lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと③ 本心が読み取れない表情で耳の穴をほじる

着替えが終わった上原と斎藤は、それぞれの役割に就こうとする。

「じゃあ、一日よろしくな」

「ああ」

「あの返事は明日が期限だ、忘れてないな?」

「ああ……」

「そうか。若干暑くなりそうだ、水は冷ためでもいいかもな」

この二人が好きな映画に、ディナーラッシュという作品があった。あるレストランの一夜のせわしい営業とともに駆け巡る従業員らの人生模様を凝縮した秀作だ。

映画は長過ぎず熱くなれるのがいい、と語った映画監督や評論家がいるのかいないのかは定かでないものの、本当に必要なシーンだけを本当に必要な分だけ集めるのは至難の技。この見解には多くの人が賛同してくれるのではないか。そいつができるようになるため、振り返れば無駄だったことを選択してしまうのは結果的に必要なこと。そんな熱弁をしたら、せっかく得た理解者から今度は煙たがられること受けあいで、さらに、人生にはある程度長く生きなければ辿り着けない境地がある、と説教じみた指摘までしたら、偏屈扱いはもうすぐ近く。どんな話題や教訓も伝え方は常に難しい。

このように、長過ぎず熱くなれる映画には物語の余白を想像させたり、余韻を幾重にも解釈させようとしたりする効能があり、上手く働けば、思考を豊かな重層構造へと導いてくれる。

 

上原と斎藤には共通の特技もあった。目の前の物事に集中しながら、リズムの裏打ちの如く、二つの思考を同時進行させられるのだ。

正確を期すると、裏打ちの思考の動きは「進行」ではなく「発酵」「錬成」「養生」の類といえた。二人はいつからできたのか、あるいは心掛け次第で誰にでも可能なのか。いや、重要なのはそんなことではない。求めるものがあるのに手に入れられない焦燥感が、脳みそに技巧の発揮を余儀なくさせている。培った思考が重層構造であればあるほど、技巧の負荷は心に重くのしかかり副作用となった。

斎藤の場合は、若いシェフの未熟さに自身の末路を重ねている。まだまだ発展途上の彼らのように、自分も誰かから見れば一人前に届いていないのではないか……。新たな行動を起こそうとする時につきものの不安が、想定内とはいえ、斎藤の精神を消耗させた。

「間、こっちを頼む」

「はい」

「よし。安西、ソースを」

「はい、えっと……」

「どうした、早くしろ」

真実と同じ若手のシェフ、安西豪太(あんざい・ごうた)は斎藤の調理のスピードとイマジネーションについていけず、動作が一瞬止まった。すぐにリスタートした安西だったが、斎藤は不満だ。

「次」

「はい」

真実も必死だ。天性のセンスは安西より上でも当然完璧ではない。それでも輝いて見えるのは、追いかけるものがあるのが嬉しく、苦労も冒険だったから。真実と安西の差はこの数日でぐっと広がっていた。

この二人の姿が、何やら世の中の縮図のような気が斎藤にはしている。出来のいい者と出遅れている者。誰もが出来のいい者であろうとして、なかなかそうはいかず、時に自分の人生の限界を決める理由にもなる。

斎藤にはそれでは困るのだ。

「おい、安西」

「はい……」

調理の合間に安西を呼び、これまでの失態で特に注意すべき点を指摘する。怒り過ぎてはいけない、これが「お叱り」であることは相手も重々承知している。反省の中に自覚と自立が同居するよう言葉と威厳を操るのはひどく疲れるから、上に立つ者には相応の度量が求められるのだ。上手くやれているかどうかは相手次第というから、年を取るのは余計煩わしい。

「…はあ」

「大丈夫ですか。最近たるんでますよ、私にも分かります。悩みでもあるのですか?」

「そういうわけじゃねえんだけど」

「わけはあるんですね」

「うるさいやい」

真実は安西より年下だが、真実にその遠慮はない。安西は斎藤の背中を見て、また小さくため息をついた。

執務室では、支配人の多々良浩一(たたら・こういち)が頬杖をつき、先月の売り上げ結果を眺めていた。

「ふうん」

本心が読み取れない表情で耳の穴をほじる。指先の耳垢をふっと吹き、今度は鼻をほじろとしたところで、給仕が一段落した上原が入ってくる。

「フロアはどうだね」

 

「多々良さんが揃えた優秀なスタッフのおかげで、いつも通り。この調子なら僕がいなくなってもへっちゃらですね」

「ぶははっ、何をおっしゃる副支配人。君がいなくなるようなことになったら、オーナーが腹いせに私を首にするよ。今夜の予約に、例の社長ご夫妻がおったはずだけど、ご様子はどうかな」

「今日はお二人の結婚記念日だそうで。旦那様が奥様をもてなす機会に貢献できて、こちらとしても光栄な夜です」

「結婚記念日か。なるほど、結婚を記念する日ね、そうかそうか、ふん、あの年で私だったら真っ平ごめん被りたいイベントだ! あちらは羽振りがいいのかなあ、新聞やニュースを観ていてもこの国の実態はよく分からんし、信じられるのは己自身のみさ。女房のために結婚記念日を祝いたい気分じゃないねえ。私の女房も若い頃は肌が白くて適度に豊満で、髪だってつやつや、家に帰るのがあれほど楽しかった時期はなかった。幸福と快楽が黄金比で調和してたもんだ。迂闊に年は取れないよ、ねえ上原君、迂闊に年を取ることだけはあっちゃあならない。ご夫妻のコースはどこまで進んだの? そう、折を見てご挨拶に伺わなくちゃ」

「気になるのは料理が出るスピードですね。普段と比べ遅れ気味な気がします。実はここ数日そんな傾向を感じ取ってはいたんですが」

「何だって? 問題に気付いていたのならきちんと指摘してくれなきゃ困るよ」

「時間を置かないことには、こちらの気のせいという恐れもあるので」

「ふむ、厨房には厨房のやり方もあるからなあ。支障が出てるわけじゃないのなら放っておくか。上原君、これはいい意味でだよ。世界をぐるりと見回してごらんよ。身の毛もよだつ不幸があちこちで幅を利かせてる中、料理のスピードや味、店のサービスがどうのこうのなんてね、取るに足らんことじゃないかい。いや、私の立場で元も子もないな。上原君、これもいい意味でだからね。あーあ、とっとと今週を終えて、休日は家庭菜園に没頭したいもんだ」

また執務室の戸が開き、給仕スタッフの一人、唐玲子(から・れいこ)が現れた。

「唐君、どうしたんだい?」

「一服しようと思って。支配人もどうです」

玲子は煙草に火をつけ、別の一本を多々良に差し出した。

「私はいいよ。困るなあ、ここは喫煙室じゃないんだよ」

「禁煙でもないですよね。オーナーもこの部屋でたまに吸っていますから」

「本当かい? それでか、この部屋が徐々にやに臭くなってきたのは」

多々良は鼻をひくひくさせた。

「私はきちんと消臭していますよ。何をご覧になってらして、帳簿? へえ、私にも見せて下さいよ」

「駄目駄目、これは責任ある立場の者だけが触れられるものだよ」

「そうですか。まあ、帳簿なんかいちいち確認しなくても大体の察しがつきます。世間の質を観察してれば」

「支配人、それじゃあ自分はこれで」

「副支配人も一服どうです。上原さんは、お煙草お吸いにならないんでしたか?」

「ああ、君もほどほどにね」

「今夜はオーナーが様子を見学に来るそうです。斎藤さんにも先ほど伝えておきました」

「そうかい、ありがとう」

上原が去り、玲子は気兼ねなく煙を吐いた。

「オーナーが来られるってのは本当なの?」

「ええ」

「どうして先に私に教えてくれないんだ、私は支配人だよ」

「それは、あの二人がオーナーを嫌ってるからですわ」

 

続く