lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

エッセイ―世界に自分を知ってもらうより、世界を知るほうがラク。

ふと思う。

大昔から伝えられる神様とか、妖怪とかいう存在は、物事の道理を庶民に分かりやすく伝えるための当時の弁法だったのではないだろうか。

今でいう、論理的にとか、客観的にとか、科学的にとか、統計的にとか、そんな教育・教授のための手段の一種ではなかったのだろうか。

 

そう考えると、迷信めいた教義や逸話も、困難な時代で備えるべき一般常識や道徳を説こうとした、当時の賢者たちの箴言にも思えてくる(そういう場合がある)。

   

人類が培った認識力は重層構造にある。論理も科学も、その一つの階層にすぎない。我々が依然として宗教、芸術、文学、音楽などに興味を持つ、持っていてよい理由がそこにある。

 

実際、言葉は虚しい。言葉より、ただ金があるだけで救える苦しみは多い。

「私にはその金がなく、彼にはある」

きっと三百年前も、ふと誰かがそう考えただろう。

文明は進化しているはずなのに。

 

いや、それなら、苦しみも進化しているのではないか。言葉の虚しさも、今と三百年前とでは形がちょっと違うかもしれない。性懲りもなく、今日も言葉を紡ぐ理由になりはしないだろうか。

 

かつて、憂鬱な世の中を指して憂き世と呼んだ。「憂鬱の原因は個人の病ではなく、世間にある」という庶民の達観であったろうか。

今では、そんな困難に窒息しないための便利な知恵も世間で薄まっている。日本人が残念なのは、こうした無意識の社会観が学問になり得るとはつゆ知らず、明文化された西洋哲学や社会学にとって代わられたこと。
 

悪いのは自分ではなく世間だとかあまり言い過ぎると、テロを誘発するなんて警告もある。

しかし彼らは、世間が悪いからというより、正しいのは自分なのだという憤怒で動いているのではないか。

もしくは、世直しのためのやむにやまれぬ狂乱というより、うだつの上がらない自分への慈愛、といった見方のほうが当てはまるのではないか。

 

彼らは、世間を見ていないし、世間の構造を具体的にイメージできていない。具体的なのは自分の感情だけだ。目の前の人混みを世間に仕立て、感情を原動力に体当たりする。感情むき出しでは野蛮だという文明人の矜持も少しはあるのだろう。ときに神、ときに歴史問題、ときに優生思想などを持ち出して、理性を演出しようとする。

高学歴の者なら「暴力とは、理性が激高した形だ」と、かつての知識人の言葉だって引用するだろう。

しかし、激高した理性がもたらしてくれるのは、暴力だけではない。諦めに虚無感、毒舌、皮肉、ブラックジョークだって激高した理性といえる。暴力は、臭わせるくらいがちょうどいい。

 

もし、どうしても暴力を振るうなら、被害者はできるだけ少なくする。それが理性だ。

世間の構造を理解しているテロリストなら、政治家や著名人を一人殺せば十分だと思うだろう。認識力でさらに上を行く手練れのテロリストなら、自殺して世界を消す。
 

自分のことは自分で決めろと言われるし、できればそうしたいけど、誰かに決めてもらいたいと思う自分もいる。

結論を出すことと、結論通り行動に出ることでは、また違ったエネルギーがいる。前者は、すでに決まっている思いを何度も再確認する煩わしさ、後者は、とにかく色々面倒だという煩わしさをねじ伏せなければならない。

 

死にたがることで、うまく行くことだってあるかもしれない。

 

うまく生きられないから死にたいだけでしょう、と誰かに説教されることもある。それもそうかもしれないが、すべてではない。

ここまで生きてきて、世の中がどういうものか大体知れた。そこに満足している面もある。

 

それより、この世には、死より恐ろしいものがある。臆病風に吹かれ、逃げ出すのがその一つ。

 

子供は父親がいなくても育つ。どう育つかについては保証しかねるが、育つことは育つ。身近な実例を二人知っている。

 

例えば、「彼」の父親は立派ではなくとも上等だった。ある日「彼」は、臆病風に吹かれ逃げ出した自分を恥じ、せめて叱られることで罰を受けようと思った。そんな「彼」の、卑怯な懺悔を察したのだろう。父親は「そうか。そいつは情けなかったな」と一言発しただけ。この瞬間、「彼」は悟った。俺はもう絶対に逃げない。小二の夏ごろだった。

 

親は子供の衣食住において、最大の助けとなるのは間違いない。人間が欲深いのは、ひと一人の人格が出来上がるには、親の提供物だけでは物足りないという点。

だから、子供たちのために働いている、と豪語するお父さん方は考えを改めよう。子供に必要なのは父親が稼いだ金銭ではなく、父親が残してくれた勇気だ。

   

これだけ格好つけておいて、結局何もできずにお終い、という末路は十分なんてもんじゃないほどあり得る。しかし、そこへ突き進み挑戦しないと、もはや生きてゆけなくなった。過去から培ったすべての力を出し切る以外に打つ手はない。

 

大成功までは望まないが、あっさり失敗するのも格好悪い。ほどほどに延命する程度で構わない。

 

驕りはあっても、強欲ではない。絶望の押し売りはしないが、希望の安売りもしない。一肌脱ごうと思えば、誰かのための解釈を自在に使いこなす。せめて、そういう人になってみたい。

 

(終)

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