四十手前になり、無理やりにでも自分自身について振り返ってみると、意外と宗教色の強い人間かもしれない、と思い至るようになった。
うちの両親や親戚は、天理教を信仰している(していた)。
括弧書きで、していた、と表記するのは、父親がもう天理教なんぞやめた、と豪語しているからだ。
気持ちは分かる。
長年、信者の端くれであったにもかかわらず、立て続けに意にそぐわぬことが身の回りで起こり、これ以上に信仰する気が失せたのだろう。
親父は天理教と信仰の意味を誤解している、というのが子どもの眼から見た率直な批評だが、まあ気持ちは分かる。
宗教の種類にかかわらず、信じる者は救われる、そうであるはず、といった刷り込みは世間の、いや世界の定番なのだ。
自分を天理教の信者とは思っていない。
少年時代、天理教の行事ごとの手伝いなどに駆り出されはしたが、それは深い信仰心からではなく、親の命令や、親戚の頼み事であったからに過ぎない。
それでも、身近に宗教の色合いがあったのは確かであり、その意味で、平均的な日本人より宗教的感覚の醸成は強いといえそうだ。
ここで言う、自分なりの宗教的感覚とは「自分の存在意義を上回る絶対の価値がこの世にはある、ありそうだ」という予感を指す。
天理教風にいえば、親神様、親様といった人知を超える存在、あるいは人知を超えた存在に見出された者への思慕や崇拝。
自分の場合は、この世にあるかもしれない絶対的価値を「神」といった具現化した存在に投影することがどうしてもできず、内面の倫理観や正義感といった形に落ち着いたように思う。
誰しもが、それなりの倫理や正義は持ち合わせいるだろうが、自分を犠牲にしてでも、その倫理・正義を貫かねばならぬ、とまで思い詰めるケースはどれだけあるだろう。
本当に試したことはないかもだが、自分にはその気がありそうだ。
だから、他人から見たら、自分の言動には、いささか過剰だったり、偏重気味だったりする理合いが含まれているだろう。
酒場で披露したら、友人には結構楽しまれる一方、プライベートの付き合いの深くない、職場の同僚、上司などには奇異に映るのも道理だ。
この可能性に思い至ったのはつい最近。
実は、己の存在理由の根本を決定的にした出来事は全く別にあるのだが、その当時の出来事をここまで真剣に内面に張り付かせた動力については、あまり考えてこなかった。
自分は元々そういう人間。そんな幼稚な決めつけしか持っていなかったのだ。
しかし、幼少期から知らず知らず、宗教色の強い環境に浸っていた事実を客観的にみれば、神の存在は肯定できぬとしても、「絶対の何かはありそうだ」という感覚だけは心体に深く根付き、その発現の機会をうかがっていた、と今になって考えなくもない。
だからなのか。
宗教的感覚(自分の存在意義を上回る絶対の価値がこの世にはある、ありそうだ、という予感)の薄い平均的なジャップに、嫌悪をもよおすのは。