ワクチンより、馬鹿に付ける薬を、できるならとっととつくってほしい。
昔、日本に医学生として留学していた魯迅は、日本人に辱められる中国人の同胞を一緒になって笑う同胞をみて、こいつらの精神を治すには医学では駄目だ、文学しかない、と思い、文学の道を歩んだ、とかどうとか。
粋な時代。
文学こそ、馬鹿に付ける薬だったのだ。
そんな気風も遥か彼方。
科学技術の強みは、その不可逆性にある。
一度開発された知識が失われることはない。
例えば核、今回のワクチン。
どんなに危うさを秘めたものであっても、ひとたび公になった知識が白紙になることはなく、人類はその知識を基に、新たな知識をつくろうとする。
一方、文学、あるいは哲学や思想。
こちらは科学と違い、簡単に逆戻りする。
その考え方は、ソクラテスやオルテガや福沢諭吉らによってとうに認識され、克服されているにも関わらず、アンデッドのように何度も蘇るのだ。
「文明開化は有形のものより、無形のものがずっと難しい」(福沢)とはよく言ったものだ。
まさにその通り。本当に卓越した知識人であったろう。
科学技術は、それを生かした製品・仕組みが世間に行き渡ることで、一般大衆目線においても不可逆性を獲得する。
しかし、思想の濃度は人によってあまりに違い過ぎるから、こっちが頑張って濃くしても、大多数の薄い方へと色が流れていってしまう。
薄さを求めるのが本性なのかもしれない。
福沢諭吉も、近いうちに一万円札の肖像から消える。
このインパクトは、個人的に安倍元総理の死亡よりずっと大きい
いよいよ、馬鹿に付ける薬の元すら消えようとしている。