lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 17 お話にならず

一〇 作戦上の優劣お話しにならず

 

外交関係がかくプロシアにとりて有利であったに加え、作戦上の優劣に至りては、普仏両軍の差異はほとんどお話しにならなかった。

 

仏軍は装備において欠陥だらけで、その堂々たる軍団中には、単に紙上の軍団で実態にないものもある。

軍隊輸送のことなどは平素充分に研究してなく、諜報機関の施設に至りては皆無に近い。

兵器の如き、歩兵銃は独軍のそれに勝るものを有したが、大砲に至りては独軍に劣り、騎兵の編成運用もまた独軍に劣った。しかもその劣勢を補うべき士気なり訓練なりは、独軍の旺盛に反比例で一層甚だしく欠けておった。

   

要するに当年の腐敗せる将校によりて率いらるる仏国軍隊は、準備あり組織あり、しかしてこれを統御するに一代の智嚢モルトケ将軍をもってせるドイツ軍隊に匹敵すべくもない。

まして最も大切なる軍事と外交の連絡協調は全然これを欠き、その上に統一なく、議会はみだりに軍の作戦計画に干渉し、軍国百般のことことごとく機宜を失する始末であったから、さすがに勢威を張れる仏国も、戦局日に不利を示すのは自然の命数であった。

 

独軍は仏軍の本営所在地のメッツを八月中旬重囲に陥れつつ大部隊を長く北進せしめ、九月一日セダンに迫り、市街の砲撃に着手した。

ナ帝はついに降伏に決し、プロシア国王宛の書簡をモルトケ将軍の本営に送った。

 

将軍はこれをもたらし来たれる軍使を引見し、その降伏状の中にある『予は予の佩剣を陛下の手中に委ねる』の一句を指摘し、『この佩剣とは仏国の剣なるか、はたナ帝その人の剣なるか、もし前者なりとせば、降伏の条件は自ずから異ならざるを得ず』と問えるに、軍使は『そはナ帝の剣のみ』と答えたので、この降伏は仏国の降伏でなくしてナポレオンその人の降伏として取り扱うことになった。

 

翌払暁、ナ帝は馬車を馳せてビスマルクを普軍の本営に訪ひ、両雄の詩的会見あり、かくてナ帝は麾下の将卒――元帥マクマホン以下将官四十名、兵員八万余という史上空前の大降伏――と共に捕虜となった。

 

仏国は元首を失い、政府も崩壊し、国民適従するところに惑うた。

やがて国防政府なるもの成り、パリの守備軍司令管トローシュは総理に、ガムベッタは内務長官に、ファーブルは外務長官に就任し、チェールこれを補佐することとなった。皇后は太子を伴うて英国に蒙塵した。

 

戦局は日にますます不利を重ねた。国防政府はついに意を決し、講和の居中調停を列国に探求した。けれども奏功しない。そこで英国の周旋にて直接講和談判に入ることとなった。

   

九月十八日のファーヴルとビスマルクの会見、一は敗戦国の一法律家で一は戦勝国の大外交家、一は演説口調で感情に訴え、一は冷静鉄の如く、理議を説いて要求を固執せる、その虚々実々の折衝、まさに一場の好演劇、好画幅であるが、これが細描は今略し、その後十月七日、ガムベッタはパリの囲みを突き出で、仏軍いささかふるいしも、実は燈火まさに滅せんとして一時光を増せしに過ぎず、同月二十七日メッツは開城し、十七万の仏兵ことごとく捕虜となった。

 

十一月一日チェールは独軍の本営に赴き、ビスマルクと相会して休戦談判に入り、二十八日間の休戦が成立した。

されど講和の条件妥結せず、休戦期間も切れた。翌七一年一月、独軍は進んでパリを攻撃し、ついに同月三十日をもって開城せしめた。

 

かくいえば、独軍はさながら無人の境を行ったように見ゆるが、実際は独軍のほうにもかなりの苦しみはあったのである。セダンの役からパリの陥落まで四カ月とは、割合に長くかかったものだ。

かく長引く間には、開戦の当初には懸念のなかった列国の干渉も、ぼつぼつ起こりそうな気合いも見えてきた。

 

ことにイタリー国王エマヌエルは、ややもすれば仏国に同情する態度を執らんとし、英国にも同様の言論は現れ、露国とても断じて寝返りせぬとは保し難い。

ハンガリーおよびポーランド地方に至りては、宗旨の関係からことに仏国に対する同情厚く、それだけドイツとして後顧の憂いがないでもない。

 

殊に内にありても、社会党からは、ナ帝既に降参した以上は交戦の目的は既に達したわけであるから、よろしく無条件に即時講和すべしとの論も出て、国論漸く統一を欠くの恐れもあった。

 

ビスマルクはかかる形勢に鑑み、一刻も速やかにパリを陥落せしめ、一日も速やかに戦局を収拾せしめんと苦心した。

 

けれども重砲の輸送に手間取り、迅速にははかどらない。その間には、パリの攻陥は砲撃によらないで糧道を絶つことにより、おもむろに行うべしというが如き人道論も有力なる筋から出て、予定の作戦計画はそれらの牽制を受けて多少の狂いを生じた。

 

けれども結局百有余日を費やし、パリの方面だけに八千有余の損害を犠牲にし、ついに翌七一年一月二十四日、仏都は独軍の前に開城するに至ったのである。

この間におけるビスマルクの苦心は、詳らかに叙してその回顧録にある。

鉄血宰相ビスマルク傳 18 普王、ドイツ皇帝の冠を戴く - 片山英一’s blog