目なんです。目先の気分だけで根拠もなしに考えを変えるのは優柔不断な下らない人間の所業です」
「そこまで言うことないだろ。だいたいな、俺の方がお前より先輩なんだからな、敬えとまでは言わないが見下すなよ」
「それは誤解です。私は先輩を努力家だと思っているんですから。今は壁にぶつかっているようですが、それも努力を続けていればこそでしょう。私も少しはお役に立てればと思い、さしでがましくも意見を述べさせていただいてるんです」
「さらっと壁にぶつかってるとか挟むな」
安西は真実に背を向け、別の棚を物色する。そんな安西の様子が真実には妙に可愛らしく映る。ただ、これは恋ではない。例えれば、水族館でユーモラスなペンギンやアシカを眺めるような感じだ。
「あっ、先輩これじゃないですか、副支配人が話してた世界各地のペペロンチーノ(唐辛子)のバラエティーセット」
「どれどれ。ふーん、確かにペペロンチーノで一工夫するにはちょうどいいか。副支配人も昔は料理人を目指してたらしいから、こういうところに名残が出るよね」
「どうして諦めちゃったんです?」
「さあ。そこまで根掘り葉掘り聞けないだろ」
「上原さんはいつも穏やかで落ち着いていて、斎藤料理長とはまた違った魅力がありますよね。この間、笑顔で話しかけられた時は不覚にも、どきっとしちゃいました」
「そいつは馬鹿だね」
「名は体を表すとも言いますが、上原さんはまさにそんな感じです」
「どういう意味だよ?」
「知らないんですか、上原副支配人の下の名前は『優しい』と書いて『優』というんですよ」
「えっ、優ちゃん?」
この声に、安西と真実が振り返る。
二人と目が合って唯は顔が熱くなった。聞き耳を立てていただけでも恥ずかしいのに、自ら馬脚を露わにしてしまうとは……。
「マーマ、ゆうちゃん、ゆうちゃんどこ?」
「勇人、違うの。ごめんなさい、私の知り合いにおんなじ名前の人がいまして……その人もレストランで働いてて」
「じゃあ同一人物じゃないですか? 上原優、三十五歳、イタリアンレストランに勤めるけどワインよりウイスキーが好き。好きな言葉は和光同塵」
「ああ、そうそう。嫌いな食べ物はなぜか、うどん」
真実と唯はうなずき合った。
「初めまして、坂下と言います」
「間です」
「安西です」
「お二人とも優ちゃんの職場の同僚の方々ですか? ごめんなさい、つい驚いて会話に割って入ってしまって」
「私たちも、まさか上原さんのお友達にお会いするなんて。初めてですよね先輩」
「うん。あの人のプライベートは結構謎だから」
「へえ、そうですか」
「私はそんなことないと思います。確かに自分から話すことは少ないですけども、聞いたら答えてくれますよ。先輩は大雑把なくせに気が弱いから、ものの捉え方がぼやけてるんじゃないですか」
「くっ、お前はまた」
「怖かったり面倒臭かったりはしません?」
「怖いというか、簡単に近付けない感じはありますけど、面倒臭くはないですよ。うちのリストランテで面倒なのは他にいますから」
「言えてる。むしろ、そいつらの壁になってくれることが多いかなあ」
「先輩は自分の壁にぶち当たっていますものね」
「お前、それだけはもう二度と言うなよ」
「あはは。そうか、仲良くやってるんだ、優ちゃん。良かった」
「坂下さんは副支配人とのお付き合いは長いんですか」
「知ってるのは子供の頃から。年上のお兄さんにからかわれてたって感じです。今でもそれは変わらないんだけど。だから、お二人の話はすごい新鮮でした」
「昔の恋人ってわけじゃないんだ」
「全然。優ちゃんからすれば、もうホントお子様だったから」
「先輩、今のはセクハラ。モラハラでもあります」
「二人は付き合ってるの?」
「まさか!」と安西と真実の声が揃う。
ここで唯の携帯電話が鳴った。
「あっ、噂をすれば」
「嘘、もしかして副支配人ですか?」
「ええ。もしもし優ちゃん? 驚いた、実は今ね、優ちゃんの職場の方たちと一緒にいるんだよ」
電話でのお喋りは数分続き、その様子を安西と真実が興味深そうに見つめた。
真実がぱっと思い付き、
「坂下さん、副支配人呼べません?」と小声で催促する。
「ええ、呼んでどうするのさ?」
「いいじゃないですか、あの人の私服姿とか見たくありません?」
「別に見たかないよ。小娘はこれだから」
「坂下さん、気にしないで下さい、よろしくお願いします」