そろそろ決着をつけよう。
上原、斎藤、フランチェスコの三人が初めて同じ覚悟を共有した。フランチェスコの場合は覚悟というより大人の遊興といったところか。
「真実はやらないよ」
穏やかに強調した。彼には自信がある、真実を留めておく自信が。すべてを提供してやればいいのだ、彼女に都合がいい条件をすべて。オーナーだからできる力技だ。
上原たちがおそらく寄って立っているだろう、思いや言葉を解釈する力など、本当の力の前では素人の読者モデルみたいに儚い。
権力。それこそが、この世で人間の強弱を決める因子だ。筋力をいくら鍛えたって、知力をいくら磨いたって、現金がいくらあったって、優しさをどれだけ身に付けたって、多くの人間の行動を統べる権力には敵わない。誤解がないよう忠告しておくが、この思想、フランチェスコは決して気に入っているわけではない。嫌な記憶だって思い出す。だが、他にやりようがあるか?
人はいずれ死ぬ。生に長短はあれど、死という終末は平等に訪れる。そう、やはり人はみな平等なのだ。簡単な理屈だ。高等教育で教わるまでもない、つまらない屁みたいな事実だ。だったら、支配されるなんて馬鹿らしいし、支配する優越感に浸り続けるのも低俗だと結論付けられるだろう。この程度の分別はフランチェスコにだってある。だが、支配する側とされる側の二カ所しか選べる道がないのであれば、誰だって前者を選びたいはず。だからそのために忍耐し、無駄な知識だって取り入れて時期を待った。
他にやりようがあるか?
もし心の底から望んだ人生を手に入れられるのなら、今からでも願いが叶うというのなら、俺は、本当は……。
ふふ、詮無いことだ。今は目の前のゲームに負けないこと。圧倒する必要はない、負けないことが大事だ、そこに集中しろ。
「君たちは彼女を不幸にする気か。見通しのない新店舗に招き入れ、有望な料理人の将来を潰すことにもなりかねない」
「無理に連れ去るつもりはありません。しっかり話をしたいだけです」
ここまでの経緯は、安西のおかげで斎藤も知っている。いないところで話を進められたわけだが、異論を唱える気はなかった。これまで好きなようにやってきたのだ、流れに任せるのも悪くない。いや、本心では自分の意思など及ばない状況の荒波に飲まれ、あくせくしてどたばたして、いつの間にか死んでいく、そんな人生を望んでいたのかもしれない。
「斎藤君、君も真実を引き抜く気か? 僕には意外だが」
「上原が説明した通り。他に何もありゃしない」
店の営業は既に終わり、店内には三人だけ。誰も本音を隠す必要はない。
「真実が自分で選ぶのなら仕方ないことだ。そんなことにはならないと思うがね。ところで君たちはどうするつもりなんだ。金の見込みはあったのだろうが、店はどこで出す? 斎藤君が見つけた物件は今や僕のもの、ヴェッキオの二号店のためのものだ。後釜がすぐ見つかったとも思えんし、もしそうなら……ふふ、分かるだろ、僕はやる男だ」
「あの物件は、ここの二号店には狭過ぎる。お前ははなから次の店を出す気なんかない、それどころか、この店を続ける気があるのかも怪しいと俺は睨んでる」
「よく言われるよ。僕にはやる気があるようには見えないってね。学生の頃所属していた音楽サークルで、一番練習していないと思われていた僕が、一番ギターが上手いと明らかになったあの瞬間は、実に愉快だったよ」
「俺たちはやると言ったら必ずやります。成功は保証できないけど、殺されるまで死にはしない。それは彼女にもしっかり伝えます。あとは彼女が決める、そうすべきでしょう。理想と現実。永遠に変わらないだろうこの拮抗と葛藤に立ち向かえるのは、成長した己の意思だけ。成長を疎かにしていた人は、仕方ない、諦めてもらうしかない。
俺たちは、俺は決して優しくなんかない。
もうずっと、優しさとは違うものを追っている。間さんには確かな意思がある。彼女を特別扱いする理由はそれが一番大きい」
「面白い見解だね、ただ抽象的だ。上原君には生きるに十分な理屈かもしれないが、普遍性があるとは思えん。特に女性はね、生活を重要視するからなおさらさ。これまで一見して破天荒そうな女性と付き合っても、例外だったことはない。
今夜僕が連れてきた女性だってそう。道徳的でない男遊びにどんなに明け暮れても、破滅は望まない、一日でも長く生きたいと欲求するのが彼女たちだ。
そんな偽りのアブノーマルに屈した女たちと遊ぶのが僕の息抜きなんだよ。ああした類の女といると、自分がまともに思えるのと同時に、やはり世間は下らないなと確信し、精神の高尚な領域を維持していける」
「下衆な話を格好つけて言いやがる」
「ああ言えばこう言うのはお互い様だろ」
「がたがたうるせえよ。俺たちは俺たちで勝手にやる、あいつも勝手に決める。邪魔しようっていうなら、これはもう殺し合いにだってなりかねない」
「いいね。僕はそういう考えも好きだ。調理場での斎藤君はまさにパーフェクト、精密機械のような技を見せてくれるけど、こうして調理場を離れた君は実にシンプルなんだよね。だからさ、足元だってすくわれる。もっと上原君に頼っておくべきだったね、君は」
「鼻にペペロンチーノ詰めてやりたくなってきた」
「一度離れた道は二度と交わることはない。そもそも多くの人が同じ道など歩いちゃいない。オーナー。俺が元々料理人を目指していたのはご存知でしょう。なぜ諦めたのか、噂話が勝手に飛び回ってるのは知っています。斎藤には勝てないと思ったとか、指を怪我したとか、プロの味覚に恵まれなかったとか、努力に時間を費やすのを恐れたとか。それね、どれも当たりです。
俺が目指してたのは料理人じゃなかった。だから諦める理由は辻褄さえ合えば何でもよかった。
俺が目指してたのは、そうしてあれこれ思い悩んで認識を高めて、世の中の真理なるものの一部でも掴み取って、適当な年頃で死ぬこと。
そのため、すべてが人体実験みたいなもんだったんです。これまでも、これからも変わらないはず。もう実験する必要はないかもしれないと予感しながら、死ぬまで生きる。俺には他にやりようがない」
「その見解、君のあの可愛らしい彼女は知らないだろ。知ったらどうなるかな」
「それは俺も知りたいですよ。自分から聞く気はないんで、代わりにやってくれますか」
「いいね、その目。絶望に浸ってはいない、希望に眩んでもいない。平衡。無理に現状を保とうとするという意味での平衡ではなく、様々なものから侵略され、削ぎ落され、それでも消えずに残り続けたもの。人間の平衡感覚とはそうでなくちゃならない。
斎藤君、君に分かるかい。どうやら僕と上原君はかなり似た人種のようだ。違う形で出会っていたらどうなってたかな」
「詮無いことでしょう」
「だね」
この二人の冷戦に決着はつかないな。斎藤の力みがふっと抜けた。
……いつの間にか傍観者、脇役になってやがる。ことをおっぱじめたのは俺なんだがな。
人の役割は状況によって変化し得るものだ。志は変わらずとも働きは変わると唱えたのは福沢諭吉だったか。いやはや、年を取ると昔の人たちの言葉が骨身に染みる。本人に長生きする気はなくとも、他人に若死早死は推奨しない理由だろう。
二人が似ているという発想はないわけではなかった。他のスタッフは誰もそんな風には思っちゃいないだろう。
二人とも信頼がある点は同じだ。公平に見て、フランチェスコは危機にも動じない、上原は危機を共有してくれる上司としての魅力がそれぞれある。確かに、この二人が本当に力を合わせることができたら、自分といる以上の成果を出すこともあっただろう。自分と上原では、助け合うことはできても相乗効果を生まない。力が倍々に掛け合うには価値観に共感できるとか、気の置けない間柄だとか、そんな穏やかな意思疎通では駄目で、互いに相手を凌駕するような、ある部分ではすべて委ねてしまえるような、いわば崇拝に近い感覚を抱けることが必要だ。
……上原は俺の腕を褒めてくれるが、俺には過ぎた同志。
だからこそ手放したくはない。姑息だろうか、卑怯だろうか。しかし、恩は必ず返すつもりだ。
上原も、自分勝手だが律儀な斎藤の気質は分かっている。戦友は戦場でなければ得られないから、戦争未経験者の自分(この先は分からないが)は、手の届く状況を尊重し、友との在り方を鍛え上げなければならない。そう思える対象がいるのは恵まれている。さらにいい女がそばにいれば、周りが羨む人生には王手をかけたようなものなのだろう(自分で羨む人生になるには別の戦いに始末をつける面倒が残っている。ああ、こいつさえなければ人生なんて楽勝なのに)。
フランチェスコには真実を手なずける自信が依然としてあった。
口が渇き、お気に入りのワインを開け二人にも勧めたが、断られたので一人で飲む。……不味い。
味覚は正直な物差しといえる。精神の淀みを、美味いか不味いかで教えてくれるからだ。淀んでなどないさ、と否定してまた一口。味は変わらない。
……笑えるじゃないか、どうやら俺は不安を感じているようだ。この調子なら、今夜は一本飲み干しても素面でいられる。
同じ夜をもう何度経験したことか。
俺の原風景、こんなものさえなければ……。
上原は己の意思だけが現実と理想に立ち向かえると話したが、自分の意思ではどうにもならない、後悔すらさせてくれない事象も時にはある。そいつに出会ってしまった瞬間から結末は決まるのだ。
人間は限界を超えられない。限界を超えた時、人は死ぬのだ。この確信からは逃れられない、逃れる気もないのだ。
押し問答はさらに十往復程度続いた。フランチェスコはほくそ笑み、斎藤が「がたがたうるさい」と一喝してようやく終い。こんな時、乱暴さは非常に役立つ。あの高名なガンジーだってこの程度の暴力性なら否定すまい。
上原と斎藤が表へ出ると、唯が待っていた。後ろには安西に玲子、少し離れて真実もいる。どうやら全員ほろ酔いのよう……いや安西と、珍しく玲子までがへべれけのようだ。
「お疲れ様」
「待っててくれたんだ。お友達は帰ったの」
「うん。一人で帰ってもらった」
旦那に浮気がばれ、激昂した電話が鳴りやまなかったことは伏せておく。今まで感づいてなかったはずはないだろうが、堪忍袋の緒は遅かれ早かれ必ず切れるものだ。悪癖を除けば朱美は面白くていい人だし、憧れる面もあったから、付き合いは多かれ少なかれ今後も続くのではないか。お互い人を好きになる、大切に思うことに未熟だから失敗もする。そんな同じ穴の狢だから。
上原にはいつか打ち明けたい。誰にも劣らない言葉と強弱で、解釈の余地がないくらいに正確な自分を自分で伝えたい。
上原を好きな理由はいくらでも思い当たる。最初からその感情に殉じきれなかったのは、自分が相応しいと思えなかったから。肯定と疑問を比較して疑問の割合がずっと大きく、別の物語を探したからだ。この先も疑問が消えることはないし、シングルマザーの弱気が男を求めるのだと嘲笑される、そう自虐する瞬間は断りなしに襲ってくるだろう。
唯にとっても挑戦がこれから始まる。子供を巻き添えに、何が待ってるとも知れない日々へ……。
この問題は、母親が悪役にならない限り答えは出ないのではないか。強がりと悪。離婚する前は目を背けていたふしだらさえ使いこなし、唯のステージは一段高くなる。
「ここが優ちゃんを育てたお店なんだね。最後に来られて嬉しかったな」
「あんな形で来店してもらうことになるとは。俺は有言実行には向かないかな」
「じゃあ、不言実行。有言実行は単純な私が引き受けます」
「馬鹿」
「ええ?」
「もうお二人さーん、顔を合わせて早々、いちゃくのはやめてもらえましぇーん」
安西の下品な口撃が入る。同調して「上原さーん、結婚する前に私ともキスして下さーいな」と玲子まで醜態を晒してきた。
「汚物二匹は下がってろ」
「何ですってー。ふん、斎藤さんはホントご立派でいらっしゃる。ご褒美にキスして差し上げます」
「この女、いつからこの調子だ」
「どうかな、突然スイッチが入ったような。あっ、初めまして坂下唯と言います」
「いや、こちらこそ初めまして。斎藤一二三です」
「お店の料理長さんですよね。真実ちゃんから伺ってます」
「そうですか。おいこら、いい加減にしないと、そのみっともない姿、ネットに晒すぞ」
「玲子さーん、キスなら僕にして下さいよー、お願ーい」
若干カオスな状況を、真実は申し訳なさそうに見つめている。唯が上原に耳打ちした。
……彼女の気持ちはきっともう決まってるから。
どう決まってるのか。それは(経験と思慮に裏打ちされた)直感で判断し得る。
「待て」
斎藤が上原の肩を掴んだ。「俺が代わる」
ぎりぎりセーフな、近所迷惑な喧騒が続いた。壁越しに気配を感じ、フランチェスコは苦々しくグラスを睨んだ。
◇◇◇◇◇
三々五々の帰り道、上原は甘い物が欲しくなり、深夜営業している中華屋に寄って胡麻団子と杏仁豆腐を買った。
「食べる?」
「一口」
路上の車中で一緒にもごもご、血糖値が上がる。
「何だか、安い食い物ばっかり奢ってるよな。こんなはずじゃないのに」
「そんなことないじゃない。カレー美味しかったよ」
「素人に毛が生えた程度のね。新しい店には、俺から必ず招待する」
「楽しみにしてます」
「医食同源、杏仁豆腐は体に馴染むな。その前に指輪も買わないとな」
翌日、上原の耳に訃報が届く。斎藤からだ。あの常連の老紳士が亡くなったとの報せだった。患っていたのは聞かされていた。しかし、どうやら自殺らしい。
唯の温もりがまだ残るベッドの上で、上原は彼との最後の会話を思い浮かべた。こちらがすったもんだやってる間に、料理でもてなしたい人が死んでいく。もうこれで何度目か、その虚しさが上原をまた強くする。
……これ以上強くなったら無敵になっちまうな。
「どうかした?」
遅い朝食を作ってくれた唯の笑顔だった。幸福な現実が、今はベッドルームのドア付近に佇んでいる。
「ありがとう。よっしゃあ、ちゃちゃっと平らげちゃおう。勇人もお母さんが恋しいだろうし」
「ええ、味わって食べてよね」
「ごめん。ねえ、唯」
「うん?」
「俺は、君を幸せにするまで死ねない」
「はい」
気持ちが通じる心地良さもあれば、通じない相手との相克もある。今日は安西の進路相談(?)にも応じなければならない。フランチェスコがまた黙ってないだろう。
人生は多様で複雑過ぎる。到底すべてを把握することなどできないから、幻想が不足を補うのだ。あの老紳士は絶望に沈んで逝ったのか、それとも現世を達観して去ったのか、はたまた正しく生きようとする情熱が強過ぎ、身を焼いたのか、もしかして虚しさを抱えながらも生来の情熱は消えず、徐々に体を締め付けられていたのかもしれない……。
幻想の答え合わせはできない。確かめるには、こちらも死んで故人と再会するしかない。
まだ死ぬわけにいかないのなら、楽しみに取っておこうと上原は心にしまった。
終わり