lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと⑤ 先輩は大雑把なくせに気が弱い

唯は輸入物の食料品店に入ってみることにした。

「知らないパッケージがいっぱい。これは何、スパイス? 勇人、勝手に触ったら駄目だよ」

住み慣れた街での異国の雰囲気に、感性がちょっと陽気になる。

その唯と同じ変化が起きているとみられる二人組が店内にいた。

「豆缶はそっちよりこっちの方がいいと思いますよ」

若い女が連れの男に言った。

「歯応えが違います。食材選びではただものを揃えるだけでなく、食材の個性に応じた出来上がりまでイメージしておかないと。人間と同様、同じ食材でも個性はそれぞれ、その取捨選択が料理人のセンスです」

「分かってるよ、それくらい。たまには気分を変えて違うのを買ってみようかと思ったんだ。これまでのやり方からあえて離れ、新境地を切り開こうとする意識もプロには必要だろ」

「大切なのは両方ですよ。基本を学びながら新しいものにチャレンジする、新しいものを模索しながら基本を忘れない。一流を目指すなら、どっちか片方では駄目なんです。目先の気分だけで根拠もなしに考えを変えるのは優柔不断な下らない人間の所業です」

「そこまで言うことないだろ。だいたいな、俺の方がお前より先輩なんだからな、敬えとまでは言わないが見下すなよ」

「それは誤解です。私は先輩を努力家だと思っているんですから。今は壁にぶつかっているようですが、それも努力を続けていればこそでしょう。私も少しはお役に立てればと思い、さしでがましくも意見を述べさせていただいてるんです」

「さらっと壁にぶつかってるとか挟むな」

安西は真実に背を向け、別の棚を物色する。そんな安西の様子が真実には妙に可愛らしく映る。ただ、これは恋ではない。例えれば、水族館でユーモラスなペンギンやアシカを眺めるような感じだ。

「あっ、先輩これじゃないですか、副支配人が話してた世界各地のペペロンチーノ(唐辛子)のバラエティーセット」

「どれどれ。ふーん、確かにペペロンチーノで一工夫するにはちょうどいいか。副支配人も昔は料理人を目指してたらしいから、こういうところに名残が出るよね」

「どうして諦めちゃったんです?」

「さあ。そこまで根掘り葉掘り聞けないだろ」

「上原さんはいつも穏やかで落ち着いていて、斎藤料理長とはまた違った魅力がありますよね。この間、笑顔で話しかけられた時は不覚にも、どきっとしちゃいました」

「そいつは馬鹿だね」

「名は体を表すとも言いますが、上原さんはまさにそんな感じです」

「どういう意味だよ?」

「知らないんですか、上原副支配人の下の名前は『優しい』と書いて『優』というんですよ」

「えっ、優ちゃん?」

この声に、安西と真実が振り返る。
 

二人と目が合って唯は顔が熱くなった。聞き耳を立てていただけでも恥ずかしいのに、自ら馬脚を露わにしてしまうとは……。

「マーマ、ゆうちゃん、ゆうちゃんどこ?」

「勇人、違うの。ごめんなさい、私の知り合いにおんなじ名前の人がいまして……その人もレストランで働いてて」

「じゃあ同一人物じゃないですか? 上原優、三十五歳、イタリアンレストランに勤めるけどワインよりウイスキーが好き。好きな言葉は和光同塵

「ああ、そうそう。嫌いな食べ物はなぜか、うどん」

真実と唯はうなずき合った。

「初めまして、坂下と言います」

「間です」

「安西です」

「お二人とも優ちゃんの職場の同僚の方々ですか? ごめんなさい、つい驚いて会話に割って入ってしまって」

「私たちも、まさか上原さんのお友達にお会いするなんて。初めてですよね先輩」

「うん。あの人のプライベートは結構謎だから」

「へえ、そうですか」

「私はそんなことないと思います。確かに自分から話すことは少ないですけども、聞いたら答えてくれますよ。先輩は大雑把なくせに気が弱いから、ものの捉え方がぼやけてるんじゃないですか」

「くっ、お前はまた」

「怖かったり面倒臭かったりはしません?」

「怖いというか、簡単に近付けない感じはありますけど、面倒臭くはないですよ。うちのリストランテで面倒なのは他にいますから」

「言えてる。むしろ、そいつらの壁になってくれることが多いかなあ」

「先輩は自分の壁にぶち当たっていますものね」

「お前、それだけはもう二度と言うなよ」

「あはは。そうか、仲良くやってるんだ、優ちゃん。良かった」

「坂下さんは副支配人とのお付き合いは長いんですか」

「知ってるのは子供の頃から。年上のお兄さんにからかわれてたって感じです。今でもそれは変わらないんだけど。だから、お二人の話はすごい新鮮でした」

「昔の恋人ってわけじゃないんだ」

「全然。優ちゃんからすれば、もうホントお子様だったから」

「先輩、今のはセクハラ。モラハラでもあります」

「二人は付き合ってるの?」

「まさか!」と安西と真実の声が揃う。

ここで唯の携帯電話が鳴った。

「あっ、噂をすれば」

「嘘、もしかして副支配人ですか?」

「ええ。もしもし優ちゃん? 驚いた、実は今ね、優ちゃんの職場の方たちと一緒にいるんだよ」

電話でのお喋りは数分続き、その様子を安西と真実が興味深そうに見つめた。

真実がぱっと思い付き、

「坂下さん、副支配人呼べません?」と小声で催促する。

「ええ、呼んでどうするのさ?」

「いいじゃないですか、あの人の私服姿とか見たくありません?」

「別に見たかないよ。小娘はこれだから」

「坂下さん、気にしないで下さい、よろしくお願いします」

 

続く

【小説】ディナーのあと④ 両親が離婚し、それなのに平然と物事が進む世の中で

この日の営業が終わり、一息ついていたスタッフ全員が集められた。

「みんな、いつもいつもご苦労様、このリストランテの誇りたちよ!」

店のオーナー、フランチェスコ大滝が大きな身振り手振りを交え話しだす。光沢のあるスーツに、片手にはワイン、お決まりの演説スタイルだ。

「一日働いた後、美味いものを食べ、美味い酒に酔う。これは人種や国籍を問わず、誰もが納得する人生の楽しみ方の一つだろうよ。

人を喜ばす商売はごまんとあれど、君たちは格別。君たちの高貴さ繊細さ大胆さ、そして地道さにかなうエンターテイナーがどこにいるだろう? どうだい多々良支配人、いると思うかい? そうそう、そういうことだね。

今夜は君たちの働きぶりを少し拝見させてもらった。荒々しくも流れるような調理の手さばき、完成した調理を紳士と貴婦人の身のこなしでテーブルへ届ける職人技、ゲストをもてなす場に当店を選んでくれた主人たちへの温かなサービス、いや、良かったよ、どれも素晴らしい出来栄えだった。

先代から店を譲り受けることが決まった時、これまで何度か訪れたこの店がまったく別物に映り、責任の重さと挑戦の始まりに身震いしたもんだ。その新鮮さは、今も血液に混じりこの身体を駆け巡っている!

そんな僕だからだ、あえて言おう、今夜は料理が出てくる間に淀みがある気がしたんだ。淀みとはばらつき、不安定さと言ってもいいね。それでも十分、このリストランテの水準は保っていたからまったく問題はないのだが、オーナーとして用心深いのにこしたことはない。

いやいやこんなこと、多々良支配人と上原副支配人、それに何より斎藤料理長は重々承知のはずだろうから、神経質過ぎるきらいもあるのかな。あの淀みの原因はなんだったのだろ? 

基本的には調理場の問題と思うけど、料理長の腕は確か、その安定感も知っている。体調にも異変はなさそうだ。だとするとこれは、他のシェフたち……失敬、犯人探しをする気は毛頭ないのだよ。まして、若手はこの斎藤料理長が育てているんだからねぇ。玲子、ヴィーノロッソ(赤ワイン)のお代わりもらえるかい。

……いやまったく、心配性というのは経営者の烙印みたいなもん、度が過ぎれば周りを不愉快にする悪癖だ。

見方を変え、この悪癖にもいい点があるとすれば、心配を消し去るため常に新しいアイデア、ビジョンを思い描くということくらいかなあ。だから僕はいつだって前向き、相手が本心で何を思ってようとね。

僕を信じてついてくることだよ、みんな。それがこのリストランテのさらなる栄光の始まりとなるはずさ。仕事に限らず悩みがあれば、いつでも気兼ねなく相談に来てもらいたい。僕たちは家族、なんていうのは言い過ぎかもしれないけど、君たちが家族を大切に思う気持ちを、僕は何より尊重するから。

社会の礎が家族だなんて良識、僕は子供の頃からわきまえてる。安西君、聞いてくれてる? もう眠くなってきたかな? いいんだ、いいんだ。君のその伸び伸びとしているところが好きさ。

真実も顔つきが変わってきたし、斎藤料理長、この子たちを育てる君の役割は重大だよ。上原副支配人にも斎藤料理長との双璧で、引き続き人材育成に気を配っていただきたい、お願いするよ。

さあさあ、最後は僕の奢りで乾杯しようじゃないか。玲子、これと同じのをみんなに回してくれ。……どうかな、全員に行き渡ったかな。よし、みんなお疲れ様、乾杯! 最後に一言、近々僕のアイデアを発表するから、楽しみにしてて!」

 

 

◇◇◆◆◇◇

子供の頃から知る駅前の商店街で久しぶりの散歩。他の多くの地域の事例と同様、知らない店舗が増えた光景に一抹の寂しさを覚えても、その感情は、彼女がこの街の昔馴染みである証拠であり、決して本人を気弱にはしなかった。

午前中から営業している飲み屋は相変わらずだ。母と叔母から聞いた街歩きのテレビ番組で紹介された影響か、以前より客足が増えている気がする。

今日ここへ来たのは買いたい物があったからではなく、時の流れに触れられる場所で意識を浄化するためだった。

「でも、いい物があったら欲しいな」

 

そんな余裕も持ちつつ、できるだけ早く、自分が本当に望んでいるものは何なのか確認したい。この商店街を出た時にそうなっていたら、そう期待すると同時に叶わないだろうとの現実も見つめ、唯は勇人の手を引いた。

雑貨屋の店先に陳列してあった商品の一つに勇人が手を伸ばした。唯がたしなめたら店の奥から店主思しき男性が現れ、自由にのぞいていってと言われる。申し訳なさそうに、仕方なさそうに唯は店内に入る。

こんなことが過去にもあった。

中学生の時、唯はこの商店街で万引きをしようとした。両親が離婚し、それなのに平然と物事が進む世の中でどうしようもなく不安が高まり、その不安が嫌悪を呼び寄せ、どうにでもなってやろうとした。平気で法を犯す強さでもなければ、不安に喰われる、自分がなくなってしまう。今振り返れば恥ずかしく、それだけ切実だった記憶だ。

その万引きの場面で、今のように店の人から、好きなだけ見ていきなさいと話しかけられた。店の人が唯を疑っていたかどうかは不明だが、唯には警告となり、どうにか万引きは思い止まることになる。

人生は自分の力で切り開く、されど、自分の力だけで切り開けるほど容易でないのもまた人生。複雑な境界線を踏み外さずに生きるには運だって必要だ。強運でなく、些細なきっかけ程度でいいのだ。

その点、唯には運があったといえる。あの日の夕方、上原にばったり会い、ハンバーガーとフライドポテトを奢ってもらったのも唯が境界線を保てた要因だったといっていい。

「お邪魔しました」

エプロン一着と子供用のマグカップ一つを買い、店を出た。

あの時の店は、輸入物の食料品店に変わっていた。

「優ちゃんもたまに来てるって言ってたっけ。これも奇遇かな」

その上原がもしかして自分を思ってくれているのではないか、一昨日会ってそう感じていた。思い過ごしだ、自意識過剰だと打ち消そうとして、叔母にからかわれ、かえって意識するようになってしまっている。

馬鹿げたことだ。上原の好みはもっと背が高く、顔の彫りも深くて自立した雰囲気の女性だ。以前付き合っていた彼女がそうだった。

上原のことを考えないようにするため、考えるべきじゃない理由を探して結局、上原のことで頭が占められる。実に馬鹿げている。好きだという気持ち自体を否定したいわけではない、だってそれは今に始まったものではないのだから。肝心なのは思いの扱い方だ。

これまで思いを伝えるに至らなかった理由には、月並みなものから複雑なものまでが存在し、それらが交錯した渦の中で、知らなかった新たな感情が生まれ、年月が経過していくにつれ唯の人格に深みを与えた。

当然、上原への思いだけが唯を構成する要素ではなく、結婚も離婚も含め、自分で選択した様々な行為の余韻が唯の皮膚には刻まれている。だからこそ、知らなかった様々な感情があることを自力で学び、その感情を抱えて生きた経験の長さがもたらしてくれる「回りくどい恩恵」が、唯には訪れていると上原に直感させ、「年を取って顔つきが良くなったんじゃない」と言わせた。

上原ほど言語で物事を解釈しようとする気質が唯にはなかったから、上原が好意だけでなく尊敬の念さえ持ってくれていることに唯は気付けていない。もし唯が気付いていたら、いや、ここで伝えるべきなのはやはり上原なのだろう。

なぜなら、唯本人はよくあるパターンの一つに過ぎないと自重しているこれまでの自身の道程を、本人が見通せない部分まで深読みし褒めてあげられるのが、今の地球上に上原しかいなかったからだ。

 

しかし、男とは面倒な生き物である。これほど明確に自分の意識を把握しておきながら、それほそれとして、時代を俯瞰し理想を追いかける情動からずっと逃れられない。

地に足が着いていない状態では、ワンナイトラバー程度の付き合いならともなく、真剣に思っている、思ってもらいたい相手に対し本音を打ち明けることができないから、出会ってから今まで、二人の距離は一定以上縮まらないままでいる。

 

続く

【小説】ディナーのあと③ 本心が読み取れない表情で耳の穴をほじる

着替えが終わった上原と斎藤は、それぞれの役割に就こうとする。

「じゃあ、一日よろしくな」

「ああ」

「あの返事は明日が期限だ、忘れてないな?」

「ああ……」

「そうか。若干暑くなりそうだ、水は冷ためでもいいかもな」

この二人が好きな映画に、ディナーラッシュという作品があった。あるレストランの一夜のせわしい営業とともに駆け巡る従業員らの人生模様を凝縮した秀作だ。

映画は長過ぎず熱くなれるのがいい、と語った映画監督や評論家がいるのかいないのかは定かでないものの、本当に必要なシーンだけを本当に必要な分だけ集めるのは至難の技。この見解には多くの人が賛同してくれるのではないか。そいつができるようになるため、振り返れば無駄だったことを選択してしまうのは結果的に必要なこと。そんな熱弁をしたら、せっかく得た理解者から今度は煙たがられること受けあいで、さらに、人生にはある程度長く生きなければ辿り着けない境地がある、と説教じみた指摘までしたら、偏屈扱いはもうすぐ近く。どんな話題や教訓も伝え方は常に難しい。

このように、長過ぎず熱くなれる映画には物語の余白を想像させたり、余韻を幾重にも解釈させようとしたりする効能があり、上手く働けば、思考を豊かな重層構造へと導いてくれる。

 

上原と斎藤には共通の特技もあった。目の前の物事に集中しながら、リズムの裏打ちの如く、二つの思考を同時進行させられるのだ。

正確を期すると、裏打ちの思考の動きは「進行」ではなく「発酵」「錬成」「養生」の類といえた。二人はいつからできたのか、あるいは心掛け次第で誰にでも可能なのか。いや、重要なのはそんなことではない。求めるものがあるのに手に入れられない焦燥感が、脳みそに技巧の発揮を余儀なくさせている。培った思考が重層構造であればあるほど、技巧の負荷は心に重くのしかかり副作用となった。

斎藤の場合は、若いシェフの未熟さに自身の末路を重ねている。まだまだ発展途上の彼らのように、自分も誰かから見れば一人前に届いていないのではないか……。新たな行動を起こそうとする時につきものの不安が、想定内とはいえ、斎藤の精神を消耗させた。

「間、こっちを頼む」

「はい」

「よし。安西、ソースを」

「はい、えっと……」

「どうした、早くしろ」

真実と同じ若手のシェフ、安西豪太(あんざい・ごうた)は斎藤の調理のスピードとイマジネーションについていけず、動作が一瞬止まった。すぐにリスタートした安西だったが、斎藤は不満だ。

「次」

「はい」

真実も必死だ。天性のセンスは安西より上でも当然完璧ではない。それでも輝いて見えるのは、追いかけるものがあるのが嬉しく、苦労も冒険だったから。真実と安西の差はこの数日でぐっと広がっていた。

この二人の姿が、何やら世の中の縮図のような気が斎藤にはしている。出来のいい者と出遅れている者。誰もが出来のいい者であろうとして、なかなかそうはいかず、時に自分の人生の限界を決める理由にもなる。

斎藤にはそれでは困るのだ。

「おい、安西」

「はい……」

調理の合間に安西を呼び、これまでの失態で特に注意すべき点を指摘する。怒り過ぎてはいけない、これが「お叱り」であることは相手も重々承知している。反省の中に自覚と自立が同居するよう言葉と威厳を操るのはひどく疲れるから、上に立つ者には相応の度量が求められるのだ。上手くやれているかどうかは相手次第というから、年を取るのは余計煩わしい。

「…はあ」

「大丈夫ですか。最近たるんでますよ、私にも分かります。悩みでもあるのですか?」

「そういうわけじゃねえんだけど」

「わけはあるんですね」

「うるさいやい」

真実は安西より年下だが、真実にその遠慮はない。安西は斎藤の背中を見て、また小さくため息をついた。

執務室では、支配人の多々良浩一(たたら・こういち)が頬杖をつき、先月の売り上げ結果を眺めていた。

「ふうん」

本心が読み取れない表情で耳の穴をほじる。指先の耳垢をふっと吹き、今度は鼻をほじろとしたところで、給仕が一段落した上原が入ってくる。

「フロアはどうだね」

 

「多々良さんが揃えた優秀なスタッフのおかげで、いつも通り。この調子なら僕がいなくなってもへっちゃらですね」

「ぶははっ、何をおっしゃる副支配人。君がいなくなるようなことになったら、オーナーが腹いせに私を首にするよ。今夜の予約に、例の社長ご夫妻がおったはずだけど、ご様子はどうかな」

「今日はお二人の結婚記念日だそうで。旦那様が奥様をもてなす機会に貢献できて、こちらとしても光栄な夜です」

「結婚記念日か。なるほど、結婚を記念する日ね、そうかそうか、ふん、あの年で私だったら真っ平ごめん被りたいイベントだ! あちらは羽振りがいいのかなあ、新聞やニュースを観ていてもこの国の実態はよく分からんし、信じられるのは己自身のみさ。女房のために結婚記念日を祝いたい気分じゃないねえ。私の女房も若い頃は肌が白くて適度に豊満で、髪だってつやつや、家に帰るのがあれほど楽しかった時期はなかった。幸福と快楽が黄金比で調和してたもんだ。迂闊に年は取れないよ、ねえ上原君、迂闊に年を取ることだけはあっちゃあならない。ご夫妻のコースはどこまで進んだの? そう、折を見てご挨拶に伺わなくちゃ」

「気になるのは料理が出るスピードですね。普段と比べ遅れ気味な気がします。実はここ数日そんな傾向を感じ取ってはいたんですが」

「何だって? 問題に気付いていたのならきちんと指摘してくれなきゃ困るよ」

「時間を置かないことには、こちらの気のせいという恐れもあるので」

「ふむ、厨房には厨房のやり方もあるからなあ。支障が出てるわけじゃないのなら放っておくか。上原君、これはいい意味でだよ。世界をぐるりと見回してごらんよ。身の毛もよだつ不幸があちこちで幅を利かせてる中、料理のスピードや味、店のサービスがどうのこうのなんてね、取るに足らんことじゃないかい。いや、私の立場で元も子もないな。上原君、これもいい意味でだからね。あーあ、とっとと今週を終えて、休日は家庭菜園に没頭したいもんだ」

また執務室の戸が開き、給仕スタッフの一人、唐玲子(から・れいこ)が現れた。

「唐君、どうしたんだい?」

「一服しようと思って。支配人もどうです」

玲子は煙草に火をつけ、別の一本を多々良に差し出した。

「私はいいよ。困るなあ、ここは喫煙室じゃないんだよ」

「禁煙でもないですよね。オーナーもこの部屋でたまに吸っていますから」

「本当かい? それでか、この部屋が徐々にやに臭くなってきたのは」

多々良は鼻をひくひくさせた。

「私はきちんと消臭していますよ。何をご覧になってらして、帳簿? へえ、私にも見せて下さいよ」

「駄目駄目、これは責任ある立場の者だけが触れられるものだよ」

「そうですか。まあ、帳簿なんかいちいち確認しなくても大体の察しがつきます。世間の質を観察してれば」

「支配人、それじゃあ自分はこれで」

「副支配人も一服どうです。上原さんは、お煙草お吸いにならないんでしたか?」

「ああ、君もほどほどにね」

「今夜はオーナーが様子を見学に来るそうです。斎藤さんにも先ほど伝えておきました」

「そうかい、ありがとう」

上原が去り、玲子は気兼ねなく煙を吐いた。

「オーナーが来られるってのは本当なの?」

「ええ」

「どうして先に私に教えてくれないんだ、私は支配人だよ」

「それは、あの二人がオーナーを嫌ってるからですわ」

 

続く

【小説】ディナーのあと② 俺ごときに料理以外の影響も受けているようじゃ、人としては半人前以下だ

上原はウィスキーを瓶から飲んだ。

「返事は明後日まで、だったな」

店の同僚から独立しようと誘われていた。浮かない日々に、ふと訪れた転機の可能性。自分の力で動かした可能性ではないから、取り扱いには慎重だ。返事も伸ばしてもらいたいと思っている。

「店に来ないかって言っちゃったからな。別の店になったら気を悪くするかな」

アルコールを口に含むたび、唯の表情や仕草が瞳に浮かんだ。

その唯は実家で、叔母の原田千恵(はらだ・ちえ)と肩を並べ、夕飯の支度に取りかかっていた。

「優君とのデートはどうだった?」

「デートじゃないよ、ちょっとご飯に誘われただけ」

「それをデートと言わず、何をデートと言いますか」

「それは……」

「いいこと唯、どんな事情や状況に苛まれてたってね、人を好きになるのは悪いことじゃないの。人を好きになった瞬間のあの眩暈、眩暈を知った翌朝の喜び、喜びと不安が入り混じった胸の奥の快楽、快楽と理性の緊張、緊張を乗り越えた後の至福! もうたまらないわ、また愛に狂いたくなってきた。唯だって知っているでしょう、年を重ねると真理にすら思えてくるものなんだから。取り戻せたらねぇ、けど、私にはもうできそうにないから、唯、あなたに期待するの」

「私、優ちゃんを好きだなんて言ってないから」

「あら、じゃあ好きじゃないんだ」

「もう、叔母さん、手が止まってる。お母さんが帰ってきちゃうよ」

「見くびらないで。私が何年主婦やってると思ってんの」

千恵の握る包丁が、滑らかにじゃが芋の皮を剥いていく。

「味はともかく、手際の良さではまだ負けなくてよ。あなたは今年で三十だっけ。男も女も、本当の挑戦をするのは三十過ぎてからだよ。それまでの後悔や失敗なんて、よほどの犯罪でない限り肥やしでしかないもの」

「私はまだそこまで達観できないよ。働いて生活する、その難しさと大切さとやるせなさが、とっても重たくて、目の前のことで精一杯。今こうして切ってる玉葱の切り方一つでも、未来に影響があるとしたら、もっと腕を磨かなきゃとも思うけど、そこまでしないといけないの、って煩わしも感じるから、真剣に考えて暮らすのってホント大変」

「その割には笑顔が素敵ね。色気もあるわ、勿体ない」

「はいはい、このお野菜、炒めるのは手際の良い叔母さんね」

「結婚している男や女は別の人を愛してはいけない、少なくとも悟られてはいけない。けれど、この悪を認めてあげることでもっと恐ろしい魔に囚われなくて済むかもしれない。あなたはもう正式に離婚したのだから、悪に手を染める後ろめたさなどなく、優君を魔から守ることだってできるじゃない」

「そんなこと……優ちゃんは私と違って、ずっと強いから」

「だとしても……唯、あなたひょっとして優君に話してないの、離婚したこと?」

「そうだよ」

「そうだよって! そこ、物語を動かすのに一番肝心な情報! 何考えてるのよ、いや、きっと色々考えた末の結果なんでしょうけども、つまらないわね、糞面白くもないわ! 優君も奥手になるはずよ。どうして明かさなかったの。もっといい人がいると思ってる? 優君じゃあ、気落ちした現在での妥協だって思ってるの?」

「思ってないから、そんなこと!」

「じゃあ何なのよ、言いなさい、聞いてあげる!」

「もう……あれ、ほら、叔母さんが大声出すから勇人が起きてきちゃった。ほらほら、ご飯まだだから、大人しくできるよねー」
 

 

◇ ◆ ◆ ◇

昨晩一人で飲み過ぎただろうか。飲みかけのウィスキーだけでは足りず、買ってきたものを全部開けてしまい、アルコールと昨夜の長い逡巡が血中にまだ残っている。

けれども、身から出た錆を簡単に露わにするわけにいかないのが、上原の立場だ。

「おはよう。ふう、一番乗りのつもりだったのに、今日は早いんだ」

自分でも白々しい挨拶に、思わず口元が笑う。

この上原の笑顔に、店に一番乗りした若手のシェフ、間真実(はざま・まみ)は愛想良くされたと勘違い。

「おはようございます。料理長から宿題を出されていたので、早めに準備をしていたところです」

「宿題って?」

「加熱によるアバッキオ(仔羊肉)の旨味の凝縮です」

苦手な愛想をできるだけ振り絞って応えた。

「人間の舌で肉を味わうとした時に欠かせないのは何といっても熱です。生肉料理は熱が通ってないじゃないかとか言わないで下さい、常温を保つのも立派な加熱技術の一つですから。熱を加えることで肉の脂が溶けて舌触りを良くし、身も引き締まりほぐれやすくなるから、歯が心地良くなり、食べる行為が楽しくなります。まあ、お肉に限った仕組みではないですけれども、肉が与える満足感、特別感は他の食材に比べ突出してるといえるでしょう。

その満足感をさらに高めるには、加熱によって流れ出る脂に逆らい、旨味を内側に閉じ込めなければなりません。その際の火加減の難しさといったら! 肉の種類、部位に応じ、脂と肉身の融点の違いに配慮した火加減の使い分け、タイミングを計っての切り替えは、極めれば神ですよ、調理場の神! その神に、私は今近付こうとしています、ふふふ、神に迫るため、こんな時間からは私は、ふふふ」

興奮しだすとこの調子だ。変わっているが、料理人としてのやる気とセンスは確かだろうし、個人的に愉快なので上原は嫌いじゃない。

「神様もうかうかしてらんないな、こんな店にも座を狙う卵がいるんだもの。頑張って、開店前に疲れない程度にね」

「はい、今日も一日よろしくお願いします、副支配人!」

今日は気温が少し高め。

「ランチで出す水は冷ためがいいか」

夜の予約にまで目を通し、上原は一日の流れを簡単にイメージしておく。

「おはよう。間から聞いたぞ、お前さっき、あいつにはにかんだ笑顔をくれてやったんだって? あいつ、肉と睨めっこしながら興奮気味だったぞ」

「はあ? 勘弁してくれよ」

「あいつから見れば、お前も落ち着いた大人の男ってことだ」

「俺からすれば、加齢臭が迫ってるおやじだよ」

この店の料理長、斎藤一二三(さいとう・ひふみ)は機会があれば、こうして上原をからかう。それは上原も同じ。年齢は斎藤が一つ上だったが、二人とも年の差を気にした上下関係の意識は乏しかった。立場は違えど、二人は同じ分野を生業とする同志といえた。

「いい子とはまだ出会えないか? まだ大丈夫、そう油断してるうちにジジイになっちまうぞ。俺の嫁さんの妹の友達にお前の好みそうな子がいるんだ、紹介してやるよ」

「いいよ、そういうのは。その手の紹介は以前えらい目に遭ったからな」

「ふはは、そうだ、あれは悪かった。まさかあんな……おっと、女性の陰口を叩くのは俺のポリシーに反するところだ。でもそれじゃあ、どうしたものかな。紹介が嫌ということは偶然の出会い、もしくは懐かしの再会がお望みか。俺が手を貸す余地がないだろ」

「余地がなくて結構、一体何の話だよ、朝からさあ。どうせ聞くなら、新作メニューのアイデアを聞きたいね」

「それならいつでも教える。今の俺に最も重要なものだから、こうして話している時でも食材と調味料が頭の中を駆け巡ってる。旬の味を生かす、そこにリストランテならではの高級食材と熟練の技法を合わせ、上品な気風を創り上げるのは当たり前。個性はその先だ。個性とは、自分に取り入れたい伝統の選択。真の個性とは、選択した伝統を内に秘めた年月の長さだ。俺の年月はまだまだだが、これだ、ってのは既に何皿かある、詳細を話そうか?」

「そうまで熱を込められたら、こっちも気持ちの準備がいる。あとで落ち着いた時にゆっくり聞かせてくれ」

「お前、もう気になる女を見つけたな」

「どうしてそうなる、料理人の観察眼か? だったら曇ってるんじゃない。目標を追い過ぎて、近視眼に陥ってる恐れありだ。遠くを眺めた方がいい、特に遠くの緑をさ」

「言ってくれる。痛いとこを突いてくるが、真剣に考えての言動だから信用できるのがお前だ。それに比べ、ここのオーナーはまったく信用ならない。信用の文字すら書けないのではと疑うくらいだ」

「同感だけども。あまり表だって歯向かうのも、一二三を慕ってるシェフたちのモチベーションに影響しそうだ。気を付けてもらいたいんだけどなぁ。それはそれでらしくない気もするから難しいな」

「現代人に足りないのは気高さだ。気高さってのは誰かの歴史、多くの場合は身内の歴史を背負い、受け入れ、吸収することで自分の顔つき、言動、気質が否応なしに立派になり注目を浴びてしまう自然現象といえる。俺は若手に料理は教えてやれるが、気高さは無理だ。俺ごときに料理以外の影響も受けているようじゃ、人としては半人前以下だろう」

「面白い講釈だけど、食事中に述べられたら頭が固くなって匂いも味も分からなくなるよ。女は簡単に紹介してくるのに、自分の表現方法は複雑なんだから。ええ? 俺にもそんなところがある? じゃあそいつは、生き甲斐を見つけるには避けて通れない趣だったらいいな、と願うことにする」

「今日の願いは、いつものように美味いものを創ることと、若いシェフたちが一ミリでも先に成長してくれることだ」

 

続く

【小説】ディナーのあと① 一度死ねたら幸せになれるかも

もし一度死に、しかし生き返ることができるとしたら、みな一度は死んでみるのではないか。

信頼できる友人がいない、恋人に裏切られた、家族を失った、やりたい仕事がない、事業に失敗した、金がない、あいつが気に入らない、あいつも妬ましい、世の中がむかつく、もうやりたいことはやり尽した……。

こうした様々な理由から思うようにならない憂鬱な人生から逃れるため、「死の救い」の可能性に考えを巡らせた経験は、おそらくこの世の多くの人々にあるだろうが、その多くがまたそれを実行できないでいるのは、死にはやり直しがきかないからだ。

だが、もしやり直せるとしたら……。

死んでみて、思ってたのと違った、やっぱりもう少し生きたい、死んでから生きる意味に気付いた、死んでいるのに飽きた、死んだら生きられる気がしてきた、死ぬ理由が誤解だった、幼稚だった、そんなどんなに身勝手な理由であっても、一度は生き返れることが保証されているとしたら(それも無料で、望んだらすぐ、キャンセル待ちなし!)、むしろトライしてみない方が人生の豊かさを制限する結果となるだろう。

「死とはその程度のものだ」

上原優(うえはら・ゆう)はホットコーヒー片手に呟いた。呟いてすぐ迂闊だったと、

「この国の現代人にとって、死とはその程度のものだ」

小さな声で訂正する。

自分たちのお喋りに夢中な客ばかり集まったファミリーレストランのテーブルで一人だったから、独り言を聞かれる心配はなかった。誰かと一緒の食事中で、こんな暗い台詞まず吐かないのが上原の流儀だ。まして、気のある女性とその子供とのランチの時に、そんな軽挙犯すものか。

その女性と子供が手洗いから戻ってきた。

「勇人、襟は伸ばしたりしちゃ駄目よって言ってるでしょ、てろんてろんになったら格好悪いんだから。ああ、椅子に靴で上がっても駄目、汚してない、大丈夫? しっかり座りなさい。なに今度は抱っこ? やーだ、お母さんの服引っ張らないで。もう、トイレに行くまではいい子だったのに、急に甘えん坊さんになったのね」

「飽きたんだよな。デザート頼んじゃおう」

上原は片手を上げ、ウェイトレスを呼んだ。目の前の女性、坂下唯(さかした・ゆい)は子供の気分を読んで対応してくれる上原の気遣いに申し訳なさと温かさを感じ、今のこの時間がデザートを食べれば終わってしまうのを残念に思う。

唯の一人息子、勇人はそんな母親の気は知らず、デザートのアイスを今か今かと待っている。確かに退屈はしているが、甘い食べ物の名前と、その味の魅力は退屈しのぎには十分。わくわくを押さえ切れず、唯の太腿の上で足をばたばたさせた。

「元気だよな。俺の分も食べるか? 代わりに元気のエキスを分けてくれ。笑った顔なんかはお前のとそっくりだもん、二倍の明るさに照らされてさ、気後れするよ。母親譲りなんだよな、父親もそういう人なんだろうか。人の親になるってのはすごいよ。他人と暮らしながら新しい命を育てる、それも長く続けるにはどれほどのエネルギーが必要か。誰か測って教えてくれないかな」

 

「優ちゃんは結婚しないの?」

「分かんない。もうずっと想像のレベルで止まっちゃってる。結婚しない理由付けはいくらでもできるけど、結婚する理由はなかなか。ってことは、結婚の意味ってものはとても限られた、もしかしてこの世に一つしかない希少なものだから、なかなか見つけられないのかも」

「なーに、格好いいこと言おうとしてる?」

「けど結婚している人、このファミレスにもきっと大勢いるよな。考え過ぎか」

「そんなことない、参考になりました。私なんか、結婚したいって気持ちだけで突き進んだだけだから、時間が経ってはたと立ち止まることだってあるかもしれない。何のために結婚したのって。真剣に考えたら……やだなあ、憂鬱になりそう」

「憂鬱が似合わない女。お前はいつもってわけじゃないけど、大抵は笑顔でいられるでしょ。ガキんちょの頃にあった強気で我儘な感じが、年を取るたび、上手い具合に洗練されて顔つきに出てきてるんじゃない」

「本当? 優ちゃんも昔は他人を褒めることなんてなかったのに、変わったよね。いい感じ。優ちゃんも、色んな経験を積んで大人になってるんだよね」

デザートを食べ終わっても、二人は席を立とうとしない。難しい話の後は、共通の知り合いの近況や、もう何年も会っていない学校の先生との思い出話など、本心とは関係ない話題で場を繋ぐ。お互い名残惜しさを抱えるも、相手の気持ちまでは推し測れないでいる。

勇人がまたぐずりだした。アイスの魔力が解けたのだ。

「今日はありがとう、ご馳走様」

「もっと高い店でもよかったんだけど。もてなした満足度が水準に達してないよ」

「十分だよ。勇人もいるから高いお店だと迷惑かけちゃう」

「子供がいても安心な店はあるさ。例えば……そうだ、今度、うちのレストランに来たらいい」

「優ちゃんの?」

「勝手知ったる我が家みたいなもんだ。個室があるし、なんなら貸し切りにだってできる。こっちにいるのはあと数日程度? さすがにその間に招待するのは難しいけど、そのうち旦那さんも連れて来たらいいよ」

「ありがとう。イタリア式のテーブルマナー覚えとかなきゃ」

「あれ、マナーの原点は?」

「飢えた胃袋が暴走しないための装いである。あはは」

上原は二人を車で送り、それからは真っ直ぐ自宅に帰った。

唯たちといた楽しい気分がまだ残ったまま、「ただいま」と誰もいない部屋に帰宅の挨拶をしてみる。

しいん、とした部屋の反応に、これが自分の生活だったなと頭を切り替える。

死にたいというより、死んでみたいという表現の方が今の上原には合っていた。

あの世で死者の先輩たちと語らいながら、自分がいなくなった世界を眺め、確認するのだ。ちっぽけな命一つでもなくなることで、紛争や不幸だらけの世界に人知れず何か変化をもたらすのではないか、といった大それた社会実験をしようというのではなく、自分が死んだことに自分が耐えられるかを知るのだ。

耐えられればそのまま煉獄を歩き、耐えられなければ、やり残したことがあると捉え、生き直す。今の自分のまま生き続けるのには、正直飽きている。だから、生きるためには未知の目的が、それに迫る手段が必要だった。

 

ここで、あの女のことが好きなのでしょ、だったら奪い取って愛に生きればいい、なんて紋切り型の生き甲斐論を吐いてくる輩は、上原が忌み嫌う「運命人」の一種に過ぎない。自分の生き様に悩む中途半端な人間に対し、救われるため他人を巻き込めなんてアドバイス、よく言えたものだ。

まだ若ければ、周りを傷つけた結果から学べる余地もあるだろうが、上原も、もう三十五。三十五が悩んでいけないはずはないにせよ、やり方には注意を払いたい。

教育やライフラインにだって恵まれた国だ。だったら、この国で生まれ育った人間はよほどの例外を除き、三十年も生きてくれば正しいと主張できる価値観や哲学、タブーが形成・概成され、三十一年目からはその実践の時期に入っていい。実践の結果、修正の必要や間違いに気付いたら、修正すればいい、訂正すればいい。

しかし悩みとは修正・訂正の必要がないはずなのに上手くいかない、または、修正の仕方が見当つかないという厄介なもの。三十一年目以降にしてその厄介ものに出会ってしまったのであれば、それは、それ以前の思索や志操がいまいちだったから、と嘲笑を向けられても仕方ない。

「闇雲に進め」「後先考えるな」こうした、起こり得る結果より行為の熱量に重きを置き、それに満足する運命人は確かに、結果を見通せない深い悩みの中で無視できない魅力を放っている。

ただ、惹きつけられる理由が、「自分の人生の主役はいつまでも自分」との思い込みから来ているとみる評論があるのは、あまり知られていない。

 

続く

鉄血宰相ビスマルク傳 19 新帝国建設後の対外経綸

 

一四 統一の大業は平和的経綸の一手段

 

ドイツ帝国はかくの如くにしてビスマルクの胸算を追うてついに成り、爾来欧州国際政局の上に要位を占め、その反対に、勢威赫々たりし仏国は第二位に落ちた。

 

しかしてドイツの統一とほぼ時を同じくしてイタリーの統一あり、欧州の政局はこれに伴うて一大変革を示すに至ったのいならず、ドイツの統一およびその後の執りたるドイツの対外政策は、いわゆる『力即ち権利』の思想を助け、俗にいう軍国主義となった。

 

しかもビスマルクの当年の政策をもって、先の欧州大戦におけるドイツの大敗の素因と為さば誤まる。

 

ビスマルクは三回の戦役を経て多年企図せるドイツ統一の大業を達成するや、その次いでのの方針は、かく統一せられたる新帝国の基礎を盤石の固きに致し、かつその経済的発展を成就せんがため、長しえに平和を維持するの方針に全力を注いだ。

 

ドイツが三国同盟を作り、しかしてその牛耳を執り、欧州大陸における覇権を握るに至れるビスマルク外交政策は、一に欧州の平和維持によりて国礎を固め、経済上の発達を遂げて国民生活の安定および向上を計るの根本方針より打算されたものである。

 

ドイツの統一は、みだりに統一せんがための統一ではなく、統一してしかるのちに平和の経綸を行わんとするの手段であった。

統一の大業は、彼の政策の終点でなくしてむしろその出発点であった。

 

彼はいかにしてこの方針の下にその外交を運用したるか。以下章を改めてこれを述べる。

   

第五章 新帝国建設後の対外経綸

 

第一項 外交方針の新基調

 

一 列国の畏敬の焦点となる

 

ビスマルクは予定の三回の対外戦を経、その多年企図せるドイツ統一の大業を成就せしめ、その殊勲により老帝は伯爵の彼に公爵を授けられた。この昇叙は、彼の多年の与党たる保守党の反感を招き、それが一原因となりて同党と絶縁するのやむなきに至ったことを思ふと、彼とて有り難くなかったかもしれない。

桂太郎候の公爵昇叙が山縣公との乖離の基となったように、ビスマルクに対する『あの成り上がりものめ』との感は、期せずしてドイツの名門豪族輩の反感を買ったのは、いずれの国にも免れ難い現象である。

 

けれどもとにかく彼は、普仏戦役を終えて得意の絶頂に立った。

 

西諺に『成功ほどの成功なし』というのがある。確かにしかりで、当時より四五年前まで政敵からは勿論、宮中および官僚の間よりもややもすれば嫉視排擠を受け、いずれかといえば不人気の宰相であった彼ビスマルクも、今や国内にありては、よしんば一部には多少の反感者ありとはいうものの、だいたいにおいては上下の信望挙げて彼にきし、外よりは列国の畏敬の焦点となった。

 

ニ 不和と現状維持の要

 

されど彼は、ドイツ帝国統一の大業を実現せしむるまでは一に鉄血主義をこれ事としたが、ひとたびこれを実現せしむるや、彼はその政策を全然一変せしめ、すなわち新帝国の基礎を強固にしかつその経済的発展に力を注がんがため、爾後は専ら欧州の平和維持ということを外交の根本基調とした。

 

この着眼が彼の偉いところで、即ち既往三回の対外戦は漫然干戈を弄したのではなく、将来の平和政策樹立のための道程としたのである。

 

彼のドイツ統一の大業は、もとドイツの対外関係の上における自主と安全を期するに必要という見地に出発したのである。彼はこの目的を達するには連邦内部の不統一を刷新し、外に対して打って一団となることが必須の階梯である、しかしてひとたび対外関係の上に自主と安全を得たる上は、全力を内政の改善発展の上に注ぐを得べしと信じたのである。

 

同時に、対外関係上ひとたびその地歩を把握し得たる上は、列国に対してはドイツの企図するところは平和にありとのことを納得せしむるを絶対必要なりとした。

 

彼は、ドイツ統一の大業を成就するまでは干戈を要し、現状打破を要すと為して外交の運用をその方針の上に立て、しかして遺憾なく目的を達成した。

けれども既にこれを達成したる上は、今後は平和が必要である、現状維持が必要であると認め、一切の外交画策を一にこの見地より割り出した。

鉄血宰相ビスマルク傳 18 普王、ドイツ皇帝の冠を戴く

 

一一 講和漸くにして成る

 

戦局はパリの開城とともに大段落を告げた。まず二月二十六日正午を限りとする休戦の約成り、四月二十一日、ビスマルクは仏国全権チェールと相会してこれに講和条件を提出した。ようはアルサス・ローレンス二州の割譲と賞金六十億フランの要求である。

 

割地については、ビスマルクは当初意これに傾かなかった。割地を要求するにしても、これをアルサス――二百年前に仏帝ルイ十四世がドイツより奪取したる――のみに止めしめんとするの考えであった。

事実仏国がもしセダンの役後直ちに講和を請うたならば、割地はけだしアルサス一州のみにて済んだかと思わるる理由もある。

 

同州の首都ストラスブルグはラインの上流に位し、仏国よりドイツに入る最重要の関門である。仏国にしてこの関門をその手に握る限り、ドイツは軍をここから進めらるる虞があり、しかしてドイツはこれに対して防御の道が困難である。

ゆえにドイツがこの関門を己の手に収めんとすることは、その防御上よりして必然の要求である。けれどもローレンスに至りては、殊にそのメッツは、モーゼル河以東に位し、ドイツとしてはむしろ兵を仏境内に進むる上において攻勢上からみたる必要地たるに過ぎない。

   

けれどもモルトケ将軍は両州を軍事的見地からともに必要とし、殊にメッツは独軍の十二万に値する要害の地なりと主張した。

 

ビスマルクがアルサスとともにローレンスを要求し、仏国をしてついにこれを割譲せしめたのは、主としてモルトケ将軍の意見を尊重した結果である。けれども彼は、両州をプロシア領とすることはドイツ諸連邦間の嫉視紛争の種となる懸念ありとて強くこれに反対し、その結果両州はいずれの連邦にも専属せざる帝国領土ということに後日定まったのである。

 

仏国全権は右要求を苛重なりとて、その軽減方を強く要望し、その折衝に四日間を費やしたる末、償金は五十億フランにて折り合い、二十五日妥協ことごとく成り、翌日即ち二月二十六日仮条約の調印を了し、五月十日フランクフォルトにおいて確定講和条約が成立した。

 

そのここに至るまでの一百日間にわたる談判場の表裏、仏国当局委員の愛国的衷情の披歴、仏国の政情の大変転、ビスマルクの寛厳交々遣い分けの態度、最後の確定条約の幾たびか破れんとして漸く成るに至れるその間における双方責任者の苦心など、詳らかに叙すればそれのみにても一巻の書を成して余りある。今は煩を避けて略するとし、ただ面白い一事を記するにとどめる。

 

そは、談判の行き詰まりて容易に纏まらず、相手のチェールおよびファーヴルは相変わらず演説口調で滔々と論じ立てて際限がない。

ビスマルクは溜まりかね、これを遮りおもむろに曰く、『予は貴公等の雄弁には仏語にて対抗するを得ない、よって予は我が語にて答える』と。(仏語は彼堪能で、談判は初めから仏語でやってきたのである。)かく云って彼は、今度はドイツ語で逐一相手の所論を駁し始めた。

相手は充分に理解しない。

チェールは黙々たり、ファーヴルは起って窓外を眺むるのみ。

   

やがてチェールは紙片に何かを書き下し、これをビスマルクに示し、単に『閣下の意はここにあるか』と問ふた。見れば、ビスマルクの要求しかつ固く主張する講和条件の箇条書である。ビスマルクは、今度は仏語にて『正にこの通り』と答えた。しかしてその以上弁難なく、談判はそのまま妥結となったのである。

 

仏国の国民議会は、涙を呑んで右の講和条約を五月十八日をもって批准し、次いでドイツの出征軍は、六月十六日軍容堂々とベルリンに凱旋した。

 

初めビスマルクは、講和条約の成立とともに即時撤兵に着手すべく、遅くも五月中に仏国内よりドイツ軍を全部引き上げしむべしとの意見であったが、折からバーデン・バーデンに養病中なりし皇后アウグスタには、おのれも是非親しく凱旋式を見たいが、六月中旬まではベルリンに還御し難いから、凱旋をその頃にして欲しいという希望で、ウィルヘルム帝もこれに動かされ、理由を他に借りて撤兵の数週日お延期をビスマルクに求められた。

ビスマルクは撤兵は一日も速やかなるを要すと一再力諫したが、ついに叡意に黙従するのやみなきに至った。

 

老帝が我意を張られ、自分これに屈したのはこの時ばかりとビスマルクの自叙伝に面白く書いてあるから、些事ではあるがこれを書き添えておく。

 

十二 普王ドイツ皇帝の冠を戴く

 

これより先普仏講和条約の調印に先立つ同年一月十八日、即ちパリの未だ陥落せず、ドイツの大砲が日夜パリ城外に轟きつつありし間において、プロシア国王ウィルヘルムはパリ郊外ウェルサイユ宮の『鏡の間』、即ち爾後四十八年を経、ドイツが力尽して連合余国より講和条件を突きつけられたるその同じ大ホールにおいて、ドイツ諸連邦の君主の賛薦の前に、北ドイツ連邦議長の地位より進んで新たにドイツ皇帝の冠を戴き、これとともにドイツ帝国は新たに成った。

 

ウィルヘルムはこの帝冠を戴くについて、ドイツ連邦の二三の君主の思惑に顧念し、当初はすこぶる躊躇したけれども、ビスマルクは、北ドイツ連邦を拡張して一帝国を建設することはドイツの統一および中央集権のために絶対必要なりとの見地から、ひそかに不機嫌の連邦君主を説き、異議を未然に防圧してついにウィルヘルムを納得せしめたのである。

 

十三 議会における講和報告演説

 

同七一年五月十二日のドイツ帝国議会は、ビスマルクの講和報告演説があるというので、定刻前より議場も傍聴席も立錐の地なく、未曽有の緊張と好奇的気分がみなぎった。

 

やがて彼は満場の歓呼喝采に迎えられて登壇し、講和始末の要領を述べ、最後に『この講和は正当なる条件の上に築かれた講和である。予はこれにより恒久の平和が樹立せられんことを期待する。また仏国政府において条約の規定の実行するの力を有せんことを予は希望する』と結んで降壇するや、議場は再び割れんばかりの大拍手、大喝采をもってこれに應呼し、進んで彼の席に至りて握手を求め祝福を呈する議員引きも切らず。

 

この日の彼は、議院においてまさに凱旋将軍たるの俤があった。

鉄血宰相ビスマルク傳 19 新帝国建設後の対外経綸 - 片山英一’s blog