「唯ちゃんも言いたいことがあったら言ってよね。聞いてあげるんだから」
「無理だよ、朱美さんみたいに面白くなんか話せないもん」
「馬鹿ね、私みたいである必要なんかないじゃない。あなたにはあなたの、それこそ、私にはない可愛らしさがあるでしょ。それを磨いたら、あなたきっと誰よりもセクシーになれるはずよ」
「セクシーか。具体的にどういうことなの、私にもっとエッチになれってこと?」
「家庭的なんだけど、どこか開放的。ポイントはそこね。あなたが身内を大切に思う点はよく分かってるから、あとは、持ち前の可愛らしをもっとオープンにすればいいのよ。簡単でしょ」
「凡人だから、私」
「こっちはそんな風に思ってないから。別に誰かさんみたいに、男遊びしろって言ってるんじゃないんだからさ。同じ女として、いい女を観てみたいだけなの。独身に戻ったんだし私からしたらホント、チャンス再来。まだそんな気分じゃないかもしれないけど、早めに準備しとかないと、気になる男が現れても逃しちゃうわよ」
「そんな人、見つかるかな」
「ふーん。まさか、見つかるはずがない、と心底思っているわけじゃないみたいね」
「どうして」
「見れば分かるの」
「よく聞く台詞だな。そこんとこ、どなたか具体的に分かりやすく手短に説明してもらえないかな」
「あなた、ホントに気付いてないの、自分の魅力を。それとも気付いていてすっとぼけてるのかしら。だとしたら生娘じゃあるまいし、そんなことはやめなさいな」
「魅力的な女が離婚なんてするのかな」
「女の魅力と、男との相性は別だから」
「相性を見極める方法は?」
「とりあえず付き合う、と言いたいとこだけど、あなたには向かなさそうだから、そうね、まずは認めなさい、好意を抱く相手が現れたら、素直に好きだって。その上でじっくり観察するの。このじっくりってのが肝心で、気持ちに急かされちゃ駄目よ。じれったくて私向きじゃないけど、時間をかけるというのは一般的に万能な技術だと思うわ」
「じっくりか……」
もう昔から知っている相手でも同じだろうか、と聞いてみたくなる。朱美の話は聞いてる分には興味深く、色々引き出しを開けてみたい気にさせるのだ。
「その餃子もらっていい? このお店、適当に選んだのだけど味は悪くないわね。こういう勘というのは、上手く働く時とそうでない時がはっきりしているわ。こっちに来てからは比較的いい感じかしら。実はね……」
朱美も、気を許せる友人との久しぶりの時間に唇が滑らかになる。昨晩知り合った男との情事を話し始めた。
「関心しないよ、私は。そのうちきっと痛い目に遭うと思うよ」
「いいんじゃない。戦争以外で、まだ私が経験してないことだもの」
「不吉なこと言わないで。それさえなければ、朱美さん、ホントいい人なのに」
「お互い、それぞれが望む本当にいい女には今一歩のようね」
「どうして、旦那さんがそんなに嫌い?」
「私に興味を抱いてくれる男が他にもいることを楽しみたいの。今のうちしかできないことよ。そりゃあ私にだって、唯一無二の男ってものへの憧れはあるわ。でも無理でしょ、こんな国で。もうこの世は、欲望にまみれた者が活き活きできるのが道理じゃないかしら」
「ホントに活き活きしてる?」
「そう映らない?」
「分からない」
「子供のことを考えればね。けど、どうしようもない衝動があるの。今は無理でも、いつか説明できるようになりたいわ」
「もう説明できるんじゃない? 誰も聞き入れようとしないから話さないだけ」
「いいこと言ってくれるわね。だから好きなの、唯ちゃんのこと。賛同者ではないけど理解者。私がこんな感じでいられるのは唯ちゃんのおかげでもあるかもね」
「共犯者じゃないからね、頼りにしないでよ。別のことだったら、協力できれば協力したいとは思う」
「自分のことで手一杯なくせに。どうしても優し過ぎるのね。男は喜ぶだろうけど、友人には不安要素よ」
「はいはい、不安な行動してるのはどっちだか」
「はいはい。ほら、お酒進んでないわよ。もっと飲んで乱れないと今夜は帰さないんだから」
「はいはい」
「食べ物は?」
「お昼食べ過ぎちゃったから」
「意外と大食いなくせに何言ってんの。これとこれ、追加するから、付き合ってもらうわ。女の契りよ」
「仕方ない、契らせていただきます」
◇◇◇◇◇
厨房で、間真実の心中は穏やかではなかった。
手足の感覚がいつもと違う。集中力を欠き、次の作業を考えるのが遅れる、あるいは上ずる。頭に浮かぶ、あの日の斎藤の在り様が不快だ。
信じていたものは、自分に関心がなかった。厳しい優しさと思っていたものは、去りゆく人間の言い訳の恩着せですらあったのではないか。
手足の感覚だけではない、気持ちの乱れが味覚までおかしくしていく気がした。
「ういーっす、こにゃにゃちわー」
ここで、真実の気を知ってか知らずか、安西が厨房に。
真実の背後を涼しい顔で素通りしたら、唐突に世間話をしてくる。
「今朝ごみ出しに行ったらさあ、近所の奥さんと出くわして優しい微笑みを向けられたよ。ときどき出くわす人なんだけど、あんなのは初めてだったな。ありゃあ、あれだよ、もしかしてぇ、俺に気があるんじゃないか。なんちゃって。正直、顔はそんなにタイプじゃないんだけどね、体つきが……。
出産の経験がある女性はやっぱりちょっと違うよね。体つきに包容力というか深淵を感じる。この間さばいた牛のフェーザ(内腿肉)のようだね。いや、あれはジレッロ(尻肉)かも」
真実の耳には空気の振動でしかない。
「それに比べ男はなぁ、子供をつくったからって体に変化が起こることないじゃん。つまらない気がする。肉体の変化がさあ、内面まで変えることだってあると思うのに、男にはその機会がゼロなんだ。飲み食いし過ぎで痛風になるのは簡単なのに。
俺たちの仕事はさ、変化に敏感である必要があるじゃん。食材の旬、その日の天候、お客の嗜好、自分の体調、そのすべてに敏感になって昨日とまったく変わらない美味いものを創る。理由はどうあれ、味が変わる店は最低だ。変わりながらも変わらない技。それが、俺たちが求めるべき境地じゃないかな、って思う。だから……」
「何なんです、一体」
「え?」
「何なんですかと聞いたんです」
空気の振動もやかましければ耳障りとなる。
「のっけからセクハラ発言をしだしたかと思えば、急に哲人ぶって。誰かの真似でも? それとも情緒不安定ですか」
「それはなぁ……」
この後、安西は「今のお前に言われたくない」と続けようとしたが、やめた。続けていたら、きっとこんな風に進むとイメージが浮かんだ。
――どういう意味です?――
――そのまんま。厨房に入った瞬間分かった。気持ちは分かるけど――
――分かる?――
――好きだったんだろ、斎藤料理長のこと――
――出た、出ましたね。実に陳腐であるのに相手を理解しているような口ぶり。はあ、今の私の気持ちが私以外に分かるはずありません。安西さんのこと、元々尊敬していたわけではありませんが、今ははっきり、軽蔑させていただきます――
――俺は――
――軽蔑します――
――人の話を――
――しつこいと見下しますよ――
――この――
――さようなら――
まあこんな感じだろう……。
今の真実が耳を貸すとすれば、実は斎藤だ。耳を貸すというのは正確ではない。その口から、言い訳でも本音でもどちらでもいいから、面と向かって直接語ってもらいたい。それで最終的な判断がつく……。